今から数年前、あるブロガーの方が「最近、新聞社説がブログ化している」などとぼやいていらっしゃいました。これについては、新聞社説のレベルが落ちているという意味だと受け取ることもできる反面、ブログやウェブ評論サイトなど、インターネット上にあふれている文章の方が、新聞社説などよりもはるかに読み応えがあり、情報としても正確である、という事例が増えて来たという意味でもあるのかもしれません。もしその理解が正しければ、メディアが虚報を続ければ、やがてメディア自身のブーメランとして跳ね返っていくのではないでしょうか。
目次
ネットで集合知を得る
「記事が信頼される」ということ
唐突ですが、新聞、雑誌などに掲載されている記事を読んで、「信頼できる」、あるいは「信頼できない」と思うのは、いったいどういう場面でしょうか。
「全国紙などに掲載されている記事だから正しい」。
「新聞やテレビでよく見かける著名人が解説しているから正しい」。
「スポーツ紙に掲載されている記事だから間違っている。」
ひと昔前だと、そういう「決めつけ」があったのではないでしょうか。
著者自身を含め、現時点で40代以上の人であれば、たいてい、学生時代や駆け出しの社会人時代、親や先生、上司や先輩から「新聞を読む習慣を付けろよ」、「せめて日経新聞は読もうね」、などと言われたという経験をしているのではないでしょうか。
人間、身に着いた習性はなかなか変えることができません。学生時代、あるいは社会人の初期のころに「新聞を読んでおけ」と言われ、それが身についてしまうと、やはり「新聞に書かれているからそれが正しい」と思い込んでしまうのかもしれませんね。
さて、ひるがえって当ウェブサイトは「読んで下さる方々の知的好奇心を刺激すること」を目的に運営している独立系ウェブ評論サイトですが、運営者自身はジャーナリストではありませんし、著名人でもありません。たんなるビジネスマン、いや、もっといえば「自称ビジネスマン」です。
端的にいえば、「どこの馬の骨ともしれない人間」であり、当ウェブサイトは、そんな「どこの馬の骨ともしれないまったく無名な人間」が運営している、日々勝手なことを綴るだけの怪しいウェブ評論サイトです。当然、読者の皆さま方のなかでも、
「『新宿会計士の政治経済評論』にこんなことが書かれていた。だからこれは間違いない!」
などと無批判に信じ込むというケースは、まず存在しないでしょう。当ウェブサイトの場合、記載されている内容が正しいかどうかは、あくまでも個々の読者の皆さまが判断するからです。
そして、まったく無名な、どこの馬の骨ともしれぬ人間がウェブサイトを運営したところで、そんなウェブサイトが人々に読まれる保証などまったくありませんし、よしんば読んでいただいたとしても、その内容に共感してもらえる可能性は、さほど高くありません。
まさにこれが「ブログ、ウェブ評論サイトの信頼性」という問題なのでしょう。
議論のトレーサビリティ
では、まったく無名のウェブ評論家が、人々に何かを訴えかけるためにウェブサイトに何かを執筆したとして、何に気を付けなければならないのでしょうか。当ウェブサイトで大切にしているのが2つあります。
そのうちのひとつが、『ウェブ評論の流儀は「議論のトレーサビリティの確保」』でも説明した、「議論のトレーサビリティ」です。
これは、何か議論をする際、「①極力、何らかの『情報源』に基づくように心がけること」、「②考察し、仮説ないし結論に至るプロセスを透明にすること」、を通じて、議論を読んだ人たちがその結論について妥当だ、あるいは妥当ではない、などと後から「検証可能」な状態になることです。
議論のトレーサビリティとは
- なぜそのような仮説や結論に至ったのか、読んだ人が客観的な情報源などに基づき、最初から最後まで追いかけて検証することができること。
もちろん、すべての議論にこうした「トレーサビリティ」が存在するわけではありません。なかには、どうしてもトレースし切れない議論というものもでてきます。その典型例が、「個人的体験」、あるいは「証言」のみに基づく議論です。
たとえば、「朝鮮半島で戦時中、日本軍が少女20万人を誘拐し、戦場に強制連行して性奴隷として使役した」とされる問題、つまりいわゆる「(従軍)慰安婦問題」については、それを裏付けているものが自称元慰安婦の「証言」くらいしかなく、物的証拠がほぼ存在していないという特徴があります。
