「ブログ化する新聞」を待つ未来
紙媒体の新聞は、部数が減少の一途を辿っています。こうしたなか、新聞業界を待つのは、「新聞のブログ化」ではないでしょうか。世の中には、個人や中小企業などが運営するブログサイトが、下手な地方紙よりも多くのページビュー(PV)を集めている、というケースも出て来ています。こうしたなか、世の中の変化についていけていない新聞社もあるようです。果たして今年は新聞社にとって、どんな年になるのでしょうか。
目次
謹賀新年
新年、明けましておめでとうございます。
本年も当ウェブサイトをご愛読賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
新聞のブログ化
年頭に当たっての「新聞社説の読み比べ」をやめてしまった理由
さて、年初に個人的な体験談を述べておきます。
今から10年前まで、毎年必ずやっていたのが、「在京6紙(日経新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞、東京新聞)のすべてを買ってきて、それらの社説を読む」、という作業でした。
新聞というものが社会に対して与える影響が大きかったという事情もありますが、それと同時に、自分自身の頭を整理するとともに、各社の社説を読み比べることで、知的好奇心を刺激することに役立てる、ということも目的としていたのです。
ただ、正直に申し上げれば、新聞によっては「読んで知的好奇心を刺激される」ことはなく、それどころか、思わず「このメディアは、新年からいったいなにを言っているのだろうか?」と疑問に感じてしまうような代物の記事もいくつかありました。
というよりも、もうこの際申し上げてしまいますが、新聞の社説を読んで、「あぁ、参考になった」と思うことがほとんどないということに気付いてしまったのです。
結局のところ、新聞の社説を執筆しているのは、執筆しているのは私たちと同じ個人です。
もちろん、社説といえばその新聞社の「顔」のようなものですし、ましてや大新聞の社説ともなれば、それを執筆するのはその会社の「主筆」であったり、「論説委員」であったりしますが、逆に言えば、「権威性」といえばその執筆者がその新聞社の名前を背負っている、という部分くらいしかありません。
しかも、社説に書かれている内容自体、その手掛かりは、基本的には誰にでも入手できる情報ばかりですし、ちょっと気の利いた個人が執筆したブログ記事の方が、読んでいてぐいぐい引き込まれていく、ということもあります(※このあたり、感じ方には個人差もあるとは思いますが…)。
ある年からは、新聞の社説を読むのをスパッとやめてしまいました。
もう少し、時間とカネの良い使い方があると思ったからです。
新聞社説のブログ化?いえいえ、論壇の多様化ですよ!
こうしたなか、とあるブロガーの方が、「新聞社説がブログ化している」とご指摘になられていたのを覚えています。
この方は、「新聞社説もブログ程度のレベルにまで落ちている」という意味でそうおっしゃったのかもしれませんが、正直、少し失礼な言い方でもあります。
もちろん、ブログも玉石混交ですし、なかには読んでいて、どうも首をかしげてしまうようなものもあることもたしかです。しかし、世の中のブログ記事を読んでいると、新聞社説などよりも、はるかに世相を鋭く切り取っている、優れた記事に出会うこともあります。
数年前から当ウェブサイトで申し上げているとおり、インターネットの出現は、現在進行形で、「論壇」というものを、良い方向に、大きく変えつつあります。
それが、論壇の多様化であり、そしてキーワードは、「参入障壁」です。
インターネット環境が普及する以前であれば、人々が日常的に最も多く読む「文章」は、たいていの場合、新聞だったのではないかと思います。
新聞は休刊日を除き、基本的に毎日刊行されます。多くの家庭では新聞を定期購読していたはずですし、朝起きてまずはポストに入っている新聞を手にするという習慣の人も多かったのではないかと思います。
これを「情報を提供する側」から見れば、「日々、不特定多数の人に向けて情報を発信すること」が非常に難しかった、という意味でもあります。もしも自分自身が毎日のように情報を発信する立場になりたければ、頑張って勉強し、新聞記者になるくらいしか方法がなかったのです。
また、仮にたくさんのおカネを持っていたとしても、新聞業には新規参入するのが難しかったのも間違いありません。日本の場合は基本的に新聞の宅配網が完成していて、新しく新聞を創刊したとしても、それを各家庭に届ける手段が限られているからです。
