インターネット上では、よく「マスゴミ」という表現を目にします。私の理解だと、これは新聞、テレビを中心とするマスコミに対する怒りを込めたネット・スラングです。いわば、「ゴミのような情報を垂れ流しにする国民の敵」、といったところでしょうか。もちろん、マスコミ関係者の中にも心ある人、優秀な記者もいますが、なぜ総体としてのマスコミが「ゴミ」と呼ばれるのかといえば、やはり、彼らが「特権組織」であるとともに、その特権を悪用して、一般の国民から強い反感を持たれるような不適切な行動を取っているためだと思うのです。
目次
マスゴミの由来
マスゴミという言葉があります。
これは、「ゴミのような情報を垂れ流すマスコミ」に対する、怒りを込めたネットスラングです。
単なるゴミであればまだ良いのですが(※良くありませんが)、実際、マスコミの報道によって日本社会に深刻な打撃が生じたことは、過去に何度かあります。
卑近な例を紹介すれば、今からちょうど10年前、2009年8月に実施された衆議院議員総選挙で政権与党だった自民党が惨敗・下野し、民主党が圧勝して政権交代が実現しました。
しかし、この総選挙では、マスコミが有権者の投票行動に、極めて強い悪影響を与えていたのです。その証拠が、この「政権交代選挙」の直後に「日本経済研究センター」という組織が実施した調査です。
経済政策と投票行動に関する調査 「子ども手当支持」は3割、政策には厳しい目(2009年9月10日付 社団法人日本経済研究センターHPより)
これによれば、投票に際し、テレビや新聞を情報源として重視していた人ほど、比例区で民主党に投票したことが示されています。実際に、これをグラフ化してみましょう。
図表 情報源と比例区投票先の関係
(【出所】(社)日本経済研究のレポートのP7を参考に著者作成)
いかがでしょうか。
この調査、「たまたま」では済まされません。同法人がきちんと統計学的に正しい調査を行っているという前提のもとではありますが、テレビと新聞が有権者の行動行動を歪め、結果的にそのことによって「悪夢の民主党政権」が実現したわけですから、日本社会に多大な損害を与えたことは明らかでしょう。
ただ、マスコミ業界がこの「政権交代劇」について、総括して反省したという話も、私たち日本国民に対して真摯に謝罪したという話も、寡聞にして知りません。
「マスゴミ」の罪状
マスコミを全否定するつもりはありませんが…
もちろん、当ウェブサイトとしては、マスコミを「ゴミ」と蔑んで全否定する、という姿勢を取るつもりはありません。
マスコミ業界の中にも優秀で心ある記者は在籍していますし、慰安婦問題を捏造した罪深いメディアである朝日新聞にしたって、受信料という形で巨額の金銭を国民から巻き上げているNHKにしたって、なかにはマトモな人もいます。
また、私自身は「ウェブ評論家」と名乗っていますが、ウェブ評論の題材を提供してくれる「一次情報」はマスコミ報道から得られることも多いため、存在価値そのものを含め、マスコミというものを全否定するのは行き過ぎでしょう。
しかし、それと同時に、業界としてのマスコミは、確かに腐敗し切っているように思えてなりません。
私がそう思う理由は、彼らの報じる内容、彼らの取材姿勢にあります。たとえば:
- 政治的に問題のある野党議員のことをほとんど叩かず、ほぼフェイクニューズと言っても良い「もりかけ問題」などを通じて政府閣僚・与党議員のことは針小棒大に叩く(偏向報道)
- 事件や事故などで被害者が苦しんでいるにも関わらず、これらの被害者に対して常軌を逸した取材攻勢を仕掛ける(被害者の人権無視)
- 大災害が発生したときに、被災地の混乱を顧みず、報道ヘリや中継車を被災地に派遣し、そのことにより被災地に二次災害をもたらす(報道災害)
