日本の新聞の部数が急激に減っており、業界全体としても10年前後で紙媒体の新聞の多くは廃刊に追い込まれると考えられます。ただ、日本の新聞業界の苦境の原因は、日本の新聞に「批判精神が欠如している」ことである、などと主張するツイートがありました。正直、この見解には賛同できません。日本の新聞に決定的に欠如しているのは「批判精神」などではなく、「事実を正確に伝える能力」だからです。
新聞部数の凋落
新聞の「寿命」
「新聞部数の凋落が止まらない」――。
こんな話を、当ウェブサイトではずいぶんと繰り返してきました。
一般に新聞業界は閉鎖的であり、情報開示も十分とはいえませんが、それでも一般社団法人日本新聞協会が発表する新聞の発行部数に関するデータを含め、いくつかの情報から判断する限り、紙媒体の新聞の多くは遅くともあと10年以内には発行できなくなる可能性が濃厚です。
その理由は簡単で、とくに2018年以降に関していえば、新聞の合計部数(※)が平均して年間300万部以上減少しているからであり、この減少ペースが緩まる気配はないからです。
(※「合計部数」は、日本新聞協会が公表しているデータを加工して求めたもの。)
これについて、改めて詳しく見ておきましょう。
朝刊部数は13.98年でゼロに?
まず、「朝刊部数」については、日本新聞協会が公表しているデータのうちの「セット部数」と「朝刊単独部数」を合算すると計算することができます。その5年ごとの部数と5年間での減少、減少部数の1年平均を計算すると、次の通りです。
朝刊部数の推移(2002年以降5年刻み)
- 2002年→07年:5152万部→5058万部
(5年で**93万部減、年換算*19万部減)- 2007年→12年:5058万部→4670万部
(5年で*388万部減、年換算*78万部減)- 2012年→17年:4670万部→4119万部
(5年で*552万部減、年換算110万部減)- 2017年→22年:4119万部→3033万部
(5年で1086万部減、年換算217万部減)
2002年から07年にかけての部数の減少幅は93万部(つまり年平均19万部減)に留まっていましたが、次の5年間では388万部(つまり年平均78万部)減少。さらに次の5年では552万部(つまり年平均110万部)減り、直近ではなんと1086万部、年平均で217万部減りました。
これが、「長い傾向で見ると朝刊部数の減少は加速している」とする、以前から当ウェブサイトで何度も説明してきた内容です。
ちなみに直近5年間の減少の累計が1000万部を超えているのですから、驚きです。ちなみにこの「5年で1086万部」の減り方が今後も続けば、22年末で3033万部の新聞朝刊は13.98年でゼロになります(『新聞朝刊の寿命は13.98年?』参照)。
夕刊部数はもっと早く、7.68年でゼロになるかも
一方、これに対し、夕刊部数(日本新聞協会のデータでいう「セット部数」と「夕刊単独部数」を合算したもの)については、朝刊部数よりもさらに早くから激減が始まっていたことがわかります。
夕刊部数の推移(2002年以降5年刻み)
- 2002年→07年:1930万部→1785万部
(5年で*144万部減、年換算*29万部減)- 2007年→12年:1785万部→1395万部
(5年で*390万部減、年換算*78万部減)- 2012年→17年:1395万部→1064万部
(5年で*331万部減、年換算*66万部減)- 2017年→22年:1064万部→*645万部
(5年で*419万部減、年換算*84万部減)
2002年から07年の減り方は、5年で144万部、年換算で29万部といったところでしたが、次の5年(07年→12年)で減り方が390万部(年換算78万部)にいったん加速しましたが。次の5年(12年→17年)では減少ペースが331万部(年換算66万部)に低下したのです。
ところが、次の5年間で減少ペースは再び加速し、2017年から22年にかけての減少幅は419万部、年換算だと84万部に達しました。このペースが今後も続けば、2022年に645万部だった夕刊の部数は、7.68年以内にゼロになる計算です(『新聞夕刊は7.68年以内に消滅』参照)。
合計部数で平均すると残存期間は12.21年
そして、朝刊・夕刊を合算した「合計部数」についても、なかなかに強烈です。
