私たちはできるだけ安心し、できるだけ安全に、できるだけ快適に暮らしていける社会的な仕組みを、できるだけ安く構築作っていかなければなりません。この点については、おそらく多くの方が同意してくださるでしょう。もっとも、どこまでコストをかけて、どこまで便利で安全な社会を目指すかについては、議論がありそうです。とりわけどこまで少数派に配慮しなければならないのか、という点については、論点としては重要でしょう。
2024/03/28 12:25追記
記事カテゴリーが誤っていましたので修正しています(内容に変化はありません)。
目次
安心・安全・快適とコストのバランス
この社会を不便にしているのは、いったい誰なのか――。
著者自身が最近、深い関心を持っているテーマのひとつが、これです。
私たち社会人の多くは、安心・安全かつ快適に暮らしたいと考えていますし、できれば社会を運営するコストも高くない方が良いに決まっています。
したがって、法制度や社会の仕組みなどは、この「できるだけ安心して」、「できるだけ安全に」、「できるだけ快適に」、「できるだけ安く」、のバランスが取れるように決めていくべきであり、この点について異論があるという人は、さほど多くないと思う次第です。
しかし、異論が生じるとしたら、「安心」、「安全」、「快適」と「コスト」のバランスではないでしょうか。
点字ブロックやエレベーターは無駄?それとも…
たとえば、健常者だと街中に高いコストをかけて点字ブロックを埋め込むのは「無駄だ」と思うかもしれませんが、視覚障碍者などにとっては、こうした点字ブロックの存在は死活問題でもあります。
同様に、鉄道駅にエレベーターを設置すれば、車椅子、高齢者、妊婦、ベビーカーなどの利用者にとっては便利ですが、その設置・運営コストは鉄道運賃や補助金などを通じ、結局は駅の利用者や納税者が間接的に負担することになります。
健常者からすれば、もしかしたら「なぜそんな無駄な設備が必要なの?」、「なぜそんなに高いの?」などと不満を覚えるかもしれませんが、それと同時にもしあなたが現時点で健常者であったとしても、いずれ何らかの理由でエレベーターなどの駅施設を使わざるを得なくなるかもしれません。
このように考えていくと、政治とは結局、利害対立が生じているときに、それらの利害をうまく調整し、便利さとコストこのバランスを取ることにあるのではないでしょうか。
できるだけ安いコストで、しかしできるだけ多くの便利で快適な設備、安心・安全を支える仕組みを推進していくことこそが政治家としての大切な役割であり、私たち有権者の側も、政治家のメッセージをよく聞いて、どういう社会を実現していけば良いかに関するコンセンサスを形成していくべきなのです。
こうした「費用対効果」のバランスを考えずに、ひたすら「便利さ」「安心」だけを追求していけば、あるいは、一部の思想・信条を持つ人たちが増えていけば、私たちの社会のコスト負担が無限に増えてしまうかもしれません。
このあたりの見極めは、重要です。
東京メトロに対する損賠をどう考えるか
これについて考えるうえで、その典型的な事例がいくつかあるとしたら、そのひとつはこれかもしれません。
東京メトロの駅トイレでくも膜下出血を発症、7時間後に発見され死亡確認…遺族が1億円超の賠償求め提訴
―――2024/03/27(水) 15:00付 Yahoo!ニュースより【読売新聞オンライン配信】
読売新聞によると2021年に東京メトロ日比谷線八丁堀駅の多機能トイレでくも膜下出血を発症して転倒し、当時52歳だった会社員男性が亡くなった事故で、和歌山市在住の遺族が東京メトロを相手取り、約1億700万円の損害賠償を求めて和歌山地裁に提訴していたことが判明したそうです。
52歳といえば、現代社会の基準でいえば、まだまだ壮年です。ご本人、ご遺族としてはさぞや無念だったのではないかと思われます
ではなぜ、損賠を東京メトロに求めたのか――。
記事によると、問題のトイレにはもともと駅事務室に異常を知らせる非常ボタンや、30分以上の在室で駅事務室に通報する装置などがあったものの、どちらも機能していなかったそうであり、遺族側はトイレの設備を点検しなかった東京メトロ側に過失があったと主張している、とのことです。