といった具合に、彼らの行動が社会的な害悪となっているのです。
フェイクニューズによる倒閣運動
「もりかけ問題」については、『もりかけ2年:国民の敵駆除する方法、少しずつ希望が見える』などを含め、当ウェブサイトではかなり以前から注目して来たのですが、簡単にいえば、
「安倍晋三(氏)が内閣総理大臣としての地位を悪用し、個人的な友人が経営する学校法人に対して違法な便宜を図っていた疑惑」
のことです。
ただ、朝日新聞を中心とするメディアが「もりかけ問題」で倒閣を仕掛け、内閣支持率は瞬間風速的に急落したことも確かに事実ではあります。
しかし、その一方で、「もりかけ問題」を報じて来たメディアの多くは、安倍総理(あるいは総理夫人)が違法行為を行った具体的な証拠を一切提示して来ませんでしたし、それどころか、「安倍晋三(氏)がどういう法律のどういう条文にどう反していた」という指摘すらしていません。
それどころか、「もりかけ問題」を巡って安倍政権を批判する勢力は、「極端な話、賄賂の授受がなくても問題だ」などと主張していたほどです(『モリカケで弁護士が「賄賂なくても大問題」と支離滅裂な主張』等を参照)。
もっとも、この「もりかけ倒閣事件」は、結局、2017年の時点では未遂で終わりました。
その大きな理由は、当時の最大野党だった民進党の支持率がまったく上がらず、それどころか党代表だった謝蓮舫(しゃ・れんほう)氏の二重国籍事件などで国民・有権者の信頼を失い、2017年9月の衆院解散総選挙とともに民進党自体が吹き飛んでしまったからです。
ただ、当時は未遂に終わったものの、国民の代表でもないマスコミが、国民が選挙で選んだ政権をフェイクニューズによって吹き飛ばそうと試みること自体、見方を変えれば一種のクーデターでもあります。その意味で、民意を歪めている「国民の敵」とは、マスコミそのものではないか、との見方も成立するのです。
(※ちなみに『河野外相会見で勝手に国民の代表名乗るマスコミ記者の傲慢さ』『「国民の代表」を騙る新聞記者、そして「国民の敵」』などでも触れましたが、マスコミ産業関係者は自分たちを「国民の代表」だと騙っているようです。)
事件報道で見えた:マスコミこそまさに加害者だ
ただ、マスコミが「マスゴミ」と呼ばれる所以は、こうした政治的な偏向報道だけではありません。
最近の事例だと、災害報道や事件報道で、「マスゴミ」の本領がいかんなく発揮されました。
たとえば、ブロガーの藤原かずえ氏の指摘によれば、大津市で発生した、保育園児が犠牲になった交通事故を巡り、遺族が報道機関宛に出した声明文を、NHKを筆頭とするマスコミ各社が改竄して報じたそうです(『罪深いテレビ業界の腐敗ぶりと新しいネットメディアの可能性』参照)。
私は藤原さんの文章を読んだとき、ふつふつとわき上がる怒りを抑えるのに必死でした。
同じ年頃の子供を持つ親という立場もさることながら、悲しみに沈むご遺族の心を容赦なく抉(えぐ)るマスコミ産業関係者は、「国民の敵」というよりも、「人類の敵」と呼ぶ方が適切ではないか、とすら思えたのです。
それだけではありません。
先月末に川崎市で発生した、登校中の子供たちが巻き込まれる無差別通り魔事件でも、マスコミ産業関係者の無神経な取材がそこかしこで行われました(『なぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか その取材手法の腐敗ぶり』参照)。
ついでに申し上げるならば、東京・秋葉原の歩行者天国で2008年に発生した無差別殺傷事件から10年目の節目となる昨年6月8日には、マスコミ記者が献花台の真ん前で座り込んで記事を執筆している様子が写され、ツイッターに投稿されて大きな反響を呼びました。