また、ときどき当ウェブサイトの読者コメント欄に、「XX県のXXという企業が従業員に対してパワハラを行っている」、といったコメントがつくのですが(※スパムとして判定し、皆さまの目に触れないように処理しています)、このような「本人が主張しているだけの内容」については、検証可能性がありません。
しかし、個人的な体験に基づく記述であっても、ある程度、信頼性が認められるものは存在します。
たとえば、「私はXX県の大病院で勤務する医師であるが、以前、このような症例の患者を診察したことがある」などと主張する記事を読めば、その内容がよっぽど荒唐無稽なものではない限り、その人がウソをついていると思う人は少ないでしょう。
読者コメント欄の開放
この「客観的事実の認定」さえできてしまえば、そこから先は、「もしこのような考え方ができるなら、このような仮説が成り立つ」、「もしこの考え方が正しければ、このような結論を導くことができる」、という具合に、議論を「見える化」することができるのです。
つまり、「その客観的事実が正しい」のであれば、その事実を前提として考察し、何らかの結論を導き出す、というプロセスが出来上がるのです(※その意味では、ウェブ評論の考え方は数学にも似ているのかもしれませんね)。
そして、著者の議論の構築方法が独りよがりとならないように議論を「見える化」する以上は、それを人々に共有する手段が必要です。じつは、これこそが「読者コメント欄」なのです。
当ウェブサイトの場合、ウェブサイトに読者コメント欄を設けることで、読者の皆さまから忌憚のない意見を表明していただくことで、議論に穴があればすぐにそれがわかるようにするというのが、当ウェブサイトなりの議論のスタイルなのです。
このやり方が正しいのかどうかは、正直、よくわかりません。
いちおう事実関係だけを述べておくと、ページビュー(PV)に関しては変動もあるものの、毎月コンスタントに200万件前後をいただいているため、実績だけで見るならば、この「社会実験」はある程度の成果をあげたという見方をしても良いのかもしれません。
新聞社説のブログ化とは?
「新聞社説のブログ化」というパワーワード
さて、なぜこんな話をいきなり持ち出したのかといえば、今から数年前、あるブロガーの方が執筆した文章を読んでいると、「最近、新聞の劣化が激しい」、「新聞の社説が『ブログ化』している」、などと述べていたことをふと思い出したからです。
このブロガーの方は、某大企業で長年、ビジネスの最前線にいらっしゃった方であり、個人的にはそのざっくばらんな口調が大好きだったのですが、現在はあまりブログ活動はなさっていないようであり、過去記事についても一部削除されてしまったようです。
それはさておき、あくまでも個人的な記憶ベースですが、この方が、「最近、新聞社説のブログ化が進んでいる」、と指摘しました。その時期はあやふやですが、たしか2012年から2014年ごろだったと記憶しています。
おそらくこのブロガーの方は、「新聞社説の劣化が進んでいる」という意味で「新聞のブログ化」という表現を使ったのだと思いますが、これはなかなか強烈な表現です。
考えてみれば、新聞社説とはその新聞の「顔」のようなものであり、新聞社説を書く人物は、その新聞社内でも「花形」のような地位にあるのではないでしょうか。
つまり、新聞社説を書くためには、まず難しい入社試験を受験して合格し、その新聞社に入社したうえで新聞記者になり、さらには何年も何年も下積みを続けなければなりません。そして、「社説を書く」という希望がかなわず、途中で左遷の憂き目に遭うかもしれません。
そのように考えれば、社説を書くというのはよっぽどのことであり、社説にはそれなりの重みがあるはずなのです。それなのに、その社説というものが「ブログ化」しているというのは、新聞社に対しては痛烈な批判にほかなりません。
なぜなら、ブログなどというものは、それこそどこの馬ともしれぬ人間であっても気軽に始められるものだからです。つまり、とあるブロガーの方が、いまから6~8年も前の時点で、「新聞のブログ化」の兆候を嗅ぎ取っていたのだとすれば、それは非常に鋭い嗅覚だと思わざるを得ないのです。
社説をベースに間違い探しをする時代が来るとは…
ときは流れて2020年。
まさか、新聞社説を使って「間違い探し」をする時代が到来するとは、まったく思っていませんでした。
