河野太郎外相がチャーター機で米国を訪問したことで、4000万円近くもの国民の血税が使われました。もちろん、そうせざるを得ない事情を作ったのは立憲民主党をはじめとする野党であり、本来、彼らこそがそのおカネを負担すべきだと思います。
目次
有権者よ、コスト意識を持て!
新卒サラリーマン1人分の家賃収入を失う
当ウェブサイトではこれまで数回、この話題を取り上げました。
首相外遊に野党反対=河野氏発言を注意-衆院議運委(2018/07/06-18:04付 時事通信より)
これは、河野太郎外相が今月3日に都内の講演会で、「野党の要求で国会に出席したため、海外出張に数千万円のチャーター機を利用せざるを得なかった」「税金の無駄遣いだ」などと述べたことを、野党側が大きく問題視している、というものです。
これに関する話題については、当ウェブサイトでは以下の記事などでも触れたとおり、河野大臣を国会に何時間も拘束しているのは野党の側であり、問題視されるとしたら発言した河野氏ではなく、野党の方ではないかと思います。
こうした中、この話題に「続報」が出て来たようです。立憲民主党の逢坂誠二衆議院議員の質問主意書に対し、政府が昨日(13日)、河野外相が6月の訪米時に使ったチャーター機の費用が約3800万円だったとする答弁書を閣議決定したそうです。
外相訪米のチャーター機は「3800万円」 政府が答弁書(2018/7/13 12:15付 日本経済新聞電子版より)
河野太郎外相訪米、チャーター機に3800万円支出 政府が答弁書(2018.7.13 13:14付 産経ニュースより)
報道によれば、チャーター機に支払われた金額は、3828万7910円です。3800万円といえば、地方によっては十分に豪邸が建つ金額ですし、私(新宿会計士)が居住する新宿界隈でも、ワンルームマンションが2部屋は買える値段です。
新宿のワンルームマンションの家賃相場は月額8~10万円ていどですが、仮に月額10万円のマンションを2軒持っていたら、それだけで毎月20万円の収入が得られます。減価償却費や修繕積立金、税金などを控除しても、所得水準は新卒のサラリーマンの手取り収入とたいして変わりません。
議員1人あたりの実損害額は?
このように考えていくと、心の底から腹が立ちますね。
もちろん、安倍晋三内閣総理大臣を筆頭に、麻生副総理兼財相、河野外相などの国務大臣が国会に拘束され、その間、国務を行う時間が取られること自体、日本の国益を大きく損ねています。その意味で、立憲民主党をはじめとする野党がもたらしている実損害は、3800万円では済まないでしょう。
ただ、こうやって「野党のせいで国民の血税から余分な支出が行われた具体的な金額」を突きつけられれば、いかに鈍感な人であっても、「野党議員こそが国民の敵ではないか」と、薄々感じるのではないでしょうか?
