「国語力崩壊の惨状」とはさすがに議論が飛躍しすぎ?
ウェブ評論サイト『文春オンライン』に昨日、『ごんぎつね』を小学生が誤読したというエピソードなどをもとに、「いま学校で起こっている国語力崩壊の惨状」、などと議論する記事が出ていました。ただ、大変申し訳ないのですが、この著者の方の「個別の事例から全体の問題点につなげる」という議論の運び方には、極めて大きな問題があるように見受けられます。
最近の若者は、なっとらん!
「まったく、最近の若者ときたら!」
「若者には常識もない!」
「最近の若い者は、なっとらん!」
…。
このように、「最近の若者」を批判する意見というのは、一説によると、古代ギリシャの哲学者・プラトンの書にも登場するくらい、むかしから頻繁に見られていた表現なのだそうです。
いわく、「最近の若者は軟弱だ」、「最近は言葉が乱れている」、「もう日本はお終いだ!」…。
著者自身もすでに社会的には「若者」と呼ばれる年齢を大きく越えているのですが、先日、久しぶりに学生時代の友人と会ったときに、その友人が「うちの会社の若い奴はとにかく社会常識も知らん」、「俺たちの若いころは」…、などと述べていて辟易とした記憶があります。
そういえば、今から何十年も前の学生時代、テレビにも出演されているほどの有名人の方が執筆した書籍にも、「最近の若い奴には遊び心がない」、「俺たちが若いころは、女の子にモテるために日焼けをしたり、スキーに行ったりしたものだ」、などと書かれていたのを思い出します。
喫煙の歴史
ただ、この手の「最近の若者は…」、という言説、個人的にはあまり好きではありません。正直、言語も文化も、あるいは社会常識すらも、どんどんと変化していくのが通常ですし、変化する前のものが正しくて、変化したあとのものが間違っている、などとは言えないものです。
たとえば、喫煙ひとつとってもそうでしょう。
読者の皆さまのなかでも、とくに昭和以前の生まれの方ならば記憶されている方も多いと思いますが、かつては鉄道の車内でも、喫煙車にのれば、タバコを吸うことが可能でした。
しかし、『乗りものニュース』というウェブサイトに掲載された次の記事によると、2020年4月1日に改正健康増進法が施行されたことに伴い、鉄道や船舶を含む「多数の者が利用する施設」での原則屋内禁煙が義務化され、多くの鉄道車両から「喫煙席」が姿を消すことになったと説明されています。
消える列車の喫煙席 近鉄特急 700系新幹線 ただ喫煙車はサンライズで存続予定 なぜ?
―――2020.02.09付 乗りものニュースより
『エルゴジャパン』というウェブサイトに掲載された次の記事によると、鉄道の「分煙」の歴史は1900年の「鉄道営業法」という法律に始まったのだそうであり、およそ120年をかけて分煙、さらには車内禁煙へと進化を遂げてきた、という経緯があるのだそうです。
過去から現代における喫煙と分煙の歴史
―――2022.7.5付 ERGOJAPANより
タバコひとつとってもそうなのですから、社会常識はどんどんと変わっていものです(個人的には、あと一歩踏み込んで、「歩行喫煙そのもの」を禁止する法制を期待したいと思う次第ですが…)。
ちなみにどこかの怪しげなウェブサイトでは、「令和生まれの若者の社会常識のなさ」について議論したという、次のような駄文が掲載されていたようですが、これなどはもう論外でしょう。
【最近の若者は…】約1年で令和世代はどう変わったか
―――2022/07/07 07:07付 新宿会計士の政治経済評論より
清少納言さんに対する嫌味ですか?