マスコミをどう擁護するか
災害報道に見る「マスゴミ」の原点
悲惨な事件・事故といえば、1995年の阪神・淡路大震災を外すことはできません。私自身は東京の私大に通っていたため、大震災の当日は東京にいて難を逃れたのですが、神戸の実家は被災し、高校時代の学友の中には若くして犠牲になった者もいます。
そして、家族・親戚・友人など、直接の知り合いの証言によれば、
- 倒壊した家屋の下で助けを叫んでいる声を、報道ヘリの爆音がかき消していった
- 避難所でテレビ局が断りなくいきなりカメラを向け、極度にストレスを抱えた被災者との間で殴り合いのけんかになった
といった事例は、かなりあったようです。
阪神・淡路大震災から今年でもう24年が経過しましたが、こうしたマスコミのどうしようもない姿勢は、まったく変わっていません。
昨年6月に発生した大阪北部地震では、共同通信の力丸将之(25)記者が震災で亡くなった方の居住するマンションに不法侵入し、マンションの理事から退去を命じられたという話題を紹介しました(『【夕刊】傍若無人な振る舞いをするから「マスゴミ」と呼ばれる』)。
あえて言葉を選ばずに申し上げれば、こうした事件報道、災害報道などを巡る一部のマスコミ産業関係者の行動は、「人間のクズ」と批判されても文句は言えません(※もちろん、すべてのマスコミ関係者がこうしたゴミのような取材姿勢を示しているとは言いませんが…)。
その意味で、私は傍若無人な振る舞いや行き過ぎた取材を続けるマスコミ産業関係者は立派な加害者だと思いますし、マスコミからの取材を受ける犯罪被害者、災害被災者、事故被害者らは、「マスコミ取材」という「二次被害」を受けているのです。
法政大学の津田教授のマスコミ擁護論
ただ、最近ではインターネット環境が普及しているためでしょうか、ツイッターやフェイスブック、あるいはYouTubeや某匿名掲示板などで、マスコミの取材姿勢が叩かれることが増えて来ました。そして、こうした状況に対し、「マスコミ擁護論」が出てきていることも事実です。
その典型例が、かなり以前に『新聞衰退は自業自得 これからはウェブ言論繚乱の時代だ』で取り上げた、『マネー現代』に掲載された「新聞の危機」と題する記事ですが、得てしてこの手の記事は、なぜ国民がマスコミに強い怒りを抱いているのかの分析ができていません。
奇しくも、同じ系列の『現代ビジネス』に、数日前にこんな記事も掲載されていました。
マスコミの「迷惑行為」が日本社会でこんなに叩かれる理由(2019/06/02付 現代ビジネスより)
執筆者は法政大学社会学部の津田正太郎教授(マスコミュニケーション論、政治社会学)です。
津田氏は、先ほども取り上げた滋賀県の交通事故を巡って、次のように主張します。
「直近の例では、滋賀県の保育園の園児や保育士16名が巻き込まれ、うち園児2名が亡くなった交通事故にさいしての記者会見が批判を集めている。さらに、同事故の遺族による声明文を、取材の自粛を求める部分を削除して伝えた報道に対しても厳しい批判の声が上がっている。この件に限らず、近年では大きな事件や事故、災害があるたびにメディアスクラムや報道被害が告発されるようになっている。」
ちなみに、なぜこれに対して厳しい批判の声が上がっているのか、そして、この件に限らずマスコミに対する視線が厳しいのかに関する私なりの分析については、先ほど列挙したとおりですので、ここではあえて繰り返しません。
ここで注目したいのは、津田氏なりの見解です。
「ただし、このような告発は、取材記者のふるまいが以前よりも「悪化した」から生じるようになったというわけではない。それどころか、取材記者のふるまいは以前と比べればむしろ改善されている可能性のほうが高い。」(※下線部は原文では太字表記)
??