合計部数の推移(2002年以降5年刻み)
- 2002年→07年:7082万部→6844万部
(5年で*238万部減、年換算*48万部減)- 2007年→12年:6844万部→6065万部
(5年で*778万部減、年換算156万部減)- 2012年→17年:6065万部→5183万部
(5年で*883万部減、年換算177万部減)- 2017年→22年:5183万部→3677万部
(5年で1505万部減、年換算301万部減)
これによると、合計部数の減少は2000年代前半からすでに始まっていたことがわかりますが、それでも2002年から07年にかけての減少幅は238万部、単純に年平均値を弾くと48万部に過ぎませんでした。
ところが、減少数は次の5年で778万部(年平均156万部)、さらに次の5年で883万部(年平均177万部)となり、直近の5年間では1505万部、つまり1年あたり301万部(!)も減っているのです。
新聞部数は2022年10月時点で3677万部ですが、これが毎年301万部のペースで減少を続ければ、12.21年後には、晴れて新聞部数はゼロになる、というわけです。
ただし、この計算自体は新聞業界全体をあたかもひとつの会社であるかのように仮定し、一律に当てはめて行っているものですので、会社ごとにバラツキはあります。また、全国紙と地方紙の違い、一般紙と業界紙の違いなどもあります。
当然、なかには2022年10月1日から起算し、13.98年を超えてもなお紙媒体の「朝刊」の発行を止めない会社もあるかもしれませんし、同じく22年10月1日から起算して7.68年を超えてもなお、紙媒体の「夕刊」の発行を続けているケースもあるかもしれません。
固定費が高い紙媒体を続けていれば、事業継続を断念せざるを得なくなる
しかし、朝刊13.98年、夕刊7.68年どころか、それよりもかなり早いタイミングで、新聞発行(と事業継続)を断念する会社が出て来ることは、おそらくは間違いありません。新聞社というものは典型的な「装置産業」ですので、それなりの部数がなければ、新聞社は高い固定費を賄うことすらできないからです。
新聞が発行され、各家庭に届くまでの典型的なプロセスといえば、ざっくり①新聞記事になる話題を集めてくる、②それらを紙面に合わせて編集し、構成する、③輪転機で印刷する、④刷り上がった新聞紙をトラックに載せて各専売所に配送する、⑤各専売所から各家庭に配達する、といった流れが考えられます。
おそらくとくに③以降のプロセスで、多大なるコストを費やすとともに、大量の地球温暖化ガスを垂れ流すなどして地球環境にも多大なる負担をかけているわけです(『環境破壊議論するなら真っ先に問題視すべきは新聞紙だ』等参照)。
なぜ日本の新聞は部数が急減しているのか――。それには単純に、紙媒体の新聞は情報が古く、使い勝手が悪く、保存も検索も難しいという不便さだけによるものではありません。新聞社の「感覚」が、私たち国民の関心事とは、かなりズレているからではないでしょうか。こうしたなか、とある雑誌のウェブ版に、新聞記者の皆さんが環境について語り合う座談会が掲載されていたようです。環境について語るなら、真っ先に問題視すべきは環境にやさしくない紙媒体の新聞ではないでしょうか?各種データで見る、新聞部数の急減新聞の部数が急減し... 環境破壊議論するなら真っ先に問題視すべきは新聞紙だ - 新宿会計士の政治経済評論 |
しかも、(あえて実名を挙げることは避けますが)公認会計士の目から見て、会社によっては実質債務超過に近い状態に陥っているのではないかと疑われるような事例もありますし、とくに経営体力のない会社を中心に、「突然死」のリスクも考えられます。
このように考えていくと、不動産事業などの「儲かっている副業」が存在する社は別として、多くの新聞社が本気で生き残りを考えるならば、新聞事業のウェブ化は必至です。
とくに新聞がウェブ化すれば、上記②以降のプロセスが不要になりますし、環境負荷も飛躍的に軽くなりますし、現代の大きな都市問題のひとつである道路の渋滞の原因も一部が解消することになるため、本来ならば新聞社こそ率先して新聞をウェブ化すべきなのです。
日本の新聞のクオリティの低さ
客観的事実と主観的意見の違い
