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ここがおかしい…外国人「電車内過剰アナウンス批判」

「日本人は壊滅的に英語ができない」と主張する方による、日本国内の「過剰アナウンス」を批判する記事が、またしても大手ウェブ評論サイトに掲載されているようです。ただ、日本の大都市圏の場合、相互直通運転がなされていることもあるなど、列車の運行種別も多くて複雑であり、また、マナーを守らない人たちもいるため、一部の車内アナウンスは「過剰」なのではなく、「必要」なのです。

2024/01/09 14:00付 追記

記事のカテゴリー設定ミスがあり、表示が誤っていましたので修正しております(記事の内容についてはまったく変更していません)。

科学的思考態度とは?

自分の知っている範囲だけで物事を判断すべきではない

自戒も込めて申し上げておくならば、人間、自分にとって想像力の働く範囲外のことについては、意外と無頓着だったりするものです。

「どうしてそれが行われているのか」、あるいは「どうしてそれが行われていないのか」については、たいていの場合、合理的な理由があります。

能登半島の地震では、日々、犠牲者の方が増えているのに加え、能登半島の一部の集落では依然として物資が足りていないなどの報道も聞こえてきます。地震発生から本日で1週間が経過するなかで、今後は被災者の生活支援を本格化させていかねばなりません。

こうしたなかで、先週の『例の記者「孤立集落へパラシュート投下は可能と思う」』でも取り上げたとおり、大手新聞の記者の方が金曜日、林芳正内閣官房長官の記者会見の場で、「水も食べ物も足りていない」としたうえで、「輸送機を使用したパラシュート投下」を実施しているのか、どと尋ねました。

なかなかに、驚く話題です。

もちろん、C1輸送機などを使用した空中からの物料投下という手法もないわけではありませんが、一般に物料投下は大変に危険な方法であり、能登半島のように山がちな地形で大々的にそれを実施するのは非現実的です。

当然、災害支援のプロフェッショナルである自衛隊が、状況を見て最適な輸送手段を判断しているはずです(実際、自衛隊の具体的な活動内容については防衛省『令和6年能登半島地震への対応』のページなどでも確認できます)。

こうした基本的な情報も調べず、ただの「素人(失礼!)の思い付き」を内閣官房長官という公開された場で大々的に述べること自体、このインターネット化社会において、この記者の方が所属される新聞社自身の信頼にも影響してくるように思えてなりません。

いずれにせよ、この「パラシュート投下」云々の発言に関しても、普段から自身できちんと調べてから発信する癖をつけていれば、もしかしたら出てこなかったのかもしれません。

科学的思考態度の重要性

こうしたなかで考えておきたいのが、「科学を勉強する意味」、「科学的思考態度を身に着けることの重要性」です。

「たかだか記者会見で科学的とは大げさな」、などと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、決して大げさではありません。著者自身の理解で恐縮ですが、科学とは「人間の直感に反することを理屈でわからせる」ための道具だからです。

もっといえば、「自分の直感には反しているかもしれないけれども、理屈で考えていけば、これが正しい」、というのが科学的アプローチです。「自分の直感に反するから、これは間違っている」、といった考え方は、科学的アプローチとはいえないのです。

この点、科学といっても、べつに数式が出て来たり、試験管や爆薬が出てきたりするという話に限られません。

「科学」は「化学」と同じ発音であり、「科学」と聞くと無意識に「化学」を連想する人もいるかもしれませんが(だからこそ「化学」と書いて「かがく」ではなく「ばけがく」と読むこともあります)、「化学」は厳密には「自然科学」の一分野に過ぎません。

法律や経済、金融といった社会科学も、立派な「科学」の一分野なのです。

その意味で、「自分の直感に反するから、これは間違っている」、「自分の直感では輸送機などを使ったパラシュート投下もできると思う」、といった考え方は、極めて非科学的なアプローチだ、ということです。

もちろん、私たち人間にとって、自分で知ることができる範囲は限られていますし、この点については、たとえ新聞記者の方であっても同じことがいえます。

だからこそ、新聞記者、ジャーナリストといった方々こそ、もしわからないのなら「その道の専門家」に話を聞くなりして、ちゃんと調べてから情報を発信する、という態度が大切なのではないでしょうか。

そして、物事を論評するときには、必ず、「自分の想像力の範囲内」だけでなく、少しでも良いから周辺情報を調べる癖をつけたいものです(もちろん当ウェブサイトの場合も、偉そうにそう主張するわりに、当ウェブサイトにそれができているかどうかは別問題ですが…)。