東京メトロの責任は皆無?それとも…
この点、東京メトロ側はそもそも「設備を点検する法的義務はない」、「賠償責任はない」などとして請求棄却を求めているとのことですが、非常ボタンはブレーカーが切れて電源が入っておらず、通報装置はトイレと駅事務室をつなぐケーブルが敷設されていなかったそうであり、東京メトロ側の過失が皆無とは言い難いところです。
実際、本件を受けて国土交通省が2022年3月4日付で公表した『バリアフリートイレに設置する呼出しボタン等の整備不良について』と題する事務連絡によれば、バリアフリートイレに設置される呼出しボタンは「トイレ内で緊急的な事態が生じたことを外部に知らせるための大切な設備」とあります。
当然、こうしたトイレを設置しているのであれば、最低限の機能については日常的にチェックすべき義務があったと考えられますので、「法的義務がないから賠償責任はまったくない」、という言い分については、さすがに難しいかもしれません。
これについては「こんな問題でいちいちトイレ設置者の責任が認められていたら、駅からトイレがなくなってしまう」、などと懸念を示す人もいるようですが、少なくとも本件に関しては、「装置を設置しておきながら、それが正常に機能するかどうかを点検していなかった」という過失が東京メトロ側にあったことは間違いないからです。
もちろん、「バリアフリートイレ」などを必要としない健常者にとっては、そのバリアフリートイレの安全設備などの問題には、あまり関心はないのかもしれませんが、それと同時に健常者もいつ、バリアフリートイレを必要とする立場になるかはわかりません。
いずれにせよ、本件については裁判所がどのような判断を下すのかを含めて注目する価値がありそうです。
ムスリムにはどこまで配慮すべきか
ただ、この「バリアフリートイレ」の事例くらいならばまだわかるのですが、こんな事例についてはどう考えるべきでしょうか。
「月の半分ほどは食べられない」ムスリムの子の給食どうすれば…北九州市の学校現場の苦悩
豚肉や酒を含む食品を口にできないイスラム教徒(ムスリム)の子どもの増加に伴い、学校給食に配慮を求める声が保護者から上がっている。給食を取れない児童・生徒がいる一方、<<…続きを読む>>
―――2024/03/24 06:00付 西日本新聞より
リンク先は有料会員限定の記事であり、西日本新聞と契約をしていないと全文を読むことはできませんが、タイトルおよびリード文だけでも大体内容は想像がつきます。
ムスリムが日本の学校給食を食べられないというのならば、弁当を持参すれば良いだけの話ではないでしょうか。
そもそも日本社会は豚肉や酒を含む食品が一般に流通しており、日常的に食中毒などの健康被害が生じているという事実もありません(酒は飲み過ぎると健康被害が生じますが、それは食中毒などとはまったく別の問題です)。
正直、「豚肉やアルコールは口にしてはならない」とするイスラム教の禁忌自体、現代日本社会における科学的知見に照らした食品安全基準とも相いれませんし、イスラム教徒に配慮することがコスト面などに照らし、合理的なものとは言い難いでしょう。
もちろん、「私たち日本人もいずれイスラム教徒になる可能性がある」、とでもいうのであれば、「少数派であるイスラム教徒のために配慮しなければならない」、といった考え方も成り立たないではありません。
しかし、著者自身は正直、移民以外の理由によってイスラム教徒が日本社会に増えていく可能性は極めて低いと考えている人間のひとりであり、イスラム教徒「だけ」に配慮するような社会的仕組みを求めることには、かなりの無理があるように思えてなりません。
そして、この「イスラム教徒に配慮せよ」とする考え方を敷衍(ふえん)していくと、極端な話、キリスト教徒がワインとパンをミサで用いるのも、日本人が正月にお屠蘇をたしなむのも、控えなければならない、という話につながりかねません。
正直、一部の宗教の戒律のたぐいを公的秩序に組み込むこと自体、合理的な配慮に欠けます。
もしもムスリムが日本社会において共生していくことを望むなら、みずからの信仰を日本社会に押し付けるという考え方は、決して褒められたものではないでしょう。
産科不足…メディアに責任はないのか?