つまり、「簡単に新聞記者になることもできない」し、「簡単に新聞業を創業することもできない」という意味で、まさに論壇に入るための「参入障壁」が、非常に高かったのです。
参入障壁撤廃による論壇の多様化
こうしたなかで出現したのが、インターネットです。
インターネットという社会変革の最たるものは、「誰でもその気になれば、不特定多数の人に対し、毎日のように、気軽に情報を発信することができるようになった」、という点にあります。つまり、ウェブ評論への参入障壁は、大変に低くなったのです。
当ウェブサイトのようなウェブ評論サイトもそうですし、世の中の圧倒的多くのブログサイト、まとめサイト、専門サイトなどもそうですが、個人、あるいは中小企業が経営しているというケースもあるようです。
ウェブサイトを開設する方法は、実際のところ、とても簡単です。
大手ブログ会社の無料ブログサービスを使っても良いですし、自分自身でレンタルサーバと契約し、ドメインを取得してウェブサイトを開設しても構いませんが、どのやり方を取るにしても、基本的にはすべての手続がウェブ上で完結してしまいます。
極端な話、1時間もあれば新しいウェブサイトをセットアップすることができてしまいます(※著者自身、すでにいくつかのウェブサイトを運営した実績を持っていて、慣れているためでしょうか、昨年新しいウェブサイトを立ち上げたときには、ものの10分で手続が完了してしまいました。)
競争が激しいウェブ論壇
ただし、ウェブ評論自体、始めるのが簡単だという事情もありますが、それと同時にウェブ評論で生計を立てていくこと自体が難しいのもまた間違いありません。無名なサイトであれば、結局のところ、「書いている内容が面白いかどうか」で勝負するしかないからです。
これに加えて、頑張って読者を獲得したとしても、それを収益に変えるのが大変に難しいというのも事実です。当ウェブサイトの場合もそうですが、世の中の圧倒的多くのウェブサイトが広告収入に依存していて、なかなか「有料記事」というものは作れません。
現時点で個人レベルで運営するウェブサイトには「課金する技術」があまり多くないという点もさることながら、世の中に「わざわざカネを払ってまで、無名のウェブサイトの記事を読もう」という物好きな人は、決して多くないでしょう。
だからこそ、結局のところ、最初のステップとしては「とにかく記事をたくさん書き、ウェブサイトのページビュー(PV)を獲得していく」以外に方法はありません。
この点、ウェブサイト同士のPV獲得競争が激しいためでしょうか、なかには過激な「タイトル詐欺」で読者を釣ろうとしているサイトも存在していることは事実でしょう。ただ、仮に過激な「タイトル詐欺」記事で一時的にPVを稼ぐのに成功しても、中・長期的に見れば、そのようなサイトは淘汰されていきます。
やはり定的に読者を獲得しようと思えば、そのウェブサイトに書かれている内容自体にオリジナリティがあること、「読んでいて面白い」と思ってもらうこと――など、何らかの「魅力」が必要です。
だからこそ、ウェブ評論活動をやろうと思えば、常に情報をインプットし続けなければなりませんし、知識水準を最新に保たねばなりません。
じつは、これこそが紙媒体の新聞との大きな違いではないでしょうか。
新聞の場合だと、「XX新聞」という看板を背負っていれば、それだけで記者が書いた文章は一般の人々に読んでもらえます。やはり、長年のブランドの影響は、大変に大きいのです。
そして、新聞社が設けているウェブサイトも、やはり、一般のブログサイトなどと比べれば、最初から多くのアクセスが得られますし、広告収入もそれなりに入ってくるほか、運が良ければ有料読者登録をしてくれる人もいるでしょう。
このあたりは、やはり「不特定多数の人々に対し、日常的に情報を提供する」という意味では、新聞社には一日の長があります。
紙媒体の新聞の部数が絶賛急減中
ただし、ひとつのここで重大な変化があるとしたら、新聞社自身もいずれは紙媒体の新聞ではなく、インターネット上で勝負せざるを得なくなる状況が、否応なく生じていることです。
『データで読む:歯止めがかからない新聞の発行部数減少』でも紹介しましたが、一般社団法人日本新聞協会が公表する『新聞の発行部数と世帯数の推移』というデータによると、新聞の合計発行部数(※朝夕刊セット部数を1部とカウントした場合)は、20年あまりで40%近く減少しました。
