新聞のブログ化とブログの新聞化
この記事は、『読者雑談専用記事 ブログ宣伝用』(仮)の「実演用」のダミー記事として、当ウェブサイトの外部のブログサイトに投稿するために作成したものですが、リンク先記事については削除を予定していますので、あらかじめ、こちらにも転載している次第です(普段の当ウェブサイトの記事とはわざと文体を変えてあります)。
おことわり
この記事は、とある理由があって、外部サイトに投稿するための「実演用」に作成したものを当ウェブサイト側に「バックアップ用」として転載するものです。普段の当ウェブサイトの記事とは文体がやや異なっていますが、ご了承ください。
なお、予定では明日正午、初の試みとして『読者雑談専用記事 ブログ宣伝用』という記事を公表します。
「責任あるマスコミが権威を持つ社会にしなければ」
私が過去から追いかけているテーマのひとつに、「新聞のブログ化」というものがある。
これは、「社会のネット化が進むことで、『文章を書いて他人様に読ませる』という行為へのハードルがどんどんと下がっていけば、そのうち、新聞記事並みにクオリティが高いブログが出現するかもしれない」、という仮説だ。あるいは、「ブログの新聞化」、と呼ぶべきか。
最初に当ブログでこのことを提示したのは、今から約10年前のことだ。
具体的には、2011年1月10日(月)付の読売新聞東京朝刊1~2面の『日本の改新/識者に聞く』という、山崎正和氏に対するインタビュー記事を批判した、同年1月16日付の『読売社説の怪』というブログエントリーである(※なお、山崎氏は2020年8月に他界された。ご冥福をお祈りする)。
故人を批判するのは本意ではないにせよ、噴飯物なのは、この記事の最後の部分である。
「もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、『責任を持って情報を選択する編集』が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。」
あらかじめお断りしておくが、この文章は記事を批判する目的で、自分自身で紙面を眺めながら手入力したものだったと記憶している(10年以上も前のことなので、記憶はあいまいだが)。
というよりも、当時は「新聞は紙で読む」という社会通念が存在していたためだろうか、このブログエントリーに限らず、「紙に印刷された新聞を眺めながら、キーボードでその文字を打ち込む」ということを、今よりも頻繁にやっていたと思う。
本稿を起こすに当たって、念のため、いま一度原文に当たってみようと思ったものの、そのコピーは手元に見当たらなかったし、該当する記事をネットで検索してみたが発見できなかった。ただ、大筋では、だいたい上記のようなことを、山崎氏が主張されていたことは間違いない。
新聞の思い上がり
この山崎氏の見解、今になって読み返すと、ちょうど2009年から11年ごろが「紙」と「ネット」の分水嶺だったことを示唆しているように思えてならない。山崎氏のこの見解も、「紙」の側が「ネット」の側に強い警戒心を抱いている証拠だからだ。
もしも、「新聞や本こそが知の源泉」であるという命題が永久に正しく、そして、ネットのせいで「新聞や本を軽視する社会的風潮」が蔓延するならば、国民の知的低下を招きかねないという山崎氏の指摘は、ある意味では正しいといえよう。
また、ブログないしツイッターなどのSNSを眺めていると、たしかに「知的訓練を受けていない人が情報発信をしている」という事例がないわけではない。誰もが気軽に情報発信できるようになるということは、そのような弊害をもたらすわけだ。
ただ、この山崎氏の発言が間違っているのは、その前提条件だ。
山崎氏は、新聞を筆頭とするマスメディアが、「情報を選択」するという機能に社会的権威が必要だと主張しておられるのだが、この認識自体、大変な思い上がりである。2009年8月に、新聞を含めたマスメディアが言論の力を乱用して政権を倒したことを思い出すだけでも、これが噴飯物だとわかるだろう。
ただ、こうした「新聞の思い上がり」という論点を別にしても、山崎氏の「警告」から10年経過し、ネット環境が当時よりもさらに普及した現在、果たして国民の知的レベルは低下しているといえるだろうか。
このあたり、山崎氏のいう「国民の知的水準」とやらを、定量的な数値で示すのは難しいため、証明することは困難だが、あくまでも個人的主観に基づいて申し上げるならば、国民の知的レベルは決して低下していない。
むしろ、マスメディアが流すフェイクニューズに騙されなくなるという意味では、知的に耐性が付いてきたとすらいえるのではないか。
そもそも論だが、山崎氏の述べる「責任を持って情報を選択」する機能を、読売新聞自身を含めた当時の新聞が果たしていたといえるのか。いや、現在でも果たしているとはいえないのではないか。
朝日新聞社の社説と社告の矛盾
これを考えるうえで、朝日新聞が5月26日の社説で、東京五輪の中止を菅義偉総理大臣に要求した、という話題を思い出しておきたい(該当する社説は朝日新聞サイト『夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める』で読める)。
朝日新聞はこの社説で、「新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない」というなかで、「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め、今夏の開催の中止を決断すべきだ」と主張した。