過剰アナウンスと日本の事情

過剰アナウンスとEngrish問題

さて、昨年の『外国人が過剰アナウンスに辟易?郷に入れば郷に従え!』では、とあるウェブ評論サイトに掲載された、「日本で暮らす外国人が公共交通機関での過剰アナウンスやEngrishに辟易としている」、などとする論考を取り上げました。

ちなみに “Engrish” は、誤植ではありません。「L」と「R」の使い分けができない日本式の英語を批判的に表現する造語です。

このあたり、英語を母語としない多くの日本人に対し、「LとRを正確に聞き分けたうえで使い分けなさい」、などと言われても困惑する限りです。駅員の英語でのアナウンスは、あくまでも日本語を解さない外国人に対するサービスとして行われているものだからです。

同じ英語でも、米国本土とロンドン、豪州、ニュージーランド、スコットランドの英語はずいぶんと違いますし、インドやシンガポール、香港などではさらに違った英語が話されていますし、欧州でも非英語圏の人々の英語には個性がありますので、なぜ日本人の英語だけが “Engrish” と批判されなければならないのか、解せません。

ただ、この “Engrish” 批判もさることながら、それ以上に困惑するのが、「過剰アナウンス」批判です。

当該記事の執筆者の方は、以前から「過剰アナウンス」を「日本の病理」、「自分の頭で考えて判断を下せない世界一幼稚な国民」などと舌鋒鋭く批判されていて、こうした記事に対しても、日本に暮らす外国人(とくに欧米系)の人々から「共感を受けた」としたうえで、こう主張します。

電車に乗ると車掌ないしは自動アナウンスが延々と喋り続けています。<中略>しかし、『一人でも多く座れるように座席は詰めろ』『ドア付近の人は一旦ホームに降りろ』『電車が揺れることがあるから立っている人は手すりか吊革に掴まれ』に加え、コロナ期は『時差通勤しろ』『リモート勤務しろ』『ソーシャルディスタンスを取れ』『マスクをしろ』と連呼されました。しかも、丁寧に英語・中国語・韓国語でも流すものだから、車内は次の駅に着くまでアナウンスシャワーのごとき状況になります」。

あのう…ニューヨークの地下鉄のアナウンス、聞いたことありますか?

この点、著者自身の拙い経験に照らすならば、日本がとくに「過剰アナウンス大国」だとは思いません。

実際、たとえばニューヨークの地下鉄や近郊鉄道では、到着駅などのアナウンスに加え、安全に関する注意喚起のアナウンスも頻繁になされているからです(たとえば “Stand clear of the closing doors, please.” といった具合です)。

※余談ですが、ニューヨークの地下鉄のアナウンスについては、動画サイトYouTubeで面白いものが上がっていましたので、お時間のある方は聴取してみてください。次の停車駅の駅名や乗換案内などがなされていることがご確認いただけることでしょう。

アナウンスが多いのには理由がある!

さて、本題である日本の鉄道のアナウンスに話を戻しましょう。

なぜ日本の鉄道でアナウンスが多いのかといえば、たとえば首都圏や近畿圏のJR線、私鉄線、地下鉄線などの場合は、一般に路線によっては列車種別も多く、他社線との相互直通運転などもなされているため、似たような電車でありながら行き先や停車駅が異なる、といった事情が考えられます。

「この電車は快速・XX行きです」、といったアナウンスが流れるのは、多くの利用者がいて注意喚起が必要だからではないか、と考えた方が自然ではないでしょうか(実際、注意喚起がなければ乗り間違えなども頻発するのでしょう)。

もちろん、著者自身、鉄道会社によっては同じアナウンスが日本語、英語だけでなく、中国語、韓国語などでも流れるのは過剰だと感じている人間のひとりですし、さすがに日本語と英語だけで十分ではないか、という気もしています。

ただ、アナウンスを全廃しろ、といった主張は、とくに日本の鉄道路線の実情に合致していません。

もう少し厳しいことを述べておくと、「ひとりでも多くのお客様が着席できるよう、席を詰めてください」、「ドア付近ではいったんホームに降りてください」は、とくに東京、大阪などの満員電車では必要なアナウンスでもあります。頑なに席を詰めない者や、頑なにドア付近に立ち止まり、乗降を妨害する者がいるからです。

日本のマナーを知らない外国人観光客

そして、なぜそれらのアナウンスを、日本語だけでなく、(路線によっては)英語でも行っているのかといえば、それが必要だからです。

実際、東京近郊に暮らしていると、最近、外国人観光客と思しき人々の鉄道利用が増えており、優先席やベビーカー置き場付近を外国人観光客の集団が占拠し、それを必要としている人々が使えない、という事例を目撃することも増えています。