何の話を述べているのかといえば、先週の『「誤った社説」を利用して作成した対韓輸出管理Q&A』でも取り上げた、日本政府が昨年7月1日に発表した対韓輸出管理適正化・厳格化措置を巡る東京新聞社説のことです。
輸出管理適正化措置のことを、韓国政府・韓国メディアがかたくなに「輸出『規制』」と誤記し続けていることについては、当ウェブサイトでは過去に何度も指摘して来た点ですが、東京新聞が6月4日付の『対韓輸出規制 見直しの機会を生かせ』という社説で、この点を盛大に間違えたからです。
タイトルからして輸出「規制」とありますので、内容は推して知るべし、でしょうし、この社説のどこがどう誤っているのか、その「おおどころ」については先週指摘したので、本稿では繰り返しません。
それよりも改めて恐ろしいと感じるのは、ひと昔前であればその新聞の「花形」だったはずの社説で、この手の稚拙な論説が出て来てしまうという点にあります。まさに時代は大きく変わったと感じざるを得ません。
そして昨日の『毎日新聞社説「日韓両国指導者は失ったもの直視せよ」』では、毎日新聞の『輸出規制と日韓関係 失ったもの直視すべきだ』という社説も取り上げました。
毎日新聞も韓国に対する輸出管理の厳格化・適正化措置のことを「輸出『規制』」と誤記していて、しかもまったく関係のない自称元徴用工問題が「輸出『規制』」と関連しているかのごとく書いてしまっているのです。
昨日、当ウェブサイトで毎日新聞の社説をベースにした「Q&A」を作らなかった理由は、それをやるとあからさまな「二番煎じ」になってしまうからでもありますが、それだけではありません。あくまでも個人的な感想ですが、東京新聞の社説の方が、まだレベルが高いと思ったからです。
当ウェブサイトではときどき「ATM」と呼ぶメディアの一角を占めているはずの毎日新聞と東京新聞(中日新聞)の2紙でも、すでに格差が付き始めているということなのかもしれませんね。
「社説がブログ化している」のではなく…
ただ、ここでもうひとつ検討しなければならないのは、「社説がブログ化している」という表現が現在でも適切なのかどうか、という論点です。
くどいようですが、ブログないしウェブ評論というものは、どこの馬の骨かわからない人間であっても、気軽に始められます。難しい入社試験を受ける必要も、ヒラの事件記者などとして下積み経験をする必要もないのです。
新聞と違うのは、ブログないしウェブ評論として記事を執筆したとしても、それを人々に読んでもらえる保証はない、という点ですが、逆にいえば、その点さえ我慢できるのであれば、それこそ誰にでも気軽に始められるというのは最大の強みです。
つまり、新規参入にあたってハードルが非常に低いので、それこそ実名で企業経営をしながらペンネームで情報発信をする、という人間も出てくるわけですし、なかには文章力、論理的思考力が新聞記者よりも優れているブロガーも出てくるかもしれないのです。
というよりも、「優れている」、「劣っている」というのはあくまでも相対的な話ですので、「新聞社説がブログ化した」というのは、言い換えれば、「かつてであれば新聞社説として掲載されていてもおかしくないクオリティのブログが出現している」、ということでもあるのかもしれません。
(※いちおう申し添えておきますが、当ウェブサイトが「新聞社説なみのウェブ評論サイトだ」などと傲慢なことを申し上げるつもりはありません。)
大切なのは「事実関係を調べること」と「意見を発信すること」
こうしたなか、最近、とみに感じるのが、「客観的事実と主観的意見」という視点の重要さです。
当ウェブサイトではかなり以前から何度も何度も報告している論点ですが、世の中の論考を眺めていると、情報には、基本的に「客観的事実」か「主観的意見」のどちらかしかありません。
客観的事実とは、だれがどう書いてもだいたい同じような内容になる情報のことであり、主観的意見とは、書き手によってまったく異なる内容になるかもしれない情報のことです。
たとえば日本政府が昨年7月1日に発表した韓国向けの輸出管理の運用体制変更については、
「2019年7月1日、日本政府・経済産業省は韓国に対する輸出管理の厳格化措置を発表した。」
と表現する人もいるかもしれませんし、
「令和元年7月1日、経産省は大韓民国に対する輸出管理体制の厳格化措置を発表した。」