ただし、大変申し訳ないのですが、新聞(とくに日本の新聞)の場合は、「ウェブ化」して何とかなる、というものでもありませんし、そもそもウェブ化自体が困難です。もうこの際端的に申し上げておくと、日本の新聞のクオリティは、総じて著しく低いからです。
これについて考える前に、少しまどろっこしいのですが、そもそも論としての報道の意義を考えておきましょう。
平素より当ウェブサイトでは、「報道」と呼ばれる情報には、「客観的事実」と、その背景情報や報じる人なりの分析を含めた「主観的意見」が含まれていることが多い、と申し上げています。
このうち「客観的事実」は、誰がどう報じてもほぼ同じ内容になる情報のことです。たとえばこんな具合です。
「2023年5月19日から21日にかけて、広島市でG7サミットが開催され、一部の討議にはG7首脳らに加え、ウクライナのウォロディミル・ゼレンシキー大統領らも加わった」。
この文章については、「2023年」の部分を「令和5年」と報じる人もいるかもしれませんし、「ウォロディミル・ゼレンシキー」をロシア語風に「ウラジミル・ゼレンスキー」と表現する人もいるかもしれません。
あるいは、ゲストとして招かれた首脳の中で、インドのナレンドラ・モディ首相に焦点を当てる人もいるかもしれませんし、尹錫悦(いん・しゃくえつ)韓国大統領に焦点を当てたうえ、その発音を「いん・しゃくえつ」ではなく「イン・シーユエ」などと表現する人もいるかもしれません。
しかし、こうした細かい違いはさておき、「いつ」「どこで」「誰が」「何を」といった大きな要素については、報じるメディアが朝日新聞であろうが、産経新聞であろうが、ウォール・ストリート・ジャーナルであろうが、タス通信であろうが、基本的には大きく変わらないはずです。
しかし、これに対して「主観的意見」といえば、次のように、報じる人によってまったく異なる内容になる(かもしれない)情報を指します。
- 肝心の『広島ビジョン』の内容は、『広島で発する意味』がないほどに残念な内容だったと言わざるを得ない。核廃絶への道筋すら示せなかったからだ。
- 今回のサミットでは、人類史上初めて原爆が実戦使用された広島に、ロシアによる核攻撃の脅威にさらされているウクライナのゼレンシキー大統領が訪れてG7諸国の団結を示したという点において、史上最大級の成功を収めた。
この(A)、(B)いずれの見解が「正解」であるかを決めつけることはしません。
メディアに求められるのは「正確な事実関係の提供」
というよりも、ここで重要なことがあるとしたら、「主観的意見」にわたる部分には「正解」というものはなく、何が「正解」であるかについては結局のところ、その情報を受け取る私たちひとりひとりが考えて決断を下さなければならないというものなのです。
もっとも、「主観的意見に『正解』はない」と申し上げると、ごくまれに、こんな反応をいただくこともあります。
「ええ?『正解』を教えてくれないの?そんなの不便だよ」。
これは、ごもっともです。
たしかに、私たちの代わりに誰か賢い人がちゃんとものごとを詳しく調べ上げて考察し、「結論」や「正解」を導き出してくれれば、これはこれでらくちんです。
ただ、当ウェブサイトでは、こうした「誰かが代わりに考えてくれる」という考え方については「ダメだ」と断定したいと思います。なぜなら、私たち人間は「考える葦」だからです。いや、私たちが「人間」であるためには、そもそも考えることを放棄してはなりませんし、また、考えることは生きる喜びのひとつです。
だから、なんらかの話題(たとえば週末のG7広島サミット)に関しても、「誰かが代わりに結論を出してくれる」のを期待するのではなく、あくまでも私たち国民ひとりひとりが「考え」たうえで、ちゃんとした結論を自分なりに出さなければならないのです。
このように考えていくと、私たち国民が本来、報道機関に期待するものは、「正確な事実関係を教えてくれること」ではないでしょうか。
要するに、私たち一般国民が正確な判断を下すうえでの参考となるべき事実関係を、できるだけ多角的に明らかにしてほしい――。
それが、報道機関の本来の重要な役割ではないかと思うのです。
「日本の新聞に欠如しているのは批判精神だ」
こうしたなかで、これに関連して週末、「考えさせられる」ツイートを発見しました。
それは、こんな趣旨の内容のものです。
- いま、日本の新聞の読者数は急激に減っている
- その理由のひとつは、批判精神の欠如だ