また、日本の通勤電車だと、座席に凹凸が設けられ、1人分の区画が明示されているにも関わらず、7人掛けの席を5人で座っている外国人を見かけることもあります。

もちろん、事情をよく知らない外国人の場合、「その場所を空けてほしい」とお願いすれば、席を詰めてくれたり、優先席を譲ってくれたりする人もいるかもしれませんが、なかには「逆ギレ」してくる事例もあります。

さらに多いのが、駆け込み乗車です。

一般に日本の大都市圏では列車の密度が高く、定時運行を確保するためには、決められた時刻が到来すれば速やかにドアを閉め、安全確認したうえで発車しなければなりません。それなのに、ドアが閉まりかけてからの駆け込み乗車をする者は後を絶たず、列車の安全運航の妨げになっています。

駆け込み乗車事案が発生した場合は、電車の発車後に車掌が車内アナウンスで「駆け込み乗車をしないでほしい」と呼び掛けることがありますが、これも「必要なアナウンス」です。

こうした事例を考えるならば、日本の、とくに大都市圏の一部混雑路線の場合、車内アナウンスは「過剰」なのではなく、「必要」なのです。

年初からの過剰アナウンス批判記事

「過剰アナウンスを嫌う外国人」記事、再び!

もっとも、この「過剰アナウンス批判」の記事は、ときどき他のメディアにも掲載されているようです。

こうしたなかで、ウェブ評論サイト『PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)』に新年早々の3日付で掲載された次の記事は、なかなかに強烈です。

外国人は「電車内の過剰アナウンス」に嫌気がさす…日本自慢の「丁寧すぎるおもてなし」が逆効果になるワケ

―――2024/01/03 10:00付 PRESIDENT Onlineより

この記事自体はプレジデントに寄稿するための執筆されたものというよりは、とある出版物の一部を再編集したものだそうですが、記事執筆者の方は、「外国人は日本の『過剰なアナウンス』に嫌気がさしている」としたうえで、次のように指摘するのだとか。

個人主義の彼らにとって、それは子ども扱いされているように感じる」。

著者の方は、日本に居住する外国人(米国人男性、英国人男性、フランス人男性、セルビア人女性)に話いたところ、外国人の間では日本での生活に一定の満足感を抱いているものの、「日本社会の幼稚さ」「非合理さ」「余計なお世話が多過ぎる」などついて「耐えがたい面もあるようだ」、と述べます。

日本という国は『丁寧であればあるほどいいだろう』という前提があったうえで、『不快に思わない人を極力増やすべく対策を取るべき。クレームは回避したい。そのためにはクレームを言ってこないであろう少数派の我慢は必要』ということが行動原理になっている、と分析していた。これがダサさの根源にある」。

そのうえで、著者の方は、こう述べます。

それは個人主義が徹底された欧米の人にとっては正直ウザい。彼らからすれば『私はいちいち行動に指示されたくない』『私は子ども扱いされたくない』となる。その象徴が『過剰アナウンス』によーく表れているのだ」。

『一人でも多く座れるように座席は詰めろ』『ドア付近の人は一旦ホームに降りろ』『電車が揺れることがあるから立っている人は手すりか吊革に摑まれ』<後略>」。

この点、くどいようですが、車内アナウンスを「クレーマー対策」、「ダサい」などと位置付けるのは、科学的思考態度ではありません。もちろん、なかには不必要なアナウンスもあるのかもしれませんが、多くは「必要だからなされているもの」です。

そして、これらのアナウンスも、自然に考えて、「座席を詰めない乗客」「ドア付近でいったんホームに降りようとしない乗客」「電車が揺れたときに手すりにも吊革にも掴まっておらず転倒して他の乗客に迷惑をかける乗客」がいるからではないでしょうか。

ちなみにこの記事でも、事実誤認があります。

確かにこの手の怪獣ギャオス的絶叫アナウンスはチェコやドイツでは当然のこと、アメリカやタイでも聞かなかった。ラオスでは皆無だった」。

この著者の方が体験した「アメリカ」が、どの都市のことかはわかりませんが、少なくとも先ほどのYouTubeの動画を見ていただいてもわかるとおり、「ニューヨークの地下鉄」では、(多言語ではないにせよ)到着案内や乗換案内、車内安全に関する注意喚起に関するアナウンスがなされていることは確認できます。