この下り、ちょっと意味が分かりかねますね。
寛容、不寛容の問題じゃない
実は、私自身、リンク先の記事を何回か読み返してみたのですが、今ひとつ、津田氏の主張が頭に入って来ませんでした。
ただ、あえて私なりにリンク先記事の主張のエッセンスをまとめると、
- 事件被害者に対する心無い報道は過去からいくつかの例があるが(1997年3月の東電OL殺人事件など)、近年ではむしろ取材時のマナーは向上していると思われる
- NHK放送文化研究所の調査で見る限り、日本人は以前より寛容になってきたはずなのに、なぜか日本社会全体ではマスメディア批判に見られるようなギスギスした感じが広がっている
- 日本人の間で「他人に迷惑を掛けること」への抵抗が強く、迷惑な人をあえて探し、糾弾することが、「迷惑を掛けない私」という自己イメージを守るために必要とされ、格好の娯楽になっている
といったところです。
そのうえで、津田氏は「不寛容な寛容社会におけるマスメディア報道」において、「取材活動という『業』を抱え込んでいる以上、記者がどうふるまおうともマスメディア批判はおそらくなくならない」と結論付けているようです。
正直、途中から論理の飛躍と思しき箇所も多々あり、大変申し訳ないのですが、リンク先の論考の主張には、まったく同意できません。あるいは、わざと支離滅裂な(失礼!)文章を書くことで、
「現在のマスコミの取材姿勢を無理やりにでも擁護しようとしたら、支離滅裂な論考が出来上がる」
という事実を示そうとした、ということかもしれません。
マスコミ叩きこそ「良い傾向」
あえて批判を覚悟で申し上げますが、私はインターネット上でマスコミ叩きがなされることについては、「非常に良い傾向」だと思っています。
なぜなら、マスコミはこれまで、自分たちが情報発信を完全に独占していて、自分たちに対する批判は「報道しない自由」で封殺していたからです(その意味で、まさにマスコミこそが「独裁者」だったといえるでしょう)が、ここにインターネットという「でっかい風穴」が開いたからです。
もちろん、何事も行き過ぎた批判はいかがなものかと思いますが、それでもマスコミ各社にとっては、なぜ自分たちが「マスゴミ」と呼ばれているのか、しっかりと胸に手を当てて考える良い機会が訪れている、という言い方もできます。
先ほど、津田氏は「マスコミは取材活動という『業』を背負っているため、批判は避けられない」と述べていますが、私はそうは思いません。マスコミであれ誰であれ、賞賛に値する仕事をすれば評価されますし、批判に値する仕事をされれば炎上するだけの話です。
もう1度申し上げます。
マスコミは、2009年の「政権交代事件」について、何か反省をしたのでしょうか?総括をしたのでしょうか?「二度と偏向報道をしない」と誓ったのでしょうか?
答えはNOです。
いや、マスコミが反省していないからこそ、あの「もりかけ問題」が出て来たのですし、災害報道、事件報道の不祥事は何度も何度も繰り返され続けるのです。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ちなみに私自身が「ウェブ評論家」として、使命を感じている部分は、「悪いことは悪い」「良いことは良い」と、勇気をもって発信することだと思います。
私自身が尊敬する、とあるジャーナリストから頂いたのが、
世の中には「誰かが指摘しなければならないこと」がある
という言葉です。
この言葉は、私の中では宝物です。たとえ批判されても、自分の主張は主張として言い続けることが大切です。
現在、マスコミ産業にいらっしゃる皆さんのなかにも、当初の志を忘れていない、心ある方はいらっしゃるでしょう。そのような方々が中心となり、自浄作用を働かせることができるかどうか、それとも、心ある人が圧殺されていくのかは、私にはわかりません。
本日のところは、「もし自浄作用を働かせることができれば、マスコミも国民から再び受け入れられるでしょうし、そうでなければ、いずれ、マスコミのいくつかが日本社会から排除されるだけの話だ」、と申し上げておきたいと思います。
オマケ:大坂なおみ選手
さて、本稿はこれで締めるつもりだったのですが、もう1つだけ、「小ネタ」を紹介しておきましょう。
ナイキジャパンがアップロードした動画で、テニスの大坂なおみ選手に対し、英語の質問に加え、日本のマスゴミ記者(※ここはあえて「マスゴミ」と書きます)と思しき者からの
- 何か賞金で買いたいものはありますか?