以前、『国会議員の1人当たり給料をねちねち計算してみた』でも指摘したとおり、国会議員を1人雇うことで、少なくとも1.1億円の血税が使われます(ただし、日本共産党に関しては政党助成金を受け取っていないため、金額は少し変わります)。
立憲民主党や国民民主党を含めた野党議員に対しても、議員1人あたり、少なく見積もっても1.1億円という巨額の経費が国民の血税から支出されているのですから、非常にやりきれない思いがするのは私だけではないでしょう。
これに加えて、立憲民主党をはじめとする野党の皆さんが、国務大臣を国会に拘束していることで生じている巨額の損失を考えるならば、結果的に1人あたり1.1億円では済まないコスト負担を国民に強いているのです。
私たち有権者は、こうした「コスト意識」を持つことが必要ではないかと思います。
民主主義のコスト
明治維新は明治天皇による「民主主義宣言」
ただ、私は「政府・与党の邪魔を一切しないために、野党を禁止してしまえば良い」、などと申し上げるつもりはありません。民主主義とはそもそもコストが掛かる仕組みです。1人あたり1億円以上のコストを掛けてでも国会を運営することは、民主主義のためには必要なことです。
もし、「国会の議論にコストが掛かる」のが嫌であれば、中国のように、一党独裁制度を設けるべきでしょう。実際、中国の場合、全人代は法形式上は「国会」なのかもしれませんが、事実上、議論は行われません。ゴム印を押すだけの集会です。
しかし、中国式の独裁体制は、日本にはなじまないでしょう。なぜなら、日本は1890年に第1回目の帝国議会が招集されて以来、すでに130年近い民主主義の歴史があるからです。
もちろん、150年前の明治維新直後から、現在の形の民主主義が行われたわけではありません。最初の選挙は制限付きでしたし、大正年間に実現したのは「男子普通選挙」であって、女性に参政権はありませんでした。
しかし、明治天皇が「五箇条の御誓文」の第一条で「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」(広く会議を興し、すべてを公論で決めるべし)と明らかにされたとおり、明治維新とはそもそもが「日本が民主主義国家を目指す」という宣言にほかなりません。
実際、大日本帝国憲法でも、法律を定めるためには帝国議会の賛成を得る必要がありましたし(大日本帝国憲法第37条)、天皇が非常事態に勅令を発したとしても、議会の賛同がなければ効力を失う(大日本帝国憲法第8条第1項・第2項)とする規定もありました。
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第8条第1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
第8条第2項 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
よく日本は「戦前は天皇独裁だった」とウソをつく人もいますが、大日本帝国憲法の原文を読めば、「天皇が主権者として、すべてを思い通りに決めている」という仕組みにはなっていないことなど明らかです。
その意味で、現代の中国の習近平(しゅう・きんぺい)国家主席、北朝鮮の独裁者・金正恩(きん・しょうおん)のような独裁者は、日本にはなじまない存在なのです。
選挙とは「よりマシな候補者を選ぶ仕組み」
ただ、日本の民主主義の歴史が長いことは事実ですが、それが完璧に機能しているとはいえません。
よく誤解している人がいるのですが、「自分の選挙区に自分と同じ意見の候補者がいないから、投票に行かない」、「自分1人が投票したところで絶対に世の中を変えられるわけなどないから、投票に行かない」、という考え方が、その典型例でしょう。
実際、昨年10月の衆議院議員総選挙の前に、私も選挙関連の記事をいくつか執筆したのですが、そこに寄せられたコメントの中にも、「選挙を棄権すべきだ」などとする意見がいくつか混じっていたことには衝撃を受けました。
しかし、日本がたとえ民主主義国であるとはいえ、基本的には国民が意見を表明する手段は選挙しかありません。選挙を棄権してしまえば、意見を表明する機会というものは絶対にないのです。いわば、「日本の将来はどうなっても良い」と白紙委任しているのとまったく同じことでしょう。
私は、選挙とは「自分の理想の候補者を選ぶための仕組み」ではないと思います。もっといえば、選挙とは、「よりマシな候補者を選ぶ仕組み」にほかなりません。たった1回や2回の選挙で世の中は変わりません。何回も選挙を行うことで、「一番酷い候補者」を少しずつ排除していく努力が必要です。
また、「自分1人が投票しなくても世の中は変わらない」とする考え方も大きく間違っています。正しく言えば、あなたが選挙権を持っているくせに投票をしないということで、結果的に世の中は確実に悪くなるのです。
たとえば、自民党も日本共産党も公明党も、組織票が強いことで知られます。投票率が下げれば、組織票に強い政党が有利になるといわれていますが、組織票に強い政党にとっては投票率を下げることがインセンティブとして働きやすい、ということです(別に自民党がそうだとは申しませんが…)。
また、絶対的に強い政党が1つ存在していれば、たとえ最初はマトモな政策を打ち出していたとしても、やがては腐敗します。かつての自民党が田中派を中心に腐敗して行ったことを思い出すまでもありませんが、やはり、カウンターとしての野党の存在は必要です。
国民民主党に投票するのか?