と表現するかもしれません。これには西暦・和暦の違い、国号を通称にするか、正式名称にするかという違いはありますが、大筋ではだいたい同じ情報を意味しています。したがって、このような文章は「客観的事実」の一種と考えて良いでしょう。
そのうえで、これについて
「日本政府はこれを輸出管理厳格化措置だと述べているが、韓国政府は輸出『規制』だと反発し、昨年8月には日韓GSOMIAの終了を日本政府側に通告するなどした。」
などと記載すれば、これも立派な客観的事実ですし、
「日本政府はこれを輸出管理厳格化措置などと述べているが、事実上、韓国に対する経済的報復としての意味合いがあると考えられる。」
などと記載すれば、これはこれで、その文章の書き手の「主観的な意見」としては成り立ちます。
あとはこうした主観的な意見に対し、「そのとおり!」「いや、そうじゃないよ!」などと議論を闘わせることで、やがては認識・意見をさらに洗練させていくというのが、民主主義国家としての究極的な理想形なのです。
しかし、これを、あたかも客観的事実であるかのごとく、
「2019年7月1日、日本政府は韓国に対し、強制徴用問題に対する報復として、半導体材料3品目の輸出規制措置を打ち出した。」
と書くと、これはとんでもない事実誤認です(※「強制徴用問題」とは、当ウェブサイトでいう「自称元徴用工問題」のことです)。
くどいようですが、対韓輸出管理適正化措置を「輸出『規制』」だと決めつけること自体、法令や国際条約、武器管理の仕組みなどを理解していない証拠ですし、「強制徴用問題に対する報復」のくだりも、文章の書き手がそう思っているだけであって、日本政府がそのように発表したわけではありません。
このように考えていくと、いくつかの新聞の社説が事実誤認を含めた文章を掲載するようになっている時点で、すでに「新聞社説のブログ化」の段階を越えて、「新聞社説はブログ以下に劣化しつつある」といえるのかもしれませんね。
相次ぐ虚報が首絞める
さて、新聞を筆頭とするメディアの虚報体質が次第に酷くなっているという点については、今週もずいぶんと話題として取り上げました。
なかでもひどいかったのが『共同通信「中国批判声明に日本が参加拒否」報道とは?』でも紹介した、共同通信の記事でしょう。これは、英米などが香港情勢を巡り中国を批判する共同声明を出そうとした際、日本がその声明に「参加を拒否した」というものです。
これについてはおそらく、控え目に言って不正確な報道であり、もう少し厳しい言い方をすれば「捏造報道」の疑いすらあります。口が悪い人は、「共同通信の記者が中国政府からカネをもらって書いた記事ではないか」、などと疑いをかけるかもしれません。
ただ、この共同通信の記事で感じたのは、ネットの力です。
というのも、複数の自民党議員が即座に動き、ある議員は外務省に事実関係の確認を行い、またある議員は共同通信の記事を掲載した産経新聞などのメディアに事実関係を確認するなどし、さらに一般人がネット上でさまざまな疑義を呈して、それらの情報が瞬時に共有されたのです。
もちろん、なかには短絡的に、「やっぱりアベはダメだな」、「これだから安部は信頼できない」など、安倍総理に対する批判的な意見を発した人たちもいたようです(※「アベ」、「安部」とあるのは安倍総理のことだと思います)。
しかし、それ以上に、菅義偉官房長官を筆頭に、政府関係者が即座に共同通信の配信記事の事実関係を否定したことや、安倍総理自身が「日本が主導してG7外相で対中決議をまとめ上げる」などとする方針を示したこと(『「日本主導でG7対中声明」は共同通信虚報のおかげ?』)は印象的でした。
もしかすると、共同通信の虚報が私たち一般国民のメディアに対する怒りに火をつけ、間接的に政府関係者の背中を押した可能性すらあると思います。
その意味では、メディアの虚報が続けば、瞬間風速的にメディアは世論操作することができるかもしれませんが、長い目で見たらメディア自身の首を絞めることになるのかもしれませんね。
いずれにせよ、私たち一般国民にとっても、メディアの虚報には「自分自身の頭で考える」ことで対抗していくことが、今後ますます必要になってくることは間違いないでしょう。
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新聞社の多くは、工作員機関紙で、日本人を扇動する目的で活動をしていると考えれば、つじつまか合います。