- 日本語で答えて下さい!
- またこのあともかつ丼を食べますか?
といった、まことに下らない質問の音声が流れ(英語のものも混じっています)、最後に大坂選手が人差し指を口に当てて「シーッ」と言う、という、マスコミに対する痛烈な皮肉になっているのです。
マスコミ産業の関係者の皆さん、これを見てもわからないのだとしたら、もう自浄作用は期待できませんよ?
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独断と偏見かもしれないと、お断りしてコメントさせていただきます。
もはや日本マスコミ村の内と外とでは、違う世界になっているのでは、
ないでしょうか。
蛇足ですが、(東電OL殺人事件の)報道時代と比べて、取材する記者が
良くなったと言われても、それは前が酷すぎたからで、今が良い訳ではあ
りません。それに、今は取材が規制される恐れがあるから自制しています
が、その恐れが無くなれば、ロス報道の時代に戻る恐れもあると思います
駄文にて失礼しました。
これは日本だけの問題ではありません。
97年のダイアナ元皇太子妃の事故死もパパラッチの執拗な取材が原因でした。
トランプ大統領に対するロシアゲートもアメリカ版モリカケと言われています。
CNN等の報道しない自由も日本メディアに劣らず酷いものです。
これは情報という権力を透明性も持たずに独占した事の弊害でしょう。
自浄作用無き権力は腐敗していきます。
政治権力ならば民主主義、報道等によって監視する機構が出来上がっていますが、報道にはありません。
人類の歴史において政治権力を抑える機構は長年かけて構築されました。
21世紀は情報権力を抑える機構を構築する事が人類の課題となっています。
SNSの発展によって個人の情報発信力が強くなったおかげで相対的にマスコミの力が縮小していっているのはいい傾向ですね。ただ、個人の情報発信力が強くなったということは同時に日本国内に多数いると思われる日本の敵対国の工作員にとってもフェイクニュースを流すのが容易になったということでもあります。国民ひとりひとりが賢くなって受け取った情報を判断する力を育てないといけない時代になったということなんでしょうね。私のような素人にはなかなか厳しい時代です
門田隆将さんの著書、「新聞という病」で、下記のように語ってます。
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何が変わったのか。
一言で尽くせば、新聞記者が「偉くなってしまった」のである。もちろん、物理的に偉くなったのではなく、彼らの「意識として」である。
いつの間にか、天下国家をあたかも自分がまわしているような錯覚をいだくようになった新聞記者たちは、・・
<略>
意識が劣化し、自分の姿をみうしなってくれば、自分が他者から「どうみられているか」もわからなくなる。誰からも、そして何の尊敬も、受けていないのに、自分があたかも特権階級であると思い込み、そのために記者会見を記者である自分の「意見表明」の場であるかのように勘違いする者まで現れた。
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門田さんの著書の宣伝をするわけではないのですが、おもしろかったス。
「youは何しに日本へ」と言う番組がありますが、これで感心するのは取材先に必ずアポを取ってからカメラを入れることです。
でも考えれば当たり前のことですよね。
他人の家に入るのだから「お邪魔して宜しいでしょうか?」
貴重な時間を割いて貰うのだから「お話をお聞かせ頂けますか?」
終われば「記事にする(放送する)前にもう一度ご確認をお願いします」
最後に「ご協力ありがとうございました」
これくらいは最低限のマナーでしょう。
バラエティーの担当者にはこの程度の常識があるのに、報道の担当者にはなぜか欠けているようですね。
今や新聞やテレビと言っても報道の専売ではなく、ウェブサイトや個人のブログと同等の情報源の一つに過ぎないと思います。
それを昔ながらの特権意識丸出しで、警察の尋問さながら、取材と称する強要を行うから批判されるのです。それが判っていないからこそマスゴミなんでしょう。
報道による被害と言えば、雲仙普賢岳の件も忘れてはなりません。(火事場泥棒も警戒していたとは言え)マスコミが避難した住民の住居に勝手に侵入するので、それを防ぐために消防団の人が避難区域で監視していたときに、火砕流に巻き込まれ亡くなりました。
また、とある殺人事件で、被害者の葬儀にマスコミが押し寄せて来たため、遺族の方の同僚が人間の壁を作って守ったり、ダミーの霊柩車を走らせたりしたという話も聞いたことがありましす。
そもそも「マナーが良くなった」というのも傲慢です。本来は「道義にもとることは一切しない」のが当然なのだから。本当に良くなっているかは怪しいものですが。
マスコミ業界の人間も、生まれつき傲慢だったとは思えないので、内部で染まっていくのでしょうね。とあるカメラマンの自伝で、「パパラッチしようと芸能人の前でカメラを構えたら叩き落とされた。先輩カメラマンに『後ろめたいと思っているからそんなことになる』と言われた」という話があるので、倫理観を捨てるように連綿と教育が行われているわけです。
なにかマスゴミ批判を再掲しないといけない事件でも起きたのかなと読み進めてみましたが、特に大きな事件があったわけでも無いのですよね。
「毎日、更新しないと死んでしまう病」になっていませんか?