また、「朝夕刊セット部数」を「朝刊1部、夕刊1部、合計2部」と分解してみると、朝夕刊の合計部数は2000年と比べてじつに50%近く減少しています。
これをまとめたものが、次の図表1です。
図表1 2000年と2021年を比較した部数
区分 | 2021年の部数 | 2000年との比較 |
---|---|---|
合計(※セットを1部とカウントした場合) | 3303万部 | ▲2068万部(▲38.51%) |
うち、セット部数 | 648万部 | ▲1170万部(▲64.34%) |
うち、朝刊単独部数 | 2591万部 | ▲779万部(▲23.11%) |
うち、夕刊単独部数 | 63万部 | ▲119万部(▲65.46%) |
合計(※セットを2部とカウントした場合) | 3951万部 | ▲3238万部(▲45.04%) |
うち、朝刊部数 | 3240万部 | ▲1949万部(▲37.56%) |
うち、夕刊部数 | 711万部 | ▲1289万部(▲64.45%) |
(【出所】日本新聞協会『新聞の発行部数と世帯数の推移』より著者作成。なお、図表中、「朝刊部数」は「セット部数+朝刊単独部数」、「夕刊部数」は「セット部数+夕刊単独部数」を意味する)
それも、朝刊の部数については、(カウント方法にもよりますが)2000年と比べてまだ減り方はそこまで激しくありませんが、夕刊に関しては65%も減少(つまり3分の1に減少)しているのです。
朝刊の減り方が夕刊と比べて緩やかである理由としては、「昔からの習慣で読み続ける人が多いから」、「地方紙の場合は訃報欄などを読む需要があるから」、「ビジネス需要があるから」、「押し紙で部数を水増ししているから」、など、さまざまな仮説が成り立つところではあります。
この点、この20年余における朝刊単独部数(図表2)と夕刊単独部数(図表3)を比べると、夕刊単独部数については一貫して減少し続けているのに対し、朝刊単独部数が目に見えて減少に転じ始めたのは、ここ数年のことでもあります。
図表2 朝刊単独部数
(【出所】日本新聞協会『新聞の発行部数と世帯数の推移』より著者作成)
図表3 夕刊単独部数
(【出所】日本新聞協会『新聞の発行部数と世帯数の推移』より著者作成)
これまで、朝刊の減少速度が夕刊と比べて緩やかだったというのはそのとおりですが、いったん減少に転じ始めた朝刊単独部数の減少に歯止めがかかるのかどうかに関しては、注視する価値はあるかもしれません。
まさに、新聞紙は「滅びゆく存在」なのです。
新聞社の未来
新聞がブログ等と同じ土俵で勝負したら…?
いずれにせよ、紙媒体の新聞の部数が減っているという事実が示唆するものは、「新聞社がインターネット上で勝負せざるを得なくなりつつある」、ということでもあります。
そして、新聞のウェブ版とは、「紙で発行していた記事をそのままネット化したもの」ではありません。
その最大の違いは、新聞がブログやウェブ評論サイトなどと同じ土俵で勝負すること――すなわち、「熾烈なPV競争にさらされている」という点にあります。
そもそも論ですが、紙媒体の新聞は、大手全国紙の場合、月額購読料が4000円を超えるという高価なものです。多くの家庭において、2つも3つも新聞を購読するだけの経済的余裕はありません。
だからこそ、世の中にインターネットが存在しなかった時代であれば、ひとつの家庭が購読する新聞は1紙、という事例が多く、その家庭では、「自分が取っている新聞以外の新聞を読み比べる」、ということをあまりしていなかったのではないかと思います。
ところが、現代社会では、インターネットがあります。
きょうび、成人の社会人であれば、1人1台以上、スマートフォンなどを所有しているのではないかと思いますし、スマホが1台あれば、たいていのニューズサイトを訪れることができます。
そうなると、同じ話題でも、「A新聞はこう書いてあったが、Y新聞にはこう書かれている」、という具合に、同じ話題を複数のウェブサイトで気軽に確認することができてしまいます。
すなわち、「不特定多数の人々に対し、情報を発信する」という行為に対する参入障壁が大きく下がったことで、結果的に、情報発信者同士での熾烈な競争が発生している、ということであり、こうした競争から大手新聞社も無縁ではいられなくなってしまった、ということです。
さらには、新聞の有料読者契約がどこまで浸透するか、という論点もあります。