こうしたなか、ウェブ評論サイト『文春オンライン』に昨日、ちょっと気になる記事が出ていました。
『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……●●●●が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状
―――2022/07/30付 文春オンラインより
記事タイトルには記事執筆者の方の名前が入っているので伏せています。
記事タイトルでもわかるとおり、「いま学校で国語力の崩壊が発生している」と訴えかけるものです。著者の方は「少年犯罪から虐待家庭、不登校、引きこもりまで、現代の子供たちが直面する様々な問題を取材してきた」という作家の方ですが、これがなかなかに強烈な記事です。著者の方は最近の子供が「文脈をロジカルに読み解く力自体も弱まっている」としつつ、次のように述べるからです。
「それ以上に深刻なのは、他者の気持ちを想像したり、物事を社会のなかで位置づけて考えたりする本質的な国語力――つまり生きる力と密接に結びついた思考力や共感性の乏しい子が増えている現実です」。
これは、いったいどういうことでしょうか。
著者の方は、「不登校や虐待など、子供たちが抱えた生き辛さ」をめぐる長年の取材を通じ、すべての子に共通する問題点が「言葉の脆弱性」だと指摘。次のように述べます。
「あらゆることを『ヤバイ』『エグイ』『●●』で表現する子供たちを想像してみてください。彼らはボキャブラリーが乏しいことによって、自分の感情をうまく言語化できない、論理的な思考ができない、双方向の話し合いができない――極端な場合には、困ったことが起きた瞬間にフリーズ(思考停止)してしまうんですね。これでは、より問題がこじれ、生きづらさが増すのは明らかです」(なお、発言のなかに当ウェブサイトに適さない表現が含まれていますので、該当する部分を削除しています)。
何でもかんでも「ヤバイ」、「エグイ」などと表現するのは大きな問題だ、というのが著者の方のご見解のようです。何でもかんでも「をかし」と表現した清少納言さんに対する当てつけでしょうか?(笑)
『かちかち山』という事例があってだな…
ただ、それ以上に驚くのは、都内の小学4年生の授業で『ごんぎつね』を「子供たちがとんでもない読み方をしている」というエピソードです。作中、主人公の「兵十」が死んだ母の葬儀の準備をしているシーンで、大きな鍋で何を煮込んでいるのかについて教師が尋ねたところ、生徒がこう答えた、というのです。
「各グループで話し合った子供たちが、『死んだお母さんを鍋に入れて消毒している』『死体を煮て溶かしている』と言いだしたんです」。
もちろん、正解は通夜振る舞いの準備をしている描写なのですが、子供たちはこれを「死体を煮ている」と「誤読」したわけです。これについて著者の方は、こう述べます。
「これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている」。
「単なる文章の読み間違えは、国語の練習問題と同じで、訂正すれば正しく読めます。でも、人の心情へのごく基本的な理解が欠如していると、本来間違えようのない箇所で珍解釈が出てきてしまうし、物語のテーマ性や情感をまったく把握できないんですね」…。
はて?
これを単純に「読解力の問題」とみるべきなのでしょうか?
単純に「時代が違うから」、あるいは単純に「通夜や葬儀を経験したことがある子供が少ないから」、といった要因もあるのではないでしょうか?そもそも『ごんぎつね』自体が1930年代に発表された新美南吉の作品ですが、通夜振る舞いなどの風俗も、もしかすると新美南吉の出身地や時代背景を反映している可能性もあります。
(※この点、「通夜振る舞い」自体を民俗学的に研究したデータもあるようですが、深入りするのは避けたいと思います。)
さらに指摘しておくならば、「鍋で死体を煮る」というシーンは、日本の昔話である『かちかち山』にも出てきます。昔話を知っている子なら、そのゆな仮説が出ても不思議ではありません(※いわゆる「婆汁」。なお、最近のバージョンでは、こうした描写はあまり出てこないこともあるようですが…)。
なお、授業で『ごんぎつね』をどこまで取り上げたのかは知りませんが、この子供たちの発言が「問題だ」というのならば、それは子供たちの問題ではなく、単純に教員の教え方の問題でしょう。
議論が飛躍しているのは記事の側では?
いずれにせよ、これを「読解力の問題」、「心情への基本的な理解の欠如」などと決めつけるのは、いただけません。議論が飛躍しているのは、むしろ記事の側ではないでしょうか?
実際、このリンク先の記事では、議論は「国語力の問題」から「教育問題」、あるいは「現代の子供の問題」を行ったり来たりします。つまり、この著者の方が調べた個別の事例が、あたかも社会全体における問題であるかのような決めつけが目に付くのです。
なお、『ごんぎつね』のエピソードについても、小学4年生くらいになれば、「通夜振る舞い」を入り口として、そこから日本における死生観、民俗学的風習などに議論を発展させていくと、こうした議論に興味を覚える子供も多いのではないでしょうか?
結局のところ、「さまざまな現象をロジカルかつ有機的に関連付けて議論を構築すること」ができていないのは、この著者の方なのかもしれませんね。
本文は以上です。
日韓関係が特殊なのではなく、韓国が特殊なのだ―――。
— 新宿会計士 (@shinjukuacc) September 22, 2024
そんな日韓関係論を巡って、素晴らしい書籍が出てきた。鈴置高史氏著『韓国消滅』(https://t.co/PKOiMb9a7T)。
日韓関係問題に関心がある人だけでなく、日本人全てに読んでほしい良著。
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典型的な老害で草
アゴラでも記事になっていました。
小学生が『ごんぎつね』を読めないから「国語力崩壊の惨状」に疑問の声 アゴラ編集部
https://agora-web.jp/archives/220731013715.html
発問が間違っているって指摘にしっくり来ました。
漢字を捨ててハングル文字にオールインしたどこかの国は、「語彙」について極めて貧弱化しているように感じられます。
語彙が乏しい=感情のセルフコントロールが難しい
語彙が乏しい=論理構築や読解能力が育ちにくい
という読み取り方をするならば、それなりにフムフムと納得できる部分はあるよなぁ〜、とは思いましたが。
もっとも、どこかの国では
「口喧嘩するときの悪口のボキャブラリーは異様に豊富」
とのことらしいので、語彙が貧弱との僕の見立てが間違っているのかもしれません。
ごんぎつね…
どんな物語でしたっけ?覚えてない…
ちょっとズレ(閑話休題)たコメントになります
「喫煙と飲酒」
喫煙者にモラルに欠ける方が多数いるとはいえ(飲酒と比較して)叩き過ぎ
昔は「恩賜」「御料」がありました
https://www.oricon.co.jp/confidence/special/54002/
タバコ自動販売機を壊滅に追い込んだ「
タスポ」同様のシステムを酒類にも適用させるべきです
路上飲酒の禁止 (花見のための時期や時間を除き)タバコと同様にするべきです
酒類広告の禁止 新商品発売一週間期限のみで全面禁止でよろしいと思います
現在 アルコールの害がタバコの害を上回っているのはあきらかです
わんわん様
趣旨同感なのです♪
酒類の販売とか飲酒そのものを禁止しなくてもいいから、決められた場所以外の公共の場での飲酒とか酔っ払っての侵入を禁止して欲しいのです♪
>路上飲酒の禁止 (花見のための時期や時間を除き)タバコと同様にするべきです
花見の時期こそ酒飲んで騒ぐような輩どもは,年に一度の満開の桜の美しさ…特に青空をバックにしての…を愛でたいと楽しみにしている人々にとって桜の美しさを台無しにする暴挙であり,極めて迷惑です.