新聞社が真実を報道して、日本の国益を考えているかという視点で見ると、矛盾ばかりが見つかります。
理想と現実は違いますので、新聞社の現実を理解した方が、何かと分かりやすいと思います。
まったくお説のとおりだと思っております。
プログの中には営業目的のものも多いですが,大学教員などの研究者,社長などの経営者人,タレントやアーティストなどの有名人,なども多いと思います。いろいろな意味でコラミストより高い知識や経験を積んだ人達もライターに多いわけです。コラミストと言っても所詮はサラリーマンです。話相手として経営者とサラリーマンとどっちが楽しいかというと,圧倒的に前者です。士業さんは守秘義務があるので,ほどほどのところで。ただし,サラリーマンでもアクチュアリーの人達との投資の話とか,例外は沢山あります。
ところで,新聞やメディアのチェックですが,国内だけでなく海外の多くの国を見ておいたほうがいいと思います。最近,海外情勢の変化が激しいので,1ケ月も前の情報で判断すると,とんでもない間違いだったりします。アジアも隣国4ケ国だけでなく,インド,タイ,シンガポール,フィリピン,ベトナムくらいはチェックしておきましょう。
特定アジア3カ国を変える事が出来ないのと同じ理由で、マスコミ各社の報道(?)姿勢を変える事は出来ないので対処の方法は限られます。🐧
私の場合は、テレビは見ない、新聞は読まない。🐧
代用品はスマホ一台で十分。🐧
しかし、新聞・テレビはスマホの代用品にはなり得ません。🐧
昨日、投稿予約の時間をミスっちゃいましたね。
Twitter/ブログ両方でしょうか。
コメントしようとしたら消えていました。
>「輸出『規制』」と誤記し続けていること
いまだ日本が韓国に輸出規制していると言いっている新聞はどこ?
https://seisenudoku.seesaa.net/article/475415050.html
ATMの朝日新聞・東京新聞・毎日新聞をはじめ信濃毎日新聞など多数います。
>東京新聞の社説の方が、まだレベルが高いと思った
レベルを何で判断するかによりますが、まだ毎日新聞のほうが高いと思います。
東京新聞は主張の前に、少し調べれば確認できる事実と異なることを平気で社説にのせてきます。
指摘されても訂正しないという厚顔ぶり。
https://seisenudoku.seesaa.net/tag/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B0%E8%81%9E
酷い虚報には政府も逐一反論してるので、
新聞社の記事のいい加減さをもっとクローズアップしていくと良いですね。
マスコミは他人に責任を追及するが、自分は絶対に責任は負わないし、反省もしないし、プロパガンダに満ちた偏向報道を続けていきます。
ニュートラルに事実だけを載せるマスコミは無いものですかねえ。
最近では、武漢肺炎流行の初期において、意図的に医療崩壊に導こうとするかのような報道が酷かったですね。
国民の生命を犠牲にして、それをネタに政権批判につなげようとしているのではないかと疑念を抱かざるを得ませんでした。
オールドメディアのそういう姿勢に疑うあまり、昨晩、NHKの報道にあった武漢肺炎の退院基準に不信を抱くコメントをこちらの読者雑談専用記事通常版に書き込んだところ、大多数の読者の目にふれるより早いであろうタイミングで、
とある福岡市民様から反論をいただきました。
新宿会計士様がおっしゃる「読者コメント欄の開放」のように、リアルタイムで反対意見を表明できる場があることの大切さを、改めて感じた次第です。
>虚報には「自分自身の頭で考える」ことで対抗
「瞬発力を備えた集合知」ネット時代の強みはこれです。そしてメディアという「産業」にはなかなか真似できないことなんですね。事実関係の裏付け行為と「開放型」「相互通知」というコミュニケーションモデルはうまくフィットするのです。もっとも逆に働くこともあります。義憤とか正義感には特に気を付けたほうがいいですね。
テレビに失望。
https://news.livedoor.com/article/detail/18372707/
新聞にも失望。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9237c2676fb28b921d17e602c89f705d162ef9bb?page=1