こうした初歩的な事実誤認は、困りものです。

日本では英語を話す必要がない

ちなみに今回のプレジデントの記事では、例の “Engrish” 問題も取り上げられています。日本人が「壊滅的に英語ができない」としたうえで、「L・Rの違い」「日本の街中に溢れる間違った英語」などについて力説してくださるのですが、これも恐ろしい勘違いです。

日本の公用語は英語ではなく日本語だからです。

そもそも著者自身は「日本人の英語力が低い」とは思いませんが(※これについては機会があれば別稿にて取り上げます)、もし「日本人の英語力が低い」とする指摘が事実だったと仮定しても、それはまったく恥ずべき話ではありません。

日本国内で暮らしていると、英語を使う必要がまったくないからです。

日本語は「孤立語」などと言われることも多いのですが、そのわりに高等教育も医療サービスも金融サービスもすべて日本語で利用することができますし、ネット上でも日本語のページは大変に多く、日本のマンガ、アニメ、ゲームのなかには、「日本語のままで」、世界中で愛されているというケースもあります。

どうしてこの手の人は、「日本人は英語ができない」ことを、必要以上に問題視するのでしょうか。

それにそもそも論として、たとえ外国人であったとしても、日本国内で暮らすならば、最低限の日本語力は必須でしょう。

むしろ多言語のアナウンスシャワーはいかが?

この点、くどいようですが、著者自身は車内のアナウンスは日本語と英語だけで良いと考えている人間のひとりですし、「過剰アナウンス」の指摘にも配慮して、到着案内・乗換案内など、乗客の利便性を高めるためのアナウンスについては、日本語と英語に限定するのが正解かもしれません。

実際、首都圏の私鉄だと、車内の行き先案内などに関しては日本語、英語、中国語、韓国語などでなされていることもあり、なかには図表のように、日本人にとっては大変迷惑な状況が生じていることもあります。

図表 日本人にとっては大変迷惑な状況

(【出所】東京都営地下鉄大江戸線車内で撮影)

ただ、その一方で、「座席は詰めて」、「駅に着いたらいったんホームに降りて」、「吊革・手すりに摑まれ」、「駆け込み乗車をするな」、は、車内の安全確保や他の乗客の利便性向上のためには必要な注意喚起でもあります。それをやる者が(とくに外国人観光客を含めて)後を絶たないからです。

このように考えるならば、注意喚起のアナウンスに限定して言えば、たとえば「日本語→英語→フランス語→ドイツ語→中国語→広東語→ベトナム語→韓国語」、とった順番で、むしろ車内で延々アナウンスしても良いのではないか、などと思うのですが、いかがでしょうか。

新宿会計士:

View Comments (17)

  • 個人主義が徹底している欧米…と聞くと現在では異常なほどに違和感を覚えますね。
    わたしは欧米こそ、同調圧力の塊だとおもいますけど。
    具体的に言いますと、LGBTを尊重しろ、差別は許されない、などなど。

    本当に個人主義で自由主義なら、他者の思想に文句をつける行為こそが批判されるはずですが、現実はむしろそういったあり方を広め、そうでないものを弾圧するようになっているのは欧米による押し付けではないでしょうか。

    というか、わざわざ自国から日本に来ておいて、日本の在りようを自分たちにとって快適に直せというのであれば、それはまた随分と大した言い草だと思います。
    それは個人主義なのではなく、日本語では自分勝手というのです。

    まあもっとも、マスコミの皆さんの言う『外国人』が、実在するのであればの話ですが。

  • >とった順番で、むしろ車内で延々アナウンスしても良いのではないか、などと思うのですが、いかがでしょうか。

    別にどうでもいいという感じですね。必要なアナウンスしか聞かないので。初めて行く場所で降車駅を間違えてはいけない時など。こういう時は、社内アナウンスがないと困りますが、次の言語にアナウンスが移ればもう聞かないので。そもそも、何故、電車の運行上必要だと考えて鉄道会社が行っていることを、一乗客が外国人まで引っ張り出して来てとやかく言うのか?も分かりませんが、明治維新後の欧米に追い付け追い越せ意識が抜けずに、外国がこうだと持ち出さないと、自説を構築出来ない、知的面で幼稚さを残存させた方のようですね、この筆者は。
    自分の幼稚さを、日本人全体に広げないで欲しい。要は、幼稚なのは筆者のあなただけでしょ、てことです。この方、いろんな所でこう軽い中身の無い記事書いていて、昔は偶に読んだが、内容に感心した事がない。マスコミ界で未だニーズがあるのが不思議です。

  • 新宿会計士様
    記事の表示がいつもと違っている様(サマリーが無い?)に感じます。また、読者投稿も無くなっています。もしかして設定ミスではありませんか?