インターネットがなかった時代に「無料で情報を得る」ということは考え辛かったのですが、現代社会だと、インターネットを通じて多くの情報が無料で手に入ります(※ただし、スマホなどのデバイス代金、通信代などは別途必要ですが…)。
新聞社説のブログ化の本当の意味
このように考えていくと、「新聞社説のブログ化」が本当に意味するものとは、新聞がブログサイト、ウェブ評論サイトなどと同じ土俵で戦わねばならなくなる、ということだと気付きます。
もちろん、「有料読者限定記事」なるものを掲載し、記事の提供そのものでカネを取る、というビジネスモデルについては、一概に否定されるものではありません。
とくに新聞社の場合だと、記者クラブなどの制度を通じ、官庁などから独占的・優先的に一次情報を受け取ることができる仕組みが存在していますし、また、一部の敏腕記者が、ときどき(ほんとうにごく稀に、ですが)、スクープ記事を発信することもないわけではないからです。
しかし、非常に残念なことに、こうした「一次情報」などを除けば、新聞社のブログ等に対する優位性は、揺らいでいるというのが実情でしょうし、それほど情報発信基盤が強くない地方紙の場合だと、下手な個人ブログよりもPVが少ない、という事例が出て来ます。
これに加えて、「どうやって収益化するか」――、すなわち先ほども指摘した、「ブログやウェブ評論サイトでは有料サイト・課金サイトを運営するのが難しい」と申し上げたのと同じ論点に、多くの新聞社も直面せざるを得ないのです。
諸外国のケースでも、新聞社や通信社のなかで、有料ウェブサイト戦略で成功しているのは経済・金融紙などに限られている、といった話を耳にしますが、言い換えれば、一般紙を有料化しようと思っても、現実にはなかなか難しい、ということでもあります。
不動産業?それとも?
そうなると、多くの新聞社にとっては、「滅びゆく紙媒体にしがみつく」「ウェブ戦略を何とか展開する」というものを除けば、ビジネスモデルは基本的に、次のいずれかにならざるを得ないのではないでしょうか。
- ①所有する自社ビルをテナントに貸し出す(不動産業)
- ②所有する輪転機を使い、某宗教関連団体の機関紙の印刷を受託する
- ③外国政府からカネをもらい、その国の意向に沿った記事を書きまくる
①のビジネスモデルについては、『朝日新聞社半期決算は意外と堅調』でも述べたとおり、現実に株式会社朝日新聞社が採用しているものです。
具体的には、セグメント別情報を確認する限り、2021年9月期(中間期)の営業利益30億円少々のうち、3分の2を不動産事業が稼ぎ出しているからです(図表4)。
図表4 株式会社朝日新聞社・セグメント利益
セグメント | 20年9月 | 21年9月 | 増減 |
---|---|---|---|
メディア・コンテンツ事業 | ▲116億円 | 10億円 | +126億円 |
不動産事業 | 24億円 | 22億円 | ▲3億円 |
その他の事業 | ▲1億円 | ▲1億円 | ▲0億円 |
合計 | ▲93億円 | 30億円 | +123億円 |
(【出所】株式会社朝日新聞社・2021年9月期半期報告書より著者作成)
極端な言い方をすれば、過去の事業の蓄積で優良資産をたくさん抱えている新聞社の場合、不動産業などを「本業」に据え、「メディア・コンテンツ事業」を「副業」扱いにすれば、経営のやり方次第では、新聞部門が大赤字であっても問題なく事業を継続することができます。
ただ、「実質債務超過状態にある某メディア」(『「実質債務超過」も疑われる、某新聞社の決算公告画像』等参照)のように、不動産業などが存在していないような事例だと、早ければ今年を含めたごく近い将来において、本格的に事業が危なくなってくるかもしれません。
そうなれば、結局のところは外国政府からおカネをもらってその国の意向に沿った記事を書きまくる、といったことをするかもしれません。
まさに、貧すれば鈍する、といったところでしょう。
和田議員vs神奈川新聞
こうしたなか、一部の新聞社の「情報発信」に対する態度を見ていると、どうもインターネット時代というものをまったく理解していないのではないかと思われるものもあるようです。
ウェブ評論を行っていると、ひとつひとつのPVを大切にしなければならない、というのは、ウェブ戦略の鉄則でもあります。
しかし、昨年の『ネット化で個人が新聞社を上回る情報伝達力を持つ時代』でも議論しましたが、どうも一部の新聞社は、反対する立場の人に読ませたくないためでしょうか、特定の記事をわざと「有料読者限定記事」にして、一般読者には読めなくしてしまっているようなのです。