今日は韓国経済ネタだけでも充分だったのにと思います。
彼らは常日頃より「我々は権力を監視する公器だ」と嘯いています
ならば彼らは、実質同業者である津田氏のような「マスコミは取材活動という『業』を背負っているため、批判は避けられない。(だから、国民は寛容さを持ってマスコミの『業』を理解するべきだ)」と言い訳せずに、国民の監視・批判を受けることについて甘んじるべきでしょう
現代社会においては、「メディア」は「第四の権力」と看做されるのが当たり前です
その「メディア」の大半を占めるマスゴミが国民から「ゴミ」扱いされるのは、本記事で指摘された数々の「悪行三昧」も理由だと思いますが、一義的に自分らを「権力を監視する公器だ」と主張する割に、自らが既に「権力」である謙虚さというものが完全に欠落しているが故であろうと考えております
毎回災害や事件の度に問題行為起こすのは、学ばないというか問題行為という自覚がないって気がしますね。
中越地震で立ち入り禁止区域に勝手に入り込み、帰れなくなって自衛隊に救助してもらったとかありましたし。東日本や熊本の震災でもやらかしてたましたし。
記事はマスコミ業界人による「マスコミは悪くない、過剰反応する一般人が悪い」という自己弁護にしか見えませんでしたね。
マスコミ業界が自浄作用働かないのは、寡占で庇い合い体質で同業の不祥事を伝えないのも原因な気がしますが。
更新ありがとうございます。
マスゴミなぁ、、。知人とたま〜に外に出てテレビが点いている場に居ると、しょーもないヤラセ芸や内輪の話、金かからんように昔の映像引っ張り出す、あとは安倍総理かトランプ大統領か日米政府の責任やら失態をあげつらう。こういうのが多いですね。
私が無視してるもんだから、あまり親しくない人は「テレビ嫌い?」と聞いて来る。「ああ、見いへんな。こんなん見てたら阿呆になんで」「分かってるよ。誰も面白いとは思ってない。でも点いてたら見るし、家でも、とりあえず点ける」。
テレビ、新聞社は昭和後半の30数年間と、平成時代にわが世の春でした。でも今や市民を誤誘導する装置、またテレビは「一億総白痴化」(大宅壮一氏でしたっけ?)にさせた。
法政大学の津田教授という名前は、以前にも登場していたと思うが、「取材する側が改善されている」?ノンキな先生ですな。これで前期後期授業料140万円とか取るんだから、ほとんど詐欺大学だ(笑)。おっと入学金は30万円、寄付金も募るですか(大笑)。
マスゴミは、公器ではありません。市民を騙したり嘘、デッチ上げ、反日的行動を幇助してはいけない。また私たちもそこをチェックする眼を絶えず鍛えておかねばならないと思う。
シンプルに考えたらいいでしょうね。
嘘つきは軽蔑される。
まずはここからですよね。