- いわゆる「事実」を伝えるだけでは不十分だ
- 事実の背後にあるものをえぐり出して、読者に提示しなければならない
(【出所】ツイッター)
…。
これはとあるフリージャーナリストの方が5月20日にツイートしたものです(正確な内容を知りたければツイッターのリンクをご確認ください。
結論からいえば、この「批判精神の欠如」のくだりについては、どうにも賛同できません。日本の新聞(というか、新聞だけでなくテレビも含めたオールドメディア全般)に不足しているのは、「批判精神」ではなく、「事実を正確に伝える能力」ではないかと思えてならないからです。
また、「事実」云々のくだりについても、「いわゆる『事実』を表層的に伝えるだけでは不十分であり、その事実の背後にあるものをえぐり出すべきだ」、などとする意味だと考えるならば、一般論としては、たしかに一理あります。
しかし、そもそも論として日本のオールドメディアの現状は、「それ以前の問題」です。事実を伝える能力自体が著しく低いからです。
日本のメディア記者は事実を軽視する
もっと言えば、読者が本当に欲しがっている情報を、日本の新聞は提供しようと努めてきませんでした。日本の多くの新聞では、掲載される記事は「読者が知りたがっているもの」ではなく、「新聞記者が書きたいもの」であることが、大変に多いのです。
そのことを端的に示した調査のひとつが、『日本のメディアは客観的事実軽視=国際的調査で裏付け』でも取り上げた、 “The Worlds of Journalism Study” (WJS)というウェブサイトに掲載されていた、各国のジャーナリストに対する意識調査です。
最下位に近い「物事をありのままに伝える」「冷静な観察者である」日本のジャーナリストは外国のジャーナリストと比べ、「政治的指導者の監視や精査」、「政治的決断に必要な情報の提供」、「政治的課題の設定」という役割をとくに重視している一方、「物事をありのままに伝える」「冷静な観察者である」という役割は軽視している――。こんな傾向がわかったとして、ネット上ではちょっとした話題になっているようです。といっても、情報源はかなり古い調査ですが、それでもネット上では共感を得ているようです。WJS意識調査が面白い... 日本のメディアは客観的事実軽視=国際的調査で裏付け - 新宿会計士の政治経済評論 |
調査自体は全67ヵ国のジャーナリストらを対象に実施されていて、これについては “Country reports – WJS2 (2012–2016)” のページから確認できるのですが、そのなかでもとくに興味深いのが、「ジャーナリストの役割」( “Roles of Journalists” )とする図表です。
これによると、「物事をありのままに伝える(Report things as they are)」という項目を「重視する」と答えた日本のジャーナリストは65.1%で主要国と比べて極端に低く、調査対象となった全67ヵ国中、63位という、惨憺たる成績です。
また、「冷静な観察者である(Be a detached observer)」という項目を「重視する」と答えた割合は44.1%であり、これもこの回答が出てくる66ヵ国のうちで62位、すなわちやはり下から5番目なのです。
もちろん、この調査自体、実施された年が若干古いことについては注意が必要ですが、それでも一般人の肌感覚には合致しているのではないでしょうか。当ウェブサイトでもしばしば取り上げるとおり、日本のオールドメディアには、「事実を軽視し、自分たちの勝手な意見を読者・視聴者に押し付ける」という傾向が強いからです。
その結果でしょうか、当ウェブサイトではもう数えきれないくらい指摘してきたとおり、新聞だけでなくテレビも含めた日本のオールドメディアのコンテンツには、①公安や善良な風俗を害するもの、②政治的に不公平なもの、③事実を歪曲したもの、④意見が対立している問題を偏って伝えるもの(※)などが多すぎるのです。
(※ちなみにこの①~④は、放送法第4条第1項のパロディです。)
放送法第4条第1項
放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
記者クラブとクロスオーナーシップによる独占体質
ではなぜ、日本の新聞・テレビの「事実伝達能力」がここまで低いのでしょうか?