具体的には、自民党の参議院議員の和田政宗氏が街頭で演説をしていた際、「一部の新聞社から暴力的な取材を受けた」、「神奈川新聞が掲載した私の発言が完全に捏造だった」などと述べている、という事例で、神奈川新聞の該当する記事を読もうとしたら、有料版限定記事のため、読めなかった、というものです。
正直、どの記事を一般公開し、どの記事を「有料読者限定版記事」に指定するかについては、各新聞社の判断ですので、私たち外部者がどうのこうの言うべき筋合いのものではありません。
ただ、あくまでも一般論で申し上げるならば、ウェブサイトの世界における「拡散する力」を見くびるべきではありません。
とくに、和田参議院議員といえば、ツイッターのフォロワー数が25万人を超えています。国会議員というお立場とはいえ、個人でありながら軽く神奈川新聞のフォロワー数とほぼ同じであり、情報発信力が大変に強いという人物でもあります。
そして、この和田議員と神奈川新聞のやり取りについては、多くの人は和田議員の言い分のみを知ることができ、神奈川新聞の言い分の妥当性を知ることはできません。なぜなら、神奈川新聞が該当する記事を有料版に指定してしまっているからです。
すなわち、どうもこうした一部新聞社の行動は、インターネット時代の情報拡散力を甘く見すぎるあまり、自分で自分の首を絞めているようにしか見えないのです。
北海道新聞の「noindexタグ」事件
似たような事例は、他にもあります。
昨年6月22日、北海道新聞の記者が大学の建物内に無断侵入したとして私人逮捕された、という事件が発生しました(『許されない違法取材:新聞記者、建造物侵入容疑で逮捕』等参照)。
ところが、これに関して北海道新聞社自身が社内調査報告をまとめたのですが、肝心のその報告書に関する記事が「会員限定記事」に指定されたうえ、検索除けのための「noindex」と呼ばれるタグを仕込んでいたのです(『社内調査報告記事にnoindex設定した北海道新聞』等参照)。
正直、自社が取材活動という名目で違法行為をしておきながら、それを社会に対して申し開きすべき局面で、会員限定記事にしたうえで検索除けを設定するという態度そのものが、インターネット空間を舐めた行為でもあります。
「会員限定公開」、「 “noindex” タグ設定」、どちらも「報告書を読ませてやる」、という態度にしか見えません。「読みたければ検索エンジンを使わずに自分で記事を探せ」、「そのうえで、当ウェブサイトに読者登録をしたら読ませてやる」、という主張に聞こえるからです。
ちなみにJ-CASTニュースというウェブサイトには、本件を巡ってこんな記事が掲載されていました。
記者逮捕の調査報告「会員限定」に 北海道新聞の対応に疑問相次ぐも…同紙は反論「指摘は当たらない」
―――2021年07月07日19時00分付 J-CASTニュースより
そして、このJ-CASTの記事によると、問題の北海道新聞の記事には、こんなことが書かれていたのだそうです。
「北海道新聞社は、一線の記者たちが安心して取材できる環境をあらためてつくるとともに、今回の事件にひるむことなく、国民の『知る権利』のために尽くしてまいります」(※下線部は引用者による加工)。
なにかの冗談でしょうか。
「会員限定公開」、「 “noindex” タグ設定」という行動自体、どう考えても「国民の知る権利」とは逆行する行動ではないでしょうか。
今年はどんな年でしょうか?
いずれにせよ、昨年も紙媒体の新聞を巡っては大変興味深い話題が多数出て来ていました。
もしかすると新聞業界は、今年も社会を何かとお騒がせするのかもしれない、などと思う次第です。
本文は以上です。
日韓関係が特殊なのではなく、韓国が特殊なのだ―――。
— 新宿会計士 (@shinjukuacc) September 22, 2024
そんな日韓関係論を巡って、素晴らしい書籍が出てきた。鈴置高史氏著『韓国消滅』(https://t.co/PKOiMb9a7T)。
日韓関係問題に関心がある人だけでなく、日本人全てに読んでほしい良著。
読者コメント欄はこのあとに続きます。当ウェブサイトは読者コメントも読みごたえがありますので、ぜひ、ご一読ください。なお、現在、「ランキング」に参加しています。「知的好奇心を刺激される記事だ」と思った方はランキングバナーをクリックしてください。
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新年早々,面白い記事を読ませて頂き有難うございます.