桜を見ながら酒を飲んで思いっきり騒ぎたいのならば,カラオケボックスあたりで満開の桜の映像をプロジェクターででも映しながら好きなだけやって下さい.
さあ,ここからは,わんわん様の尻馬に乗ってズレを極限まで広げてさせて頂きます.
そもそも酔っ払いが吐く息の嫌な臭さの原因の一つはアセトアルデヒドという立派な発がん性物質(シックハウス問題の有害物質として有名)で,無論この化合物は周囲の人間に対しても(喫煙者が吐く息に含まれる一酸化炭素やタール等と完全に同じ意味で)有害であり,喫煙者の呼気に有害物質が含まれているから喫煙者は電車に乗せるなという嫌煙権論者のロジックを敷衍すれば,飲酒者も電車に乗せてはならないという結論になる.
それは極論にしても,飲酒に関しても喫煙と同様に,路上に限らず,駅や空港等の構内・公共交通機関の中・公園など公共のスペースでは禁止するのが妥当です.無論,煙草と同じく酒のテレビCMも論外.酒の無人販売も仰る通り煙草と同様に厳しく規制すべきですね.それから飲酒運転への誘惑とそれによる(飲酒運転の被害者にとっては)事故の悲劇を避けるため,高速道路のサービスエリアでは酒の販売は全面禁止しましょう.
そして酒も煙草と同じく定価販売限定とし,定価の6割程度を税金として巻き上げ飲酒の害により増大している医療費の穴埋めに使うのが正しい.(煙草にかかっている税金には確か国鉄の年金債務なんて煙草と全く無関係な目的のもあった筈なので,飲酒の健康上の害による医療費増大に対応すべく酒への課税を強化するのは当然過ぎるほど当然の話)
(そもそも酒の中毒原因物質であるエタノール(エチルアルコール)は煙草の場合のニコチンよりも遥かに質が悪い.ニコチン中毒の場合,中毒患者に宇宙服のような密閉ヘルメットでも被せて周囲に迷惑をかけない状況で好きに吸わせておけば理性や人格は破壊されない.だがアル中に好きに酒を飲ませれば,最終的に薬物中毒者と同じく理性が回復困難な形で破壊され人格も完全に崩壊し,周囲に暴力を振るう等の反社会的な犯罪行為も躊躇わなくなる.要するに酒のエタノールは麻薬や覚醒剤と本質的には同じで,中毒患者を…物質的な意味や生物種としてはともかく…社会的・心理的な意味での人間としては完膚なきまでに破壊し尽くす悪魔の物質ということ)
結論はなんだろうと・・・
最後のページにありました。
>日本の国語教育をどう立て直していったらよいのでしょうか。
>本当に子供の自主性を導く提示の仕方になっているか、自分で考える練習になっているかを先生や親が見直すだけでも、明日から改善できることは多いはずです。
当事者の具体的な行動に落とせません。
「意識高く教育しようね」てとこでしょうか。
毒にも薬にもならない論考だと思いました。
>兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。
時代を越えた文学の、時代を越えれなかった描写なだけですよね?
ネトフリ版聖闘士星矢で瞬が男である事を保てなかったように、時代を越えれない、越えさせて貰えない描写もありますし。
問題視する筆者の常識を先ず疑ってはどうかと。
なかなか想像力の豊かな子供達ですね。
「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」
何故こう思うのかを訊いてみれば、素晴らしい答えが返って来て、著者も子供達も良い勉強ができた筈です。
質問がおかしいですよね。
なぜ鍋で何煮てたなんて突拍子もない質問したのでしょうか?