その理由の一部はおそらく、オールドメディア業界がドップリと浸かっている「利権構造」にあります。そのなかでもとくに大きな問題は「記者クラブ」と「クロスオーナーシップによる少数独占」にあります。
じつは、この2つの問題点、すでに国際的な組織によって過去に何度も指摘されてきたものです。
たとえば『国境なき記者団の「報道の自由」調査は信頼できるのか』では、フランスに本部を置く「国境なき記者団(Reporters sans frontières, RSF)」が公表した「報道の自由度」で、日本のランキングは68位と「G7で最低」だった、などとする話題を取り上げました。
フリーダムハウスのランキングだと日本はむしろG7トップクラスフランスに拠点を置く「国境なき記者団(Reporters sans frontières, RSF)」が現地時間の3日に公表した「報道の自由度」では、日本のランキングは68位と昨年より3位上昇したとはいえ、G7で最低となりました。しかし、米国に拠点を置く非政府組織「フリーダムハウス」が今年3月に発表した「自由度ランキング」では、2023年も日本はG7でカナダに次ぎ2番目となり、「極めて自由度が高い社会」との評価を受けています。少なくともどちらかの調査がデタラメという可... 国境なき記者団の「報道の自由」調査は信頼できるのか - 新宿会計士の政治経済評論 |
RSFはレポートで、日本のジャーナリズムの問題点として、「大手メディアの記者らが所属する記者クラブから外国人記者やフリーランスの記者らが排除されている」、「クロスオーナーシップを禁止する法制がないため、少数の会社によりメディアが支配されている」などの点を挙げていました。
なぜか日本の新聞・テレビなどのオールドメディアは「日本のランキングが低かったこと」しか報じませんが、そのレポートの原文(『「報道の自由度はG7最低」に一般人のツッコミが多数』参照)でハッキリと、日本のメディアの在り方の非常に大きな問題があると指摘されているのです。
「国境なき記者団(RSF)」が公表したのは「報道の自由度ランキング」ではなく、「報道の正確性」ランキングだったのかもしれません。ゴールデンウィーク中にも話題として取り上げた「報道の自由度」ランキング、日本は今年68位と「G7で最低」を記録しましたが、改めて眺めてみると、ツッコミどころだらけでもありますし、「第四の権力」であるメディアのことを当ウェブサイトで堂々と批判することができるということ自体、日本が本当に自由な社会であるという証拠でもあります。報道の自由度はG7で最低ゴールデンウィーク中の... 「報道の自由度はG7最低」に一般人のツッコミが多数 - 新宿会計士の政治経済評論 |
(※余談ですが、RSFランキングにはそもそも論として、決め方自体にも客観性がない、という重大な問題点もあります。これについては米「フリーダムハウス」による自由度ランキングで、日本がG7でカナダに続き、圧倒的に高い評点を獲得しているという事実と比較すれば、明らかでしょう。)
つまり、日本の新聞、テレビなどのクオリティは、オールドメディア業界による少数独占・談合体質と、それに基づく報道姿勢の結果なのです。
そして、『椿事件から玉川事件へと連綿と続くテレビ業界の問題点』などでも指摘してきたとおり、日本のオールドメディアはときとして、その社会的影響力を正しい方向に使わず、悪用したこともあるのです。その報道姿勢が最悪の形で結実したのが、2009年8月の衆議院議員総選挙だったのではないでしょうか。
とある参議院議員が1993年に発生した「椿事件」を「テレビ局に対する政治介入を許した痛恨事」、などと述べたそうですが、この「玉川事件」は歪んだ事実関係が大々的に報じられたという意味で、椿事件と本質的にはまったく同じです。「椿事件」と比べると、今回の「玉川事件」、正直、大したインパクトがあるとも思えませんが、この問題が連日のように炎上しているという事実は、インターネットとテレビ業界の力関係が完全に逆転しつつあるという状況を示すものでもあるのです。玉川事件と放送法玉川事件のインパクト:テレ朝の処分に... 椿事件から玉川事件へと連綿と続くテレビ業界の問題点 - 新宿会計士の政治経済評論 |
この選挙では、オールドメディアのスクラムに基づく偏向報道の末に、自民党が大敗し、当時の民主党が圧勝しました。つまり、これにより政権交代まで成し遂げたのですから、これなどまさにメディア・クーデターそのものであり、日本の民主主義史の汚点そのものです。
しかし、オールドメディアがこれについて読者・視聴者に対し「偏向報道をして申し訳ございませんでした」と真摯に謝罪したという話はほとんど耳にしませんし、当時の偏向報道ぶりについてオールドメディア自身が検証したという記事を読んだ記憶もありません。
正直、どこまでも腐敗し切った業界だと断じざるを得ないでしょう。
新聞業界の「散り際」を考える
新聞社にもCSRはある:販売店の支援を!
ただ、冒頭でも指摘したとおり、新聞業界にはもう先はありません。
一部の新聞社は「事実上の不動産会社」に姿を変え、また違う新聞社はウェブ戦略に成功し、それぞれ生き残りを図っていくのではないかと思いますが、圧倒的多数の新聞社(そして少し遅れてテレビ局)は、早晩、事業継続を断念することになるはずです。
いや、もしかするとその前の段階で、「じゃーなりずむのひをけすな」などと騙り、経営難の新聞社やテレビ局に対して「公的資金を注入せよ」、などと、社説でしたり顔で主張でもするつもりでしょうか?