失望というより、恐怖さえ覚えます。
しかしながら、NETでのニュース閲覧にも、問題がないことはない、と最近気づかされました。
一番の問題は、人間は自分が読みたいことを探して読む、という性向を持っていることです。また、ブラウザの検索機能が、ユーザの傾向を把握して検索結果を調整します。結果として、自分の意見に反対する傾向のニュースは、読もうとしない、あるいは検索にも引っかからない、という現象が生じる可能性があります。
誤解を恐れずに申し上げれば、例えば嫌韓(または好韓)の傾向を持つユーザは、そういう傾向のニュースや情報ばかりを読むことになり、それに反する情報に接することがないので、ますます嫌韓(または好韓)が進む、という可能性があります。テレビや新聞でも同じことは起きると思いますが、NETではそれがもっと極端な形で起こってしまう、と言えます。
二番目の問題は、もちろんNETの情報は玉石混交、嘘も本当もファンタジーもあって、そこから事実を取り出すのはなかなか大変だということです。しかし、昨今はテレビも新聞も同様の事態が起きていて、初めから玉石混交であるとわかっているNETの方が真実に迫りやすい、というか、うっかりだまされることが少ない、と言えるのかもしれません。
我々が正確で中立的なニュース・情報(そんなものはない?)を要求できる、あるいは正確でないニュースを指摘できる、そんな仕組み、制度、組織をつくることはできないものでしょうか。
作る端から検証の対象にすべきなのかもしれませんが。
長文、駄文失礼しました。
*JARO日本広告審査機構みたいに「誤報や、その訂正状況」を適切に審査する機関があればいいんですけどね。
会計士様の職業倫理に通じるような記載方針にも共感します。
証票信憑性(論考の裏付けを明示する)
総額主義(誤報の事実を無かったことにしない)
過去稿の誤報(誤植)箇所を削除せず、線引きや注釈等で訂正内容の周知に努めるスタンスは、発信者としての責任感と公平・公正な人柄の現われなのでしょうね。きっと。
新聞社の記者もかつてと比べて相当質が劣化しているのではないかと考えます。このブログによく取り上げられる鈴置高史氏は元日本経済新聞、青山繁晴氏は共同通信社の出身です。彼らが現役の頃は、中身はともかく、例の共同通信の共同声明の記事の様な5W1Hが曖昧な物は出なかったと思います。青山氏がブログで「共同通信は変わってしまった」と嘆いていたのはその辺りも踏まえた物ではないでしょうか。
インターネットの発達による新聞の地位の低下と収益の悪化により優秀な人材が新聞社に寄り付かなくなっている事がその原因でしょう。
新聞の虚偽報道自体はインターネットが普及する以前の昔からありました。朝日新聞の従軍慰安婦報道もそうですし、日露戦時の日比谷焼き打ち事件は日本の国力が枯渇している事を隠して勝利のみを報道したのが原因です。
新聞が無くなる事はないでしょう。主な舞台は紙からWEBになるでしょうが。ただかつては社会の木鐸を気取れましたが、もう今後は東京スポーツや日刊ゲンダイと似たような物と見なされるのではないでしょうか。まあ、ブンヤなんてもともとそんなもんなんでしょうが。
虚報で首なんて絞まってないと思います
共同通信の件に関しては誤報であって虚報ではないです
参加しなかったという事実はある
言葉の使い方でしょうね
https://twitter.com/katayama_s/status/1269516108836376577
失望した人も中にはいるかと
誰に聞くかの話だけだと思えます
なので失望に関しても取材した上での報道かは別次元です
問題1
政府に都合が悪く見える報道7日に対して即日処理しなかった
対応は翌日8日午前会見で何故か質問に答える形
同じく翌日8日に米国務省からの声明日米は強い懸念を共有
8日夜 G7外相声明検討リーク報道
https://jp.reuters.com/article/hongkong-g7-foreign-min-idJPKBN23F1OF
もしかして都合は悪くなかったのか
シナリオどおりに対応しているのか
問題2
なぜ米英豪加との共同声明を断ったのか
政府に戦略はあるのか
本来こういうことを論じるべきで
報道機関の姿勢を論じても何も変わらないのでは
一般人が束になっても強大な権力には勝てない
デマに対するカウンターは必要ですが