ごんぎつねのあらすじを知っている人でも鍋で煮るシーンなんかあったっけ?と思うような箇所ですよね。
そんな事よりごんはなぜ兵十にいたずらしたのかとか、ごんを撃ってしまった兵十はその後何を思ったかとか考えさせたほうがよろしいでしょう。
回答の消毒というのはいかにも現代の子供らしい発想でコロナが子供に与えた影響の事例にはなる程度の話。
う〜ん
ゴンギツネ(全文)
https://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/gon_zenbun.htm
ごん狐 wiki
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E3%82%93%E7%8B%90
時代は1930年 新美は17歳
時代背景や通夜振舞い等の前提となる知識がなければ「突飛」な意見がでるのも当然
読解力に難があるとするにはオカシイですね
アゴラの記事を読んでもそうですが、そもそも「疑われます」とか「必要だと思われます」とか「いいのかもしれません」とか、
個人の意見を主語をぼかして一般論化させようとするような文章を書く人に国語力を語る資格はあるのでしょうか。
疑っているのは本人で、必要だと思っているのも本人。他の誰かじゃない。主張したいならはっきり断定すればいいのに。いいのか悪いのか、本人の意見はどっちなんだと。
ひっさびさに原文を読んでみても「何かぐずぐず煮えて」という表現では自分もあまり美味しそうな食べ物とは感じませんでしたし、直後に葬式だと記述があるので、原作者の時代やせいぜい私の世代ならともかく、今の小学生にはお殿様の居る時代などもはや異世界転生のようなものですし、火葬のようなものであると捉えるのはそこまでは無茶な発想ではないと感じました。熱消毒の知識があるのなら大したものですし。別の論者が語れば「先入観にとらわれた大人にはできない自由な発想!」と褒めちぎるでしょうね。
葬儀シーンまでは兵十が母を慈しんでいた描写などなく、前段でゴンが盗もうとしたうなぎは実は病床の母のためだったのかはわわ……とキツネが勝手に妄想しているだけです。「実は兵十は普段から母にイジメ倒されていて『ついにくだばったかこのババア遺体を煮て犬のエサにしてやる!』という修羅ストーリー」とか、「兵十はお殿様お抱えのマッドサイエンティストで死んだ中山家の姫を蘇生するための研究に没頭していて、亡くなった母を消毒し蘇生実験の被検体にするために準備をしていた」とかいう発想を持つ生徒が居たらむしろ褒めてあげたい。点はやらんけど。
似たような話題で、どこで読んだかソース失念ですが。
味噌汁に大根をいれることもあるでしょうが、切り方を気にされたことはあるでしょうか?ちなみに我が家は千切りです。短冊切り油揚げとセットで。
で、記事では筆者が小学生時代、家庭科で味噌汁の実習になったそうで。具材の一つが大根で、指定はイチョウ切りだったものを、つい家で馴染んでいた千切りにしたところ、教師に「味噌汁の大根を千切りなんて非常識だそんなの聞いたことがない!」と叱責されたそうで。授業として指定がイチョウ切りであることを無視したのは咎められても仕方ありませんが、叱責の中身が偏見に満ちていて、子供は納得などできないでしょう。
いくらでも幅のある問題に対して解や感想を一つの意向に強制するとか、子供の伸びしろを奪うだけでしょうにね。●●●●さんが教師でなくて良かった。
もしかしたら、小学生らは石川五右衛門や、酈食其らの最期といった日中の処刑史についての該博な知識を有していたのかもしれません。
あるいは捜神記の眉間尺の話を読んで、それが記憶に強く残っていたのかも。
「最近の若いものは…」どころか
「後生畏るべし」の例かもしれませんよ。
>>この著者の方が調べた個別の事例が、あたかも社会全体における問題であるかのような決めつけが目に付くのです。
この手(法)の記事結構有りますよね、ある教授の傑作記事。
>>「統治崩壊」でも勝つ不思議、なぜ日本人は自民党に票を入れ続けるのか?(jbpress)
日本は平和だけどちょっと狂いすぎだと思います。
問題の論考を読んだわたしの印象は、「何を馬鹿な」というほど否定的なものではありませんでした。
自らの体験やそれに対して抱いた感情などをきちんと言語化できる能力を身につけていくことが、人間としての成長に必須のものであるのに、その能力を育てていく機能が、今の世の中で弱体化しつつあるのではないかという筆者の危機意識には、共感できる部分があります。
論理的というより、情緒的な部分が目立つ論考という印象が強いし、じゃあいったいどうするのという結論部分も、何か中途半端な終わり方にも思えますが、そもそもそんな大問題への処方箋を、一遍の論考でただちに提示して見せろというのは、酷に過ぎるでしょう。
タイトルの『〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状』の部分は、明らかに文集オンラインの編集部が付けたものでしょうから、筆者自身も言いたかったことと、決めつけるわけにも行かないと思います。
>平均的なレベルとされる小・中学校、高校でも、現場の先生たちが子供たちの国語力に対して強い危機感をもっていることがわかりました。