もしそうだとしたら、盛大に笑ってやりたいと思います。
こうしたなかで、もうひとつ指摘しておきたいのが、「企業の社会的責任」、つまり「コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティ(略してCSR)」です。
何の話かといえば、新聞社には系列の新聞販売店の廃業や業態転換を支援する道義的な義務がある、という論点です。なぜなら、新聞社こそがこのCSRに基づき、一般企業に対し「社会的責任を果たせ」などとご高説を垂れてきた存在だからです。
新聞販売店はこれまで長らくの間、新聞社の経営を支えてくれた存在です。
ただ、それと同時に多くの場合、新聞販売店は新聞社とは資本関係になく、一説によれば、ときとして「押し紙」などを新聞社から押し付けられるなどし、新聞社から搾取されてきた存在でもあります(『新聞崩壊?「押し紙」認めた判決契機に訴訟ラッシュも』等参照)。
昨日、地味ながらも非常に重要な判決が、佐賀地裁で下されました。『弁護士ドットコムニュース』によると、佐賀新聞の販売店の元店主が佐賀新聞社を相手取った訴訟で、裁判所は「押し紙」の存在を認定したからです。これがいったい何を意味するのか。「アリの一穴」ではありませんが、新聞業界が足元からガラガラ音を立てて崩れるきっかけになるのかどうかが注目されます。新聞部数水増し疑惑日本新聞協会の朝刊単独部数以前の『「新聞業界の部数水増し」を最新データで検証してみた』で、「一般社団法人日本新聞協会」が公表する『新... 新聞崩壊?「押し紙」認めた判決契機に訴訟ラッシュも - 新宿会計士の政治経済評論 |
だからこそ、新聞社が紙媒体の新聞の発行(や事業そのもの)を断念せざるを得なくなるタイミングで(あるいはそれに先立って)、せめて新聞販売店の廃業、業態転換などを後押ししていかなければならないのです。
新聞販売店の現場は、大雨が降ろうが、大雪が降ろうが、大量の紙を、できるだけ綺麗な状態で、決まった時間に送り届けなければならないという点において、大変に過酷です。そんな現場で長年新聞配達を続けてくれた人たちに対し、新聞社はいくら感謝してもし過ぎではありません。
新聞業界の苦境は自らが招いたもの
いずれにせよ、雨の日にも新聞を極力濡らさないで正確な時間に送り届けるという配達ノウハウを持った販売店のスキルを、スーパーやコンビニの配達など、社会的に応用できる可能性があるのかどうかの研究は行うべきでしょうが、あまりそのような研究が進んでいるとする話題も聞こえてきません。
それともあれでしょうか?
まさかとは思いますが、新聞社の皆さんは将来的に苦境に陥りかねない新聞販売店の経営に無関心だとでもいうのでしょうか?新聞社の皆さんから見て、末端の新聞配達員のことはどうでも良いとでもいうのでしょうか?
もしそうだとしたら、これもとんでもない話だと言わざるを得ないでしょうし、今すぐ「CSR」などと騙るのをやめていただきたいところです。
いずれにせよ、日本の新聞業界が今日置かれている苦境は、新聞業界が自ら招いたものです。
もちろん、スマートフォンの普及、インターネット環境の発展といった外部要因もあるのですが、それだけでなく、そもそも記者クラブやクロスオーナーシップなどの独占体質にドップリと浸かり、事実を軽視し続けた結果であることだけは間違いないと考えて良いでしょう。
その意味では、その「散り際」にも注目する価値はありそうです。
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おはようございます。新宿会計士様の放送法第4条第1項のパロディ、すばらしかったです。ここに集まる皆さんの99%と(日本国民ーあちら系)の95%くらいが激しく同意していると推察します。
さて、昨日までPCにへばりついてG7のストーカーやってました。キッシー(キシダ呼び捨てから1ランクアップ)の屋外での記者会見終わった後、誰か男イソコみたいなのが喚いているかと思ったらキッシーが戻って返答しはじめたシーン、見た方もおられるでしょう。(返答内容が今一つだったのはさておき、)その男イソコ、元朝日だそうです(出典:飯山陽SNS)。
新聞記者の散り際は潔くなくてはならぬ
そうであってこそ誇り高き職業集団の誉れである
転職完遂のため自らのスキルシートを直視せよ
鯵テーションはこんな感じでしょうか
あえて言うのですが、それでも日本のメディアは「韓国に比べれば」まともです。(比較対象が悪いのかもしれませんが••••。)