マスコミの姿勢を考察することは悪影響もあって
多く日本人がマスコミを叩けば良いのだと誤解すること
虎ノ門ニュースと文化人TVとかで上辺だけ見てる人はこの傾向
導入としては良いものだと思うけど悪影響も多い
で、そのわりには国内報道に依存してるのが保守系日本人
マスコミがーっていうのに海外報道や外国政府系資料は見ない
強硬な対中姿勢を求めるわりには
米国の対中戦略アプローチの資料とか見てない
United States Strategic Approach to the People’s Republic of China
https://www.whitehouse.gov/wp-content/uploads/2020/05/U.S.-Strategic-Approach-to-The-Peoples-Republic-of-China-Report-5.24v1.pdf
同盟国である米国の考え方を知らないということ
知らないのに対中共同対応するべきだと言う日本人
日本の国家安全保障戦略の資料すら見たことないのでは、、
H25
https://www.cas.go.jp/jp/siryou/131217anzenhoshou/nss-j.pdf
H30
https://www.cas.go.jp/jp/siryou/pdf/h301218hyouka.pdf
日本は海洋国家だからー、こうするべきだーとか
よく理解しないで言ってる人も多い
少なくとも本邦初の国家安全保障戦略がH25に安倍政権で作成され、
そこで海洋国家にふれてるので政府は理解している
対応が十分だとは言ってないですけど
昨日報道されてましたが直近だとベトナムに
ASNARO-2の同型機を円借款で供与で契約成立
実質スパイ衛星を中国の仮想敵国に供与
米国ともシリアスな調整をした上での対応だと思います
長々と何が言いたいかというと、
1、マスコミが信用できないわりにはマスコミに頼る現状を何とかした方が良い
2、マスコミを変えるというアプローチは間違っている
最近とても良いツイートを見つけたのですが、
https://twitter.com/MontTake/status/1264208458976354304
一部引用
もし、何も知らない人に「テレビ局は特◯に乗っ取られているんだよ」と話したとしても、「そんなバカな、ハハハ」となるのが普通の感覚らしい、ところが「最近のテレビ何かおかしくない?」と聞くと少し反応がある
アプローチの違いで何かを変えることが
出来るかもしれない実例だと思うのですけれど
こういうのを論じる方が前向きで健全だと思う次第です
大分前に、娘が通う公立○学校のPTA会長を務めたことがあります。前年度までは比較的平和だったのに、なぜか私の年度は学校が荒廃し、対策に奔走する日々でした。
その中で様々な教師と話をしました。感じたことは、力量に個人差が激しく、常識のレベルの低い人がそこそこいることでした。校長が言うには、教師は文鎮型組織で、管理職の校長・教頭より下は横並びだそうです。新任の教師でも、いきなり同僚から「○○先生」と呼ばれ、上司の指導に相当するものがないのだとか。研修はあります。
教師は、学校を卒業したら学校に戻ってきて、以後は自己研鑽に任せっぱなしということです。学校以外の世間を知りません。そりゃー個人差が激しいわな。
ついでに、「この先生は頼りになるな」と感じる先生は、すぐに教育委員会に異動になります。優秀な先生を現場から取り上げる慣習は無くして頂きたいです。
サラリーマンだって自社しか知らないではないか、どうやって世間を知ったんだ? と自問してみますと、上流部品メーカー、協力工場、販売会社などとのお付き合い(厳しい交渉を含め)や、社外研修などで知る異業種の人々と情報でしょうか。先生方をとやかく言うほど豊富な機会ではないですね。でも他社の似た立場の人々を見て、「この人、世間知らずだな」と感じたことはありません。自分も大丈夫だと思いたいです。
新聞記者には、上司の指導があるはずです。多種多様な業種の人間と数え切れないくらい会ってきたはずです。様々な工場や施設を多数見たはずです。それなのに、何だか記者は世間知らずに見えます。知識量が少なく、ものの考え方が拙く、傲慢です。なぜなのでしょう?
確信はありませんが、多分特権意識が研鑽意欲を衰えさせてしまうのではないか、と今のところ感じております。