その意味で、一番わかりやすい事例は、国民民主党でしょう。あくまでも私自身の主観ですが、国民民主党は立憲民主党や日本共産党と並ぶ「国民の敵」であり、「政党ロンダリング」を繰り返した成れの果ての政党であって、さっさとなくなってほしい政党の1つです。
ただ、それと同時に、仮に自分の選挙区で、立候補している候補者が2人しかおらず、片方が国民民主党、片方が日本共産党の候補者だったとしたら、私は躊躇せず、国民民主党の候補者に1票を投じるでしょう。
私が国民民主党を「国民の敵」と罵っているくせに、なぜ国民民主党の候補者に投票すると申し上げているのかといえば、それは、「日本共産党や立憲民主党と比べて、よりマシだから」です。結局、いかなる国であっても、政府、政治家がその国の「民度」を超越することはできません。
日本のように急速にインターネットが普及している国の場合、インターネット空間を通じた政治論争が盛んになっていますが、それでも、以前として偏向報道、フェイク・ニュースだらけのマス・メディアの報道を信じる人も多いですし、当面、どうしようもない野党が出現することは避けられません。
もし私が1日だけ独裁者になり、国会議員を好きなだけクビにして良いと言われれば、謝蓮舫(しゃ・れんほう、日本名=村田蓮舫)議員や山尾志桜里議員、小西洋之、辻元清美議員、志位和夫議員らをクビにすると思います。
しかし、実際にはそんなこと、できっこありません。やはり、謝蓮舫氏や辻元清美氏のような人々を支持する有権者は、一定数は存在しているからであり、これらの議員を1人残らず落選させることは非常に困難なのです。
ただ、私が申し上げたいのは、それでも民主主義を進めなければならない、ということであり、結局は日本国民一人ひとりが賢くなることでしか、日本を良くしていくことはできない、ということです。
そのことを、私は今後も当ウェブサイトを通じて、強く呼びかけていきたいと思います。
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管理人様の意見に同意します。民主主義は時間と金のかかるものです。国民の血税を食い物にする野党議員にも金を払わなければならないし、非合理的な意見にも耳を貸さなければならない。まことに不都合な制度ですが、少数者の意見を残しておくことが後々危難を防いだ歴史がある。愚かな主張と見えても、時と場合により、あるいは時代の移り変わりで最適なものになることもある。一番問題なのは愚かな主張と退け、永遠に抹殺することです。少なくとも愚者の教えが如何に無駄か、後世に残しておける。
話は変わりますが、日本は意外と民主主義に向いている国民かもしれません。鎌倉幕府が成立して以来、力を背景にした武士と宗教の権威が分離し、絶対権威がなくなった。天皇が象徴として存在したため、政権が代わろうと、独裁政治の芽がつぶれた。また、国民も互助しあい、公共のものを大切にする精神があり、他者に配慮して、風紀は乱れなかった。
逆に中国は、独裁政治でなければ国家として維持できなかった。秦の始皇帝から毛沢東まで権力者に権力を集め、絶対君主として独裁してきた。利己主義に走りがちな国民を束ねるのには、他人の意見を聞くよりも、絶対的な君主制度でなければ維持できなかった。合理的な考えでも、権力者に不都合であれば徹底的に排除された。他人のことを考えない国民性では民主主義は無理かもしれない。
中華民族は、台湾くらいの民族のバリエーション(漢族と地元の数種の民族)・土地の狭さなら、うまく近代民主主義国家を運営することが証明されていますが、広大な国土・他民族の「中華帝国」となると、結局、ああならざるを得ない。
人民をこの世から解放してくれる共産党の私軍をもって、強権で少数派を弾圧しないと国体を維持できない。
そもそも構想の様に、満州国・湾岸国・内陸国くらいに分裂していてくれれば、外国に迷惑をかける今の中国にはならなかったでしょうに。