韓国メディアは、それこそ「客観的事実を直視しない」「科学的知見を直視しない」「論理的思考を軽視する」「感情論のみで論旨を展開する」「日本が悪い、との結論ありきで文を書く」なんて酷さのオンパレードです。
韓国メディアの酷い文は、あの朝日新聞にも劣ります。(比較対象が悪いのかもしれませんが••••。)
そして、日本メディアの場合はそれでも「ご意見」を聞く欄くらいはあり、苦情をそこでいうことはできますが、韓国メディアは、自社の日本語版で記事を書いたり、Yahoo!ニュースに出稿してPVで稼ぐくせに自社サイトに「ご意見」欄すらありません。
(ちなみにYahoo!ニュースはPVで稼ぐくせに、韓国メディアの記事をどうして載せるのかと問うたら「記事の内容のことについては当社は感知しません」という対応で、不誠実です。)
私にとっては、日本のメディアよりは韓国メディアの方が先に倒れてもらいたいですね。(もっとも、これは"worse or worst"の違いでしかないですが••••。)
日本の、新聞に足りないのは、
1.「事実を正確に伝える能力」と
2.「論評力」(批判精神とは関係ないもの)
です。
これは、新聞が始まった昔からでしょう。少なくとも、物心ついた時から、新聞の情報は余り正確ではないと織り込み済みでしたし、論評などというものは全くなかったので、そのニュースの意味する所を理解することは、先ず無理でした。
日本人は、ニュースの意味も理解することなく、ニュースを自己流で解釈するしかなかったのです。実際は、解釈もしていないですが。
そして、日本には、ニュースの意味とコンテクストを理解できる人間が育たたない土壌が出来上がってしまい、自分の頭で物事を読み解けない人間を大量生産してしまったのです。
そういう環境で育って来た人間が、新聞記者になるので、いつまでも、日本の新聞のレベルは上がりませんでした。
そして、上がらないまま、終焉の時を迎えつつあるようです。
所で、日本の新聞に何故「論評力」が無いかと考えてみますと、「事実を正確に把握する力」が無いからです。「正確に把握していないものを論評は出来ません」から。
「日本の新聞に欠如しているのは批判精神だ」という発言をした、フリージャーナリストも又、ジャーナリズムの本質が分かっていないですね。
ジャーナリストとは、コンサルタントと同じで、自分がジャーナリストだと宣言すれば成れるそうなので、どんな言語感覚と文章読解力と物事の本質を見抜く力を持ち合わせた人間かは、分かりません。
しかし、「批判精神」という言葉を持ち出す辺り、そのレベルが推し量られます。
彼から、何故、「論評」という言葉が出てこなかったのか?
それは、子供の頃から、新聞その他で「論評」というものに出会ったことが無かったからではないか、と推測されます。
論評は、かなりの識見の蓄積と見識の眼力がなければ、書けませんが、批判なら誰でもできます。実際、今のマスコミは、芸人にコメンテイターという名前を付けて、誰でも言いそうな「批判」を喋らせています。誰でも批判が出来るからですね。
新聞・マスコミ各社には、論説委員、論説主幹、という職がありますが、なかなか成程という論評を書ける人間がいないようで、成程という論説記事に出会ったことが無いです。
ただ、読売新聞の橋本五郎さんの論説は分かり易かったですし、成程と思うことがありました。
他の新聞社の論説記事は、主観的意見という意味のない言葉で構成されており、読む気も起こらないものです。
新米記者の時から、正確に事実を把握し、事実を正確に記述する力を養成してこなかった人間が、論説委員になったからと言って、論評記事が書けるはずがありません。
要は、新聞社やマスコミは、論評・論説を軽んじているのです。
それが、新聞が低落して行く結構大きな要因であるように、個人的には感じます。
NHK のアナウンサーだったかが一般人にインタビューをして、その際にこう尋ねたのだそうです。「伝えたいこと、訴えたいことがありますか?」
尋ねられたから彼は自分の考えを話しているのであって、「伝えたいこと」「訴えたいこと」があると限らないではないか。TV 局の「中のひと」の頭の中はそう風にできている。私見広報装置を使って悦に入っているとは笑止だ。今や代わりはいくらもある。発言を聞いて欲しければ聞いてくれるひとが集まっていそうなところへネット投稿するだけだ。NHK 職員にはそう分からないのです。