という文章を受けて付けたフレーズと思われますが、論考そのものはそこまで誇張されたことを言っているようには思えませんでした。
ただ、例示として挙げられている、「ごんぎつね」の内容に関するとんでもない珍解釈のエピソードついては、あんな形での評価はどうかという気はしますね。
私は町場育ちですが、それでも私くらいの年輩だと、昔の葬式というのがどういうものだったか、ある程度は知っています。町内の主婦連が皆手伝いに来て、坊さんや弔問客への茶菓の接待、通夜振る舞いの支度などを手分けしてやったものです。況してや田舎となると、野辺送りから、火葬が終わるまで、集落中の人が立ち会う。「村八分」の家であっても、火事と葬式の二分だけは集落のおとな全員の協力が義務だったというのはよく知られたはなしですが、今だにそんな葬式をやっている地域なんて、ほとんどないでしょう。通夜、葬儀の手配から進行まで、すべて葬祭業者任せ。
今の子供に、囲炉裏に掛かっていた鍋の意味など質問したところで、答えられるはずもないでしょう。何か特別な意味があるのかと頭をひねって、その挙げ句が熱湯消毒という珍答であったとしても、まあ仕様がないとしか思えませんね。情操の不足というのは、ちょっと違うような気がする。
そんな質問を生徒に投げかけるより、「ごんぎつね」を教材にして、この場で教師がやるべきは、むしろ『昔の葬式というのはこうだったんだよ』という、背景説明ではないかと思います。「言語化能力を磨き、感性を育てる機能の低下」を言うなら、教師の力量も俎上に上げるべきかと言う気もするんですが、まあ筆者のI氏は、その活動のご様子から拝察する限り、絶対にそんな方向にはなしは持っていかないでしょうが、私は氏の問題意識には共感する部分はありました。
そういう風に若者や現代の正の部分にスポットを当てずに負の部分ばかり論うのが、(あなたの年齢を知らないが)既に精神が老害なんやで
自身の醜いマウント精神を隠すために憂いてるのが、また気持ち悪い
あなたは左翼老人と同じです
どうしてそのコメントになるのか理解出来ない
読解力が無いのかな・・・
同感。
返信する場所を間違えていない?
「一説によると、古代ギリシャの哲学者・プラトンの書にも登場するくらい、むかしから頻繁に見られていた表現なのだそうです。」
エジプトの死者の書のパピルスにも「今どきの若いものは」と苦情が書いてあったという話を聞いたことがあります。
それは嘘だと言う話を聴いたことがありますww
今時の若い者は軟弱だ、、、これが古代から何代も続いてたりすると今の我々は既に空気のようなふわふわ存在であり、シンギュラリティの暁にはどうなっていますか?
今回の方向性とは逆になりますけど、吉谷光平さんの漫画
「今どきの若いモンは」はおじさんから若者への温かい視点で
描かれていて、あったかい気持ちになれます。
反町隆史主演でドラマ化もされていて、そっちの出来は知らないけど。
>変化する前のものが正しくて、変化したあとのものが間違っている、などとは言えないものです。たとえば、喫煙ひとつとってもそうでしょう。
1980年代の後半、あるニュースをみて「あ~、この会社潰れるな」と思ったことがある。
ユナイテッド航空がフライトの全面禁煙を発表した時だ。
私はその数年前にアメリカ西海岸に旅行して、8時間ほどのフライト中に、あたりまえにタバコを吸っていた。喫煙者が8時間もタバコなしでは我慢できないだろう。したがって喫煙者はユナイテッド航空は使わない。したがって潰れると考えたのだ。
あれから30-40年たつが、今タバコの吸えるエアラインはあるのだろうか。
実際に利用したことはありませんでしたが、確か10年ちょっと前くらいまで、トルコ航空では吸えたはずです(今はダメみたいですね)。また、うろ覚えですが、中国国際航空も比較的最近まで吸えたと記憶しています。
まあ、SNUSとか、いくつか対策はありますけど、基本的には機内では如何にして全力で寝るかがテーマとなっております。
10年ほど前だったかな、最近経営破綻したらしいSASのプレミアムエコノミーで、全力で寝るべく奮闘していたところ、隣席のおじさまがここぞとばかりに酒を飲み続けてベロンベロンになっておられ、酷く迷惑したことを思い出します。機内では回りが早いことをご存じなかったのか、ただ酒だから飲まなきゃ損だと思われたのかは存じませんが、下品な酒飲みは大嫌いだという念をあらためて強く感じたのでした。
「最近の若者は」と「老害」との言葉の違いは殆どなく、
両方とも考え方に単なる世代ギャップがあるだけだとおもいます。
なので、双方とも自分の価値観を主張するまではいいにしても、
他人に押し付けるのは良くない。
択一式で出してくれると良かったのですが。
鍋の中身は何か。
①うなぎ
②イワシ
③栗
④社会通念上、葬儀で出される各地のお鍋
⑤意味のない質問だよ
駅の雑踏で2人の女子高校生が地図を広げて何かを探しているのを横で偶然聞いてしまった。
「このビルとこのビルの間にあるっぽい」
あるっぽい?そんな日本語あった? と吹き出すと同時に日本語の柔軟性に感心した。私のような爺さんにも十分ニュアンスが伝わってくる。
>あらゆることを「ヤバイ」「エグイ」「死ね」で表現する子供たちを想像してみてください。
言葉ってそんなに単純なもんなのかね。
今「ヤバイ」と表現できる状況は何十種類もあるんじゃない?