さて、人間というものが、安心・安全を求めるというのは、自然な発想ではあります。
ただ、過剰な安心・安全を求めると、そもそもサービスの提供者がいなくなる(かもしれない)、という点については、注意が必要です。
こうしたなかで紹介しておきたいのが、最近、産科が減少している、などとする話題です。
毎日新聞のアカウントがXにポストした内容によると、お産を取り扱う医療機関がここ20年弱で4割近く激減し、地方でも「産科ゼロ」の自治体が増えている、というのです。
ただ、このポストに対し、例の「コミュニティノート」が「着弾」しているのですが、そのノートに添付されていたリンク記事が、これです。
「医師逮捕までする必要あったのか」 「大野病院」判決の新聞論調
―――2008.08.21 19:40付 J-CASTニュースより
J-CASTニュースに約16年前に掲載された記事によれば、帝王切開手術中に妊婦を死亡させたとして担当医師が逮捕・起訴され、無罪判決が出た「大野病院事件」を巡り、「毎日社説は警察の起訴姿勢を擁護している」と記載されています。
毎日新聞は判決直後の08年8月20日付の夕刊では「刑事訴追が医療の萎縮や医師不足を招くのは、医師と患者双方にとって不幸だ」、「お互いに納得できる制度の整備が急がれる」など、医師や医療機関側を擁護する論調も見せていたそうですが、それでも翌日の社説では、こう指摘したそうです。
「(医師の産科離れが進み、医療側からは『医療が萎縮する』との反発の声が上がった、などの他紙の論調に対し)こうした考え方が市民にすんなり受け入れられるだろうか」
「(『警察権力は医療にいたずらに介入すべきではない』としながらも)県警が異例の強制捜査に踏み切ったのも、社会に渦巻く医療への不信を意識したればこそだろう」
あまり軽々に断言はできませんが、現在の産科不足の原因も、こうした過去のメディア報道と無関係と言い切れるのでしょうか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
いずれにせよ、安心、安全、快適はコストとのバランスが重要です。
どこまでコストをかけて、どこまで便利で安全な社会を目指すか――とりわけどこまで少数派に配慮しなければならないのか、という点などについては、論点としては非常に重要でしょう。
View Comments (12)
>県警が異例の強制捜査に踏み切ったのも、社会に渦巻く医療への不信を意識したればこそだろう
医師が医療行為を行う中での事故って、警察が扱う必要があるのかな?って気はするのです♪
専門性が高い業過なんかは、航空機の事故調みたいなのを作って、刑法じゃなくて行政法で処理するってのも、ひとつの考え方な気がするのです♪
ゲーム理論における共同体最大利益と、囚人のジレンマなどに代表されるような個人の最大利益などにもコストとメリット・デメリットによる平衡点が定まってくると思います。
そして反共同体的行為を取る個人の行為に対する罰則・規定(明文化されない空気感を含む)により、その平衡点は地域・時代・構成員で移動すると思っています。
新宿会計士様のいう各例とともに、無人店舗販売や防犯コストについても脳裏に浮かびました。
社会全体でこれらの低コスト運営が許容されていた過去の日本から、犯罪行為に及ぶ不心得者への刑罰が軽い(法的によりも社会全体で犯罪者を厳罰化しない空気感?)=軽処罰なら犯罪したほうが有利?のような風潮から、社会全体で防犯コスト上昇を必要とするために結局共同体全体が損害をうけてしまう。
個人の内心の自由(全面的に認められる)と表現の自由(共同体への影響が加味される)、共同体内でのコストを個人負担するか全体負担にするかとその割合については受益者利益と負担者コストのバランスを問題ごとに個々に切り分けて考える事が必要かと思います。
これは宗教・信仰だけの問題ではなく、LGBTQ等の性嗜好(PZN等の非倫理的行為含む)への対応、精神的な問題を抱える人々(サイコパス等)への対応、喫煙飲酒やギャンブル者に対する対応などの少数多数問題についても同様のスタンダードで俯瞰しながらコストとメリデメのバランスを取る必要がある・・・とか膨らまして考えましたが…
※この辺は少し過激な考え方になってしまう&論旨を上手く脳内で纏められなかったので、表現には気をつけても、不都合不具合ありそうなので論を止めます。
批判による修正撤回する準備はありますw
こういうのを見ると、昔アメリカで「猫を電子レンジで乾かそうとして猫が死んでしまった」として損害賠償の裁判を起こした話を思い出します。結果は確か、「説明書に『猫を乾かしてはいけない』という記載が無かった」として、損害賠償を認めたように記憶してます。
例えば、電子レンジに猫や犬を入れると反応するセンサーや、横型洗濯機に子供が入ると喧しくブザーがなるような仕組みなど、安全対策をすればキリがないですが、その仕組みはそのままコスト(値段)に影響します。恐らく、ほとんどの人がそんなセンサーは不要で、その分安く買える方を選ぶように思います。メーカー側からしたら、目的外利用で訴えられたらたまったものではないので、説明書に細かく細かく書いていくことになるんでしょうね。
ただ一定数、説明書を読まないで文句言うやつがいるんだよな・・・
(自己反省も含めて)
宗教上の理由で給食が食べられないのは、アレルギーで給食が食べられない人と同じ問題だと思う。事前に給食内容は伝えているだろうから、食べられない日は、弁当持って来い、としか言いようがない。給食費の問題は別として。
>説明書に『猫を乾かしてはいけない』という記載が無かった
だからと言って、濡れたペットを電子レンジで乾かすと言う行為は奇行以外の何物でもないのですが。そんな事をする飼い主の常識と知的レベルを疑われて当然ですが、米国ではそう言う動きはあったんでしょうか。
KY様、昔の話でうろ覚えだったので、改めて調べてみました。
結果、アメリカの都市伝説のようでした。
訴訟大国アメリカを皮肉る話みたいでしたが、調べてみたら似たような話で、犬、子供など、かなりの数が出てきてました。
https://www.snopes.com/fact-check/the-microwaved-pet/
では、本当の話のように書かれてますが・・・w
失礼しました。
トイレの件ですが
本人がくも膜下出血を発症するかもしれない体であることを認識あるいは予知し、あえて非常通報装置のあるトイレを選んだのにそれが機能していなくて亡くなられたのなら話は分かるのですが、たまたま入ったトイレに親切機能がありそれが機能していなかったからと結果論で慰謝料をせしめようとするのは人間の汚い一面を見ているようです。
もちろん東京メトロ側の非に対しては適正な罰則が必要ですであることは言うまでもありません。
出産時の事故をカバーする損害賠償保険の保険料を、出産医療費では賄えないのでは?