>とあるブロガーの方が、「新聞社説がブログ化している」とご指摘になられていたのを覚えています。
なるほど.もっとも妄想同然の根拠のない妄言を垂れ流す新聞社説よりもずっとちゃんと事実に即した記事を載せてくれるブログも世の中には数は少ないですが確かに存在しているので,その言い方は少なくとも一部のブロガーには極めて失礼だと思います.
その言い方を借りれば,新聞と共にマスゴミ界を牽引しているもう一つの雄(よりも「憂」と書くのが適切か?)であるテレビに関しては「テレビのニュースやワイドショー(情報番組)のアナウンサーや解説者はユーチューバー化している」と言うのが適切かも知れませんね.もっともこちらもちゃんとした内容のあるパクリでない番組をオリジナルに作っているまともなユーチューバーには失礼な言い方ですが.
おはようございます。土日に加えお正月も情報発信いただきありがとうございます。本日のサンケイデジタル1面の社説をご紹介させていただきます。題名だけで十分かと思います。
—-さらば「おめでたい憲法」よ(by乾論説委員長)—
お邪魔いたしました。
国民が持っているのは「知る権利」です。
彼らが行使したいのは「恣意る権利」です。
・ラベリングを恣(ホシイママ)にすることです。
カズさま
今朝のはちょっとむつかし過ぎました、か、も。
「新聞記者を運転席に座らせるな」
「国家のハンドルを握っているのは新聞社ではない」
こっちのほうが分かりやすいと思います。
はにわファクトリーさま
*恣意る権利
ラベリングにかけて”レッテル(恣意る=シール)”としたかったんですけど、解りにくかったですね。
本年もよろしくお願いいたします。
カズ様、
日本共産党恣意委員長
昔は刻々変動する株価を知る手段は限られていた。昭和のころ、ある一般会社で株式投資を担当する課長が1日中電話を耳に当て、電話の向こう側にいる証券会社の担当者からタイムリーな株価情報を得ながら注文をだしているのを目撃したことがある。(証券会社の担当者は社内にある電光ボードを見ていたのだろう)取引時間中、証券会社の社員1名を独占するという贅沢なことをしていた。一般の株式投資家でも証券会社の店頭の椅子に座って株価を示すボードを見ているというのは当たり前の光景だった。インターネットの出現とネット環境の改善で、今では家庭で刻々動く株価を見ながら取引することができるし、同時に会社の最新決算、予想、さらにはいろいろなランキングも見ることができる。
このような状況でも新聞は全上場株式約3800銘柄の株価を紙に印刷して朝刊と夕刊に掲載している。(朝刊には前日のデータ、夕刊にはその日の午前中のデータを)このようなものを使っている人はいるのだろうか。12月30日の日経朝刊が手元にあるが、全34面のうち5面が株式データだ。(なお34面のうち同じく5面は全面広告)
メディアは政府がデジタル化に遅れていることを嘲笑しているが、こういうのを見ると「おまえに言われたくない」ということになる。この株式欄を廃止し、この5面以外にあるマーケット分析面だけにすれば新聞は34面から29面で15%紙面が減る。紙面が減れば紙とインクに輸送費も減りCO2削減にもなる。日経がやめれば他紙もやめるはずだ。(日経以外の新聞の株式欄は日経から配信されている)
明けましておめでとう御座います
今年も宜しくお願いします
新聞は、遅い情報を高い値段でかさばる紙に競争なくと、売れなくなる理由ばかりです。
これを逆にしたら売れるのか?