ただし「ヤバイ」を就職面接で使ったら一発でヤバイことになる。
ヤバイの何がヤバイって、ただ合いの手のように「ヤバイ」言ってるだけでヤバイくらい様々なヤバイ状況を乗り切れるヤバさがヤバイです。
真面目な話、たった3文字で強い肯定と強い否定の両方をもつ不思議な言葉となってしまったのでここまで浸透したのかなと思います。大抵の状況で使えてしまう。
語彙力の低下は気になりますが、実際には(ヤバイユーザー同士においては)コミュニケーション自体にはそれほどは弊害は無い。ただ「良いね↔やばいね」「まずいかな?↔やばくね?」程度の置き換えに過ぎないので。
昔 酒席の場で外人に日本語を教えたことがあります。それはどんなシチュエーションでも「どうも」と言えば 取り敢えずなんとかなるでした。葬式には「どうも(ご愁傷さまです)」 結婚式には「どうも(おめでとうございます)」ww.結局日本人が外人化してきたかな。
「MONSTER」のルンゲ警部も日本人のドーモドーモを見て「意味不明な連中だ」と言ってましたねぇ。
どうもから始まり、何の脈絡もないのに「ていうか」から喋り始める人、別に逆でもないのに「逆にさー」から喋り始める人なんかも多いと思います。無意味な分どこにでもハメこめるし、むしろ曖昧さをました方が気楽に喋れるのかもしれません。
で、こうして文字打っても「まぁ」から書き出すことが多いなという自覚もあって、結構まぁを消して文を作ってます……
半ば戯言ではありますが、価値判断もしくは評価に関する日本語の形容詞は3つに集約可能なのではないかという仮説を持っています。その3つとは、「カワイイ」「ヤバイ」「ダサイ」です。この3つの形容詞に、強弱を示す副詞などを付加すれば、おそらくほとんどの局面において適用可能であり、かつ意思疎通も可能だろうと考えています。
もちろん、これは「正しい日本語」とか「美しい日本語」とかいう話とは全く無縁の話です。当たり前の話ですが、もっと細かなニュアンスを表現することなどいくらでも可能です。ただ、日常会話において、そんな微に入り細を穿つような表現が毎回必要とされるかと言えば、そんなことはありません。多くの場合、先に上げた3つの形容詞で示せるレベルで十分であり、会話のフェーズを進めることのほうがより重要でしょう。つまり、会話相手が「なぜ?どのように?」と追加説明を要求してこない限りは、あえて掘り下げる必要もないのです。
このように考えると、国語教育に求められるのは、「なぜ?」「どのように?」と問われた際に、より掘り下げた表現とはどんなものか、どうすればより詳細に説明可能なのかといった内容なのだろうと思います。社会常識とか、過去の通念などは、本来国語教育の核心ではなく、その外延として位置づけられるべき内容です。言い換えれば、社会常識などは文章を理解するための手段であり、目的ではありません。件の筆者の錯誤は、その手段と目的とを取り違え、社会常識の不足=国語力の不足とした点にあります。それゆえに、以降の議論が論旨不明なよれよれの駄文になったのでしょう。
もちろん、社会常識などは知っていて悪いことではなく、それを教えるのも重要な教育の一環ではあると思いますが、「国語力の向上」という観点ではなく、もっと幅広い視点から考えるべきだろうと思います。
# じゃあ、具体的にどうすればと問われると、すぐには明快な答えが思い付き
# ません。ただ、「なぜ?」と問うこと、そして「なぜ?」と問えるように導く
# ことは非常に重要なことなのではないかと思います。
>今「ヤバイ」と表現できる状況は何十種類もあるんじゃない?
だからこそ問題なのでは?
何十種類もの状況やニュアンスの違いを無視して「ヤバい」という同じ言葉で表現してしまっているということ,つまり様々な単語を状況やニュアンスに応じて使い分ければ的確に表現できるのに,それをせずに単一の単語(たとえば「ヤバい」)で表現してしまった瞬間に状況やニュアンスの違いが消し飛んでしまうのですよ.
たまにテレビを点けるとバラエティ番組などで若いタレントがしゃべってるのを見かけますが,非常にボキャブラリーが貧弱になっている印象を受けます.それこそ,「この人たちは『ヤバい』と『スゴい』という単語しか知らないのでは?」と言いたくなるような印象をね.
用言を修飾するから本来は連用形の「スゴく」とすべきところを連体形の「スゴい」のまま使ってしまうのは大目に見て目を瞑るにしても,驚嘆や感動などの際に使える表現としては「スゴい」以外にも,例えば
―「すごく」と「とても」の違いと使い分け方は?類語や例文を調査!
https://goiryoku.net/sugoku-totemo
とか
―凄いの類語・言い換え・同義語
https://thesaurus.weblio.jp/content/%E5%87%84%E3%81%84
とかにある通り,様々な言葉があって各々の言葉が表すニュアンスや使うのに適した状況は微妙に違っており,日本語を使う発話者はそれらの言葉を状況やニュアンスに応じて使い分けることで聞き手に細かいニュアンスや状況をも的確に伝える訳です.