    • 元一般市民 様

      ご指摘大変ありがとうございます。修正しました。
      引き続きのご愛読並びにお気軽なコメントのほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

  • >日本では英語を話す必要がない
    日本人はなぜ英語ができないかでもたびたび議論になるが、これに尽きると思います。先進国なのに、英語(英文)なしで高等教育とビジネスが成立しているのはすごいことだと思います。

    このくだんの2件の記事を書いた中川淳一郎氏は、典型的な「海外出羽守」のようで、真に受ける必要はないでしょう。なんでいちいち外国の目線を気にする必要があるのでしょうか。

    ・出羽守とは
    https://www.sophia-it.com/content/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%AE%88

    ・「大谷翔平はアメリカで大人気」のウソ 「海外サマから日本人が認められた」が大好きな国民性(中川淳一郎)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/20f7db6db665555889de5dab69e40ef56799ae75

    • KN 様

       どうでも良いツッコミですが、

      >先進国なのに、英語(英文)なしで高等教育とビジネスが成立しているのはすごいことだと思います。

      私は、英語(英文)なしで自国語で高等教育とビジネスが成立するのが先進国で、成立しないのは後進国だと思っています。

      なので、明治の先人の偉大さを想うと共に、社名を横文字に変える風潮を残念に思っています。説明のために補助的に横文字を使うのはグローバルを考えると妥当と思いますし、
      専門家が他国の優れた論文を原語(でも英文が多い)で読むのは当たり前ですが。

      • グローバルを標榜しているなら、社名の変更はわからなくもないのですが、外資系の傘下でもないのに、部署名等までなじみのない横文字に変えてしまうのはいかがなものかと思います(例∶事業開発部→ビジネスディベロップメント部)。
        あと、対応する日本語があるのに、やたら横文字を使いたがる人(例∶エビデンス)。

    • >英語(英文)なしで高等教育とビジネスが成立している
      化学の世界では、1880年代から1910年代まで翻訳用語の論争(基礎化学か応用化学か)して、以後は、高等学校程度までは、基礎化学の日本語の用語を使って教育することが確定したとか、明治期の福沢諭吉などの翻訳で定着した訳語(「人民」、「共和国」等)が、東アジアの漢字圏で定着した。
      しかも、表音文字(英語)でなく表意文字(漢字交じり日本語)で理解して教育が成立している。

  • かなり昔に小沢一郎が「日本改造計画」で、グランド・キャニオンへ行って驚いた、転落を防ぐ柵・立札が見当たらない。日本であれば柵・立札がなく事故があれば観光地の管理責任者に轟々たる非難を浴びるだろう。と主張していた。

    アメリカみたいに自己責任、自己を確立して自己で判断する国民になれとのこと。

    郷には郷に従えでいいだろうに・・・
    日本人が築き上げてきたルールがあり、管理者が安全を担う風土がある。

    車内のアナウンスが一切なしだとオチオチ居眠りもできない・・・。

    >「多言語の過剰アナウンス」

    観光立国を目指している国交省はの指示でしょうか?
    せめて聞き慣れている英語までにして欲しいですね。
    聞き慣れない、言語だと頭がストレスを感じてしまう。

  • 席を詰めて、割り込むな等の注意に付いては中国語、韓国語に限ったらいかがと思います。

  • そもそも日本人にとっては子どもの頃から当たり前に聞こえてきているものなので、特に気を付けてなければいけない場合以外は、「何か言ってるな」ぐらいにしか感じてないのでは。
    そんなに気になるなら、車内ではイヤフォンで音楽でも聴いておけばいいんじゃないかしら。

  • いますよね、こういうの。
    変にアメリカナイズされちゃって、アメリカでは~なんて自分で格好いい、エリートと自慢したい人。
    優秀なはずなのに、電車のアナウンス程度の記事なんか書いてるのに、実は・・・って気が付くといいのですが。

  • 出羽守にとっては、「日本には日本のやり方があるんだよ」なんて絶対に
    受け入れられませんからね。単刀直入に言って、食いっぱぐれる。
    もはや炎上万歳とばかりに、コミュニティノート着弾こそ誉と言わんばかりの
    主張を繰り返すしかない。残り少ないオールドメディアの寿命をしゃぶりつくす為に。

    一度”あっち側”に行ったらもう引き返せないんだろうなあ。

  • 海外の電車やバスのほうが、車内でフツーに携帯電話で話していたりして、よっぽどうるさいと思うけど・・・と思ったら、日本下げの記事しか書かない、しばき隊と一緒に活動していたこともある中川淳一郎さんの記事じゃないですかー!

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