早い情報を無料でネットに競争してとしても、今あるブログと何が違うのだろうか。
やはり、遅くともお金を払っても買いたくなる紙面を作っていくしかないのかも知れません。
ただ、その様な顧客の絶対数は少ないと思われます。
ので、少ない顧客でも経営が揺らがない様に規模を縮小していくのではないでしょうか。
朝日新聞も、普通の新聞にならずに今までの様に日本の悪口をいい、政府の疑惑を追及し、中韓に謝罪をする様な紙面にする事で一定数の顧客は確保できます。
ただ、その様な顧客は年とともに寿命で減少するのが難点です。
明けましておめでとうございます。
>インターネット時代というものをまったく理解していないのではないかと思われるものもある
今回の記事では、この一文が気になりました。今までのマスコミの報道スタイルを見ていると「理解した上で逃避している」のではないか、と常々感じるからです。
十年以上前の毎日変態新聞事件以来、マスコミはネットの情報力に怯え、憎み続けてきました。しかし民主政権終了後、何をやっても安倍政権がほとんどグラつかなくなり、その次の菅政権もコロナと言う未曽有の危機があったのにも関わらず崩せなかった事で自信を失ったのではないかと。
最近の選挙でも立憲民主党と共産党が事前の自画自賛っぷりに比べるとかなり期待外れな結果に終わり、岸田政権を上手く責められず、未だにモリカケサクラにすがっている有様。
マスコミはもう
「新時代にはついていけない、適応できないから諦めよう」
「従来の報道スタンスで喜んでくれる相手にだけ商売しよう」
「批判されても耳を塞ぎ続け、反論は試みない様にしよう」
「それで食べていけなくなったら店をたたもう」
こんな風に敗北主義で開き直っているのではないかと思います。特に「自分が引退するくらいまでは持つだろう」と判断している上層部はそれでも老後が安泰な訳ですしね。
百貨店の末路と新聞の末路。
首都圏の百貨店は次々に専門店にとってかわられた。
有楽町そごうはビックカメラに池袋三越はヤマダ電機、横浜三越はヨドバシカメラになってしまった。川崎駅前には4つの百貨店があったが、今はゼロ。跡地は専門店街になっている。
地方百貨店などとっくに閉店ラッシュで今残っているところは少ない。
百貨店は隆盛のころから「何でもあるけど欲しいものがない」といわれていた。
つまり消費者の嗜好が細分化しているのに、誰もがほしがりそうなものを店頭に並べていたのだろう。そのような状況でも百貨店は長年の「場所貸し」のビジネスモデルでバイヤーの実力がなくなり専門店の軍門に降ったというのが私の見立てだ。
紙の新聞もいずれ百貨店と同じ末路をたどるのではないだろうか。
いろいろ書いてあるが読みたいものがない。たまにあっても深掘りがない。人は読みたいものを読む。ネットで調べればたいていのことがわかる状況で月4000円だして購読を続けるだろうか。百貨店と同じように「専門化」が生き残る道ではないか。朝日新聞は「反日専門新聞」になった方がすっきりするのでは。夕刊をやめて20-30万部で生き残る。競争相手は赤旗。当然現在の記者は余るから朝日が所有するビルの管理業務をやる。(プライドがゆるさないか)
雑誌ではこのタイプの専門誌は存在する。例えば「週刊金曜日」。1万部程度でも生きている。
でも、ビックカメラやヨドバシカメラは既にカメラ専門店でなく百貨店化してないか?
「欲しいもの」というのが、百貨店では『よそ行き』『お使い物』『一張羅』、一方ビックやヨドバシでは『いま、自分ん家で使いたいもの』のような違いがあると思います。フォーマルな服など、分からなかったら百貨店で聞いて選べば間違いない、という感覚のひとも昔は多かったのでは…
スーパーマーケットは営業時間拡大でコンビニ化、コンビニは公共料金支払いとATM(新聞じゃないほう)で金融機関を兼ね、ドラッグストアも酒パン菓子ジュース牛乳カット野菜まで置いてスーパーマーケット化、家電量販店はリフォーム・不動産も扱うようになり、今はどこも百貨店だか何屋だか分からんようになってきました。
インターネットやSNSの普及がマスメディアによる情報独占を崩したという点については全く異論ありません。特に、情報発信に関して、媒体を独占することによって生まれたと思われる、歪んだ特権意識を破壊した(今でも勘違いしている輩は多数いますが)ことは、けして悪いことではないとつくづく思います。「独占」は利権と特権意識の根源ですから。