しかし,これら様々な言葉を使い分けずに今の若いタレントの多くのように全て「スゴい」の一語ばかり使ってしまったらニュアンスや状況の違いを聞き手は受け取り難くなり,日本語会話が瘦せ細ってしまうのです.
sqsqさんが本エントリの議論の対象となった記事中から引用されている
>あらゆることを「ヤバイ」「エグイ」「死ね」で表現する子供たちを想像してみてください。
の箇所で原著者が心配しているのは,そういう日本語会話の貧困化なのだろうと私は推測しますが,貴兄は日本語会話の貧困化は問題ないとお考えですか?
因みに私は大問題だと思っています.何故ならば,人が思考するのは言葉によってであり,逆に言えば一人の人が使う言葉が貧困化することはその人の思考の貧困化つまりは非知性化に直結すると考えるからです.
コミュニケーションは通じていることが最も重要。
確か伊丹十三のエッセイだったとおもうが、
細い道で行き会ってしまった2台の車が、運転手が言葉を発することなく、お互い少し動いてはクラクションを鳴らしながら窮地を脱する話があった。要点はコミニケーションに言葉などいらない場面もあるということ。
絵文字などは言葉よりも気持ちが伝わってくることもある。
ヤバイ、エグイの連発でコミュニケーションがとれているなら、それはその程度の内容ということでは。「日本語会話の貧困化」というよりも会話内容の貧困化では。
「ウッソー!」「マジすか?」は単なる相槌と思った方がいい。
コミュニケーションは言語が果たす機能の大きな部分ではあるが,言語使用の目的の全てではないのですよ.言語の機能のもう一つ大きな部分は思考の道具としての機能です.
そして両方の機能は互いに全く独立で影響を受けない訳ではない.
コミュニケーションで使う言語が語彙の痩せ細った貧弱なものになれば,その人の思考の中身も貧弱にならざるを得ない.
言語に頼らず思考し考えを纏めて的確な判断を下せるのは感覚を極めた名人のような職人や(分野は様々だが)天才のような極めて限られた人々(そういう天才でも自分の得意とする分野以外に関する考えを纏めるには言語に頼らざるを得ない)であって,世の中の99%以上を占める我々のような凡人つまり馬鹿は言語に頼ることで漸く思考し考えを纏めることが可能になるのです.
だから馬鹿が言語に頼らず(つまり熟慮せずに)下す決断は幸運なマグレ当たりを除いて悉く間違ってしまい,場合によっては当人や周囲の人間の人生すらも台無しにする.
言語とは,複雑で様々な考えの人々が存在している社会を馬鹿が余り大きな間違いを犯さずに何とか生きて行くための補助装置なのですよ.馬鹿が補助装置を捨てれば判断を誤り衝突を繰り返し最後には社会の餌食となるだけです.
更新ありがとうございます。
「○○の低下」は何らかの新しいものが流行りだしたときに、よく出てくる論調かなとも思います。
今回の国語力の低下も、読解力の低下を含めれば、以下の際には出てきたかと思います。
直接体験したものではないものも含みます。(^^;
漫画の流行
白黒テレビの普及
カラーテレビの普及
テレビゲーム機の普及
家庭用ゲーム機の普及
ポケベルの普及
携帯電話の普及
電子辞書の普及(前後の単語を読まない)
ワープロの普及(手書きが減る)
電子メールの普及(手書きが減る)
スマホの普及
動画サイトの流行
などです。
(普及はハード寄り、流行はソフト寄りで書き分けました)
世の中の変化を快く思わない人は、いつの時代でも一定の割合で存在する様です。
中には的を射たものもあるようですが、廃れていくものを守ろうとしてなのか、少々強引に突飛な論を展開する場合もあるかと思います。
いずれにせよ、未来でも「今どきの若いもの」論は、無くなったりはしなさそうです。。。
国語教育には次の対立する2つの方向があります。
1. 小説など昔の情緒文を題材にして,「行間を読む力」を教育をすること。これが,日本人特有の「空気を読む力」を育て,規格化・画一化された単一民族の形成に貢献しました。
2. 論理的で正確な文書を読み書きできる力の育成。異文化で育った人にも誤解なく通じるようなマニュアルとか,国際的な企業活動で必須な文書力育てる。古い世代が苦手とする分野です。これは,昭和の国語教育に対する産業界からの批判により導入されました。ただ,現在の国語の先生は1の教育しか受けていないので,指導が難しいでしょう。
引用されている文書を書いた先生は,典型的1の支持派ですね。
昔 トヨタ式の「なぜなぜを繰り返す」を職場でトライしたことがあります。5回程度ならともかく更に追求すると どんな設問も最後は教育に行き着いた記憶があります。ふと思い出しました。
文春の記事は、「兎に角、子供達の国語力が落ちています」ということを言いたいだけでしょう。
その、国語力というものが、筆者はどういうものだと考えているのか、定義を説明して欲しいところですが。
そして、その国語力が低下していると思われる事例を紹介した。それだけの意味の記事だと思います。
・社会常識などに通じ、書かれているシーンの意味や登場人物の心情を理解、類推する能力
・自分の心情を細かく把握し、相手に伝わるように表現する能力