産科は、リスクとリターンを考えると成り立たなくなっているのではないか?
同じ少数派とは言っても障害者とムスリムは違いますよね。
私も突然障害者になる可能性はありますが、ある日突然ムスリムになる可能性はゼロです。
自分で選ぶ余地があるものと否応なしになってしまうものを同列に扱うわけにはいきません。
障碍や宗教等を理由にした配慮は常にコストとリソースの問題がつきまといますね。
個人的には「それでマジョリティが損をしてしまうか否か」「マイノリティ側は
何もしなくて良いのか」が判断の基準になると思います。
イスラムの食事事情なら「給食が嫌なら弁当を持ち込んでも良い、事前に申請すれば
給食費は払わないで済む」あたりが妥当な落とし所で、「給食を全部イスラム仕様にしろ」は
もちろん、「イスラム仕様のバリエーションも用意しろ」もやりすぎでしょう。
自分を尊重して欲しいなら、自分以外も尊重するべし。
この精神なら多様性の共存も上手くいくと思うのになあ。
東京メトロのトイレに関する提訴、普通に考えれば、東京メトロを訴えるのは見当違いだ。しかし、この提訴を請け負った弁護士がいるのだから、どんな法的、或いは、社会的な規範をベースを論拠に持って来たものか?
駅のトイレは、病院のトイレとは違い、利用者の緊急事態を察知してそれに対して何か対処しなければならない、というものではないはずだし、そもそも、駅のトイレは、鉄道会社の単なるサービスで設置されているものだろう。
利用者の少ない駅では、トイレを撤去する所もあるらしい。維持費が捻出出来ないから。地元住民の協力で、駅のトイレが維持できている所もあるらしい。
余り、見当違いの訴えをすると、駅からトイレが無くなり、大勢の人が困ることになるかもしれない。
産婦人科医の減少のように、駅のトイレが減少すれば、本当に不便な困った社会になってしまう。
トイレの件ですが、釈然としませんね。
多目的トイレは健常者が普通に利用する設備ではないですよね。
体調崩していて多目的トイレの通報装置を利用する考えは出てくるのかな?と思いますしね。
調子が悪いのであったらトイレの入り口の前に座り込む等で意思表示が良いでしょうしね。
逆に7時間の間多目的トイレが利用できないことで障害者等の本来利用できる方たちが不便な思いをしたかもしれません。
通報装置も多目的トイレの形状上、取り付けられてしまい目蔵版等で設置されていない等の対応があればよかったのではないかとも言えますね。
ムスリムについては過剰対応になりますね。コストが合わないならば弁当持参でお願いすべきですね。
ただ、イスラム教はある意味問題のある宗教で、イスラム教徒と婚姻した場合、イスラム教に改宗しなければならないとなっていたはずです。ここのところが今の世界情勢から考えて問題のある宗教になりますね。改宗の自由がない困った宗教です。だからこそ宗教紛争の大部分がイスラム教が絡んでいると言えるゆえんです。
ムスリムは多様性を求めるが我々の多様性を認めない。
つまりムスリムの要求はムスリムだけの基準で社会を運用しろ。となる
ムスリムは世界一の宗教を標榜しているが「常に宗教で紛争している」ムスリムを日本人は絶対受け入れないだろう。
日本には八百万の神がおり安定した社会を築いている。
これができない方には外に出て行っていただきたい