「伝えたいこと、訴えたいことがありますか?」
これが、今、スポーツ選手のインタビューや記者会見で、定番の質問句になっているので、耳障りで仕方がありませんね。
答えは、「応援お願いします」に決まっているものを、わざわざ聞くとは、職務怠慢も甚だしいと思いますが、こんな輩に腹を立てるのも勿体ないのでそれ以上は考えないことにしています。
しかし、考えなくても、大学を出ていてもこんなレベルの連中が日本全体に蔓延しているのかと思うと、国の行く末を憂慮せざるを得ないのが悲しいです。
共同通信や時事通信のような通信社もねじ曲げる
新聞は嘘を書くのが仕事くらいに思っていた方がいいですね
毎度、ばかばかしいお話しを。
日本の新聞社:「自社にとって都合の悪い事実を、事実として認めるのは前例がない。だから社内で問題を生まないように、主観的事実で報道するのだ」
これって、笑い話ですよね。
蛇足ですが、日本の新聞社内部では、建前としては、小さな問題はあるが、大きな問題は起きていないことになっているのではないでしょうか。
>A: ~広島で発する意味がないほどに残念な内容だったと言わざるを得ない。
>B: ~G7諸国の団結を示したという点において、史上最大級の成功を収めた。
カエサルの『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない』を思い出す。
Aでないと気が済まない人たちが一定数いるのだろう。
sqsq さま
Aの読者もBの読者も読んでもらおうとしたら、両論併記にするか、(デジタル配信で)相手によってAの記事にするか、Bの記事にするか選べる(?)ようにするかでしょうか。
Twitter でこんなのが流れてきました。中国を心から愛している黒色中国さんというかたの発言です。
>ようするに、 「オレたちのヒロシマを、アイツらに使わせるな」 というだけのことなのだろうな。 大体、あのカイワイの人はこのタイプ
ATMの例の記者さんが日本にない「F16を提供するのか?」と言っていました。この記者さんの不勉強さと知識のなさ、思いつきにあちこちからツッコミがはいっていましたが、この程度でしょう。古い映画にあるような「ブンヤ」と昔言われていた人たちが戦後に「ジャーナリスト」と名前だけ出世しましたけれども、本質は変わりありません。映画を作ったりして当人たちは勝手に「スター」と思い込んでいるのは、なんとも笑止でしょうがでありません。「歌を忘れたカナリヤ」にもなれません。
>日本にない「F16を提供するのか?」
知ってて書いたなら新聞の「タブロイド化」
知らないで書いたなら「新聞記者の劣化」
イソコ氏もツッコミどころのあるミスをしたものですが、軍事には弱いんですかね。キャタピラーと砲塔がついていれば、概ね『戦車』と報じてしまう軍事オンチな日本メディアが多いとは言え。田岡俊次さんは朝日なれど結構しっかりした軍事情報の解説をされていたかと思いますがいまはご退職されてしまい寂しい限りです。
「批判精神の欠如」は元NHK記者のツイートですが、心あるマスコミOBによるとここ1,2年の朝日は先鋭化が顕著だそうです。
新聞の中の人も売れない原因が「批判精神の欠如」だと思っている可能性があります。
あるいは、将来廃止するつもりの「紙」の存続期間中、可能な限り固定客離脱を防ぐための経営判断かもしれませんが。:P
炎上してるんでご存じの方も多いと思いますが、G7首相記者会見で「逃げるんですか?!」をやったバカ記者がいたそうですが、元朝日記者がツイートで「自分がやった」と自白していました。
自分の質問時間が与えられなかったことと、自分の気に入る回答が得られなかったことで逆上した、ということのようです。
時代の転換を告げるG7において、オールドメディアと類族の凋落もまた明らかになったと思います。
はるか昔、私が高校生だったころ受検の国語で天声人語が問題になることがあるから読んでおいた方がいいと言われていました。
今はどうなのか知りませんが、当時はそんなものかと思い図書館で読んでみた記憶があります。
(私の家は中日新聞だった!)
今思えばあれは高校生を誘導して朝日新聞を購読させるのになかなかいい手段だったのでは。
大学生になって朝日ジャーナルに入りやすくさせるためにも役立ったかもしれません。
私もなんとなく読んでいましたから。
大人になった今読んだら主観ばかりの突っ込みどころが満載の文章だったでしょうね。
新聞の退潮は自分の経験からも避けられない流れだと思います。