・記述されている文章構造を正確に読み解き、情報を正しく把握する能力
個人的には、こういったものを引っくるめて「国語力」と表現しているのかと考えましたが。
ごん狐の例については、何故そんな誤読が起きたのかというと、それは社会の変化やごん狐当時の世相について子供達に伝えていないということが問題なのでしょう。
なので、こんな誤読に繋がる「社会常識が子供達に教えられていない」ということを筆者は問題視しているように思われます。
表現することにも、己の心情を細やかに見極め、それに対する適切な言葉を選択しなければ、正しく相手に何をどう考えているのか伝えることは難しい。
これが、何でもかんでも「ヤバい」という、便利かつ大味な表現に頼っていては、細かい心理描写は伝えられないし、また読み取れなくなっていくということが言いたいのかと。
個人的には、こういう事を言いたいのであれば、一理あると思います。「凄い」「厳しい」「危ない」という言葉を使い分けず、ただ「感情が高揚した」程度の意味の「ヤバい」に頼ると、己の心情を深掘りし、言葉を選別する能力が鍛えられないと思うので。
>議論は「国語力の問題」から「教育問題」、あるいは「現代の子供の問題」を行ったり来たりします。
「国語力」というもの論点そのものをふわっとした、広い範囲で使っているが為に、こんな事になったのでしょう。
そう考えると、記事の紹介事例や見解そのものは論点の範囲内だと思うと同時に。
論点が分かりにくいから、まずそこを絞るか説明した方がよかったと思いますね。
追記。
各個別事例が、時代の推移や全児童の割合のどれだけかという話は根拠として出ていないので、そこは判断保留です。嘘か本当か不明。
記事には文字数の都合でカットしたけど、書籍にはエビデンスデータとして掲載しているという可能性もある訳で。
結論の導出に至るデータとエビデンスを提示せよ、で即終了。かつての通夜の風習を知る知らぬなど枝葉末節に触れるまでもない。決め付けを事実のように語るありふれたやり口でカネを払って読む価値はなさそうな書籍の宣伝記事。釣られてバズるだけで著者も文藝春秋もニヤリでしょう。
「エグイ」という言葉は50年前から知っていたが用法が今一つしっくりこなくて自分で使うことはなかった。
「ヤバイ」はもっと古く60年前には知っていた。アメリカの吹き替えドラマでよくギャングが使っていた。「ズラカル」も同じドラマだ。いったい英語のなにを訳していたのかな?
すみません、完全に国語力崩壊の話題から離れてしまうのですが、
幼いころ、近所に住んでいた好きだった叔母の家に遊びに行くと彼女はよくビートルズを聴いていました。そして理由は今となってはわかりませんが、その中でHey Judeを特にきいていた記憶があります。この歌はHey Judeを連呼しますが、これがヘイジュー(兵十)に聞こえるんですよね。
小学生になって教科書で「ごんぎつね」を初めて読みましたが、最後の、
「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは。」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。
兵十は、火なわじゅうをばたりと取り落としました。
と、いう部分を読んだそのとき無意識にふと、Hey Judeの連呼が頭の中を駆け巡りました。
それ以来、「Hey Jude」を聴くと、今でもこの歌が兵十に対する読者の「兵十、なんてことをしてしまったんだ」という声なき声の歌に聞こえてしまうのでした・・・。
単純に学生さんが「おもしろ可笑しく回答した」と考えてしまいます。
そういう悪ふざけは大学生でもいたので、学生さん特有の悪ノリじゃないかと。
児童 生徒 学生
https://chigai-allguide.com/cw0082/
通常 小学生は児童です
失礼しました。
自著の出版社とのやらせインタビューのくせにとりとめのない、分かりづらいインタビューだなあ。
というか、小学生がごんぎつねの回答を構成するに至った思考を書かずに「人の心情へのごく基本的な理解が欠如」と続けるのはもはや詭弁レベル。
わたしの拙い読解力を駆使すると著者の主張は「感情のグラデーション」に集約されるのだろうが、ならば著者が戦うべきはグラデの反対=二分法やレッテル貼りだろう。
子どもに教えるべきはアベガーやケンポーガーやジンケンガーやニホンハー等の原理主義やダブスタに陥らないようにすることだろう。
でもまあ、そうはしないよね。
グラデーション(例えば疑惑)を一色に染め上げるのが文春商法。
書籍のタイトルからして実に攻撃的で極端だわw
おまけ:
葬儀あるいはその準備として兵十が行う以下の行動のうち人の心情へのごく基本的な理解が欠如しているものを一つ選び、その理由を述べよ。
死体を冷凍する
死体を焼く
死体を煮る
死体を酒樽に浸ける
死体を船上から海中に投げ入れる
死体をムラの中心に埋める
死体のはらわたを取り替え、防腐処理をする
国語の問題って、自分の心情でも著者の心情でもなく問題作成者の心情に寄り添わなくてはならないw