しかしながら、そのような「情報発信の民主化」とでもいうべき事態が、何をもたらしうるのかということを考えると、手放しで歓迎するべき事態であるのかどうか、確信を持てません。日本に限らず、世界のあちこちで進行しているように見える、価値観の細分化、さらには細分化された価値観の先鋭化による社会の分断化の激化は、情報発信の民主化が一つの要因なのではないかという疑問が頭から離れません。その上でさらに、「価値観の多様化」という一つの価値観が、無条件に正しいこととして押し付けられつつあるという逆説的な事態が起きているようにも思えます。実はこれは逆説でも何でもなくて、単に価値観のメタレベルを混同しているがための錯覚なんですが、現実的には、そのようなことを意識すらしていない人が多いように思えます。人によっては、「逆説的」であるとすら思っていないでしょう。
所謂権威主義国家においては、「情報発信の民主化」は敵視されており、力づくで抑え込もうとしています。その一方で、民主主義国家においては「情報発信の民主化」はもはや押しとどめることなどできず、今後も進行し続けるでしょうし、また、いずれは紙も電波も媒体の一つとして、ネット上の情報空間と等価値になっていくでしょう。どちらが「あるべき正しい姿」であるのか、現時点では明快な解は出ていないように思います。「情報発信の民主化が押しつぶされて窒息しそうではあるけど、安定性は保たれている(ように見える)社会」か「情報発信の民主化が極限まで進んだ結果、人々が果てしなく分断され、安定性を欠いた社会」か、あえて極端に言えば、そのどちらかが待っているという可能性もあると思っています。
個人的には、マスメディアによる情報独占の打破は良いことだと思ってはいますが、その先に本当に「より良い世界」が待っているのかどうか、今のところ解を見つけられません。
その時その時の速報で新聞がWebに勝つのもはや有り得ず、それどころか30年前でもテレビにかなわなかったでしょうですが、いちおう一定の方針で選んだ情報なり論説なりを定型フォーマットに落とし、それを何十年も継続して蓄積している重みは大きいと思います。(似たようなことを数日前に紅白歌合戦の件で書いたような….)
Web上の情報や議論がいま時点で新聞を凌駕していても、数年後~十数年後も新聞より重視できる情報として残っているか、私は確証が持てません。新聞が発行されている限り、誤った記事や底の浅い論説は批判し訂正させなければならないでしょう。
インターネットと新聞が同じ土俵ということは、読者は各ブログもまた見比べて情報や主張を判断しないといけないということ。
どちらもただの情報発信元でしかないのだから。
これでまた、どこそこのブログが言っているから正しいなんて人達だらけになったら、元の時代に逆戻りになると思います。
そうはならないことを祈りたいものです。
独断と偏見かもしれないと、お断りしてコメントさせていただきます。
(そう自分に言い聞かせないと、自分が間違えない存在と自惚れてしまうので)
昨年の朝日新聞に、社外の人間が書いた記事に、「新聞読者の少子化が進んでいる」、「プログが一品料理で、新聞はコース料理。(個人的には、そのコース料理が美味しいかは別の話だと思うのですが)」、「新聞も、そのコース料理のなかに、目玉料理をつくるべきだ」と、ありました。小さな記事ですし、編集が見逃したのかもしれませんし、第二の池上彰事件を恐れたのかもしれませんが、「朝日新聞の延命策を社外の人間に書いてもらった」と考えるのは考えすぎでしょうか。
蛇足ですが、「(報道の正確さでも、速報性でもなく)「自分は、長年、愛読してきた新聞を読まないと安心できない」という人に安心感を与えるために、新聞という精神安定剤を出している」と言われれば、それまでではないでしょうか。(精神安定剤ではなく、依存性のある一種の麻薬のような気もしますが)
駄文にて失礼しました。
元同僚から2枚、年賀状を貰った。彼もとうとう・・・と思いながら、新聞に目を通そうとしたとき、元日の新聞にしては、ボリュウムがメッチャ少ないことに気が付いた。昔の元日の新聞は、本編の他、別刷が3,4部あって、総ページ数が80ページはあったのに、今朝の新聞は、高々、40ページ。実質値上げかいなと思いました。
ブロガーの多彩で自由な意見は参考になりますが、ソースの記事やデータがない事にはブログも書けませんから、新聞社は無くなっても現場で取材をする記者は必要ですね。新聞社が無くなったら誰が取材をするのでしょう?
共同通信や時事通信、ロイターやAFPなどが取材を行うのでは?
新聞紙の枚数が少なくなったような・・・
図書館で昔の新聞見れるから、昔の新聞の枚数と比較してみるかな
文字も大きくなっていますので、時間と気力が許せば字数も数えて比較すると更に違いが出そうです。言うだけ言ってすみません….