一般に「社説」とは、その社としての見解を世に問うための文章であり、言ってみればその新聞社の「公式見解」のようなものだ。朝日新聞社が言論機関として、自社の責任において「社説」の形でそれを世に問うたこと自体は、朝日新聞社の判断として尊重すべきであろう。
私たち一般国民としては、その朝日新聞の社説を読んで納得すれば、東京五輪中止に同意すれば良いし、そうでなければ無視すれば良いだけの話だ。これが新聞社説に対する正しい付き合い方である。
ところが、株式会社朝日新聞社は同日付で、『東京2020オフィシャルパートナーとして』という文章を公表し、そのなかで「感染状況などを注視し、オフィシャルパートナーとしての活動を続けてまいります」、と断言したのである。
社説で五輪中止を求めておきながら、社告で「オフィシャルパートナーは続ける」。まるで、どこかの国の「ツートラック」とソックリのご都合主義だ。
ちなみに後者の記事は、朝日新聞のニューズサイトの方ではなく、株式会社朝日新聞社のコーポレートサイトの方に掲載されたものだが、同社は掲載する場所を分けることで、「これは言論機関としての意見ではなく、会社としての意見だ」とでも言いたいのだろうか。
しかし、「社説は言論機関としての主張で、社告は会社としての方針だ」、などと聞かされても、私たち一般国民の多くは、そこに「首尾一貫性のなさ」しか感じないのではないかと思う。
下手な社説より高レベルなブログ記事が…
いずれにせよ、社会のネット化が進み、社会的な問題に関しては、新聞社に勤める言論人よりも、下手をすれば社会に存在する専門家の方が、遥かに専門知識と見識の裏付けのある記事を配信する世の中が実現しつつあることは間違いない。
現在の新聞社説などに、「社会の木鐸」としての機能を期待している国民が、はたしてどのくらいいるかは疑問でもあるのだ。
本文は以上です。
日韓関係が特殊なのではなく、韓国が特殊なのだ―――。
— 新宿会計士 (@shinjukuacc) September 22, 2024
そんな日韓関係論を巡って、素晴らしい書籍が出てきた。鈴置高史氏著『韓国消滅』(https://t.co/PKOiMb9a7T)。
日韓関係問題に関心がある人だけでなく、日本人全てに読んでほしい良著。
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【おしらせ】人生で10冊目の出版をしました
自称元徴用工問題、自称元慰安婦問題、火器管制レーダー照射、天皇陛下侮辱、旭日旗侮辱…。韓国によるわが国に対する不法行為は留まるところを知りませんが、こうしたなか、「韓国の不法行為に基づく責任を、法的・経済的・政治的に追及する手段」を真面目に考察してみました。類書のない議論をお楽しみください。 |
【おしらせ】人生で9冊目の出版をしました
日本経済の姿について、客観的な数字で読んでみました。結論からいえば、日本は財政危機の状況にはありません。むしろ日本が必要としているのは大幅な減税と財政出動、そして国債の大幅な増発です。日本経済復活を考えるうえでの議論のたたき台として、ぜひとも本書をご活用賜りますと幸いです。 |
“新聞記事並みにクオリティが高いブログ”
“新聞記事並みにクオリティが高い”
“新聞記事並みにクオリティが”
っつ、釣られないぞっ!
ワルノリ申し訳ございません
新聞をはじめとするマスメディアには、
「ナ○スに全部おっかぶせてゲルニ極め込み」「ともすればシレッと被害者ポジ」に近いナニかを感じてしまいます
思い上がった、上から目線のジャーナリストは英国にもいるようです。
大坂なおみ選手の記者会見拒否について、英国BBC日本語版の以下リンク先に
関連記事があります。(全仏辞退表明以前の記事であることに留意願います。)
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-57294942
その最後に、BBCテニス担当編集委員の見解として、以下が記載されています。
「だが私たちは絶対に、困難な質問をする権利を持ち続ける必要がある。
テニスは広報が必要だし、長期的に信用を維持するためには、
選手たちが自分のソーシャルメディアだけを通して
ファンたちと交流することが認められべきではない。」
「困難な質問をする権利」←そんな権利、誰に認められているの?(笑)
大阪の場合は契約違反があるので。
コート上の問題行動、契約違反でプレスの前に立たなければならないところを金の力で逃げている。そのあげくメンタルの問題だと言い訳し発表もお仲間が多いSNS.
海外メディアでも批判されているけど日本メディアでは可哀想の論調なんです。
愛媛県今治市沖の来島(くるしま)海峡付近で5月27日、
外国船と衝突した貨物船「白虎」が沈没した事故、
「白虎」と衝突して損傷した「ウルサン パイオニア」こいつは韓国籍の船では?
気持ち悪いハングル文字も見えるが。
NHKも新聞も、韓国を伏せて報道している。
何故、韓国に忖度するのか?
この際、徹底的に韓国を糾弾すべき。
オリンピックにも来なくてよいが、
来るのなら、空港で土下座してから入国させよ。
NHKも新聞も、愛国心がない!!
船籍は韓国ではありませんが、
運航会社は韓国の海運会社です
日本の報道として度しがたいのは、
一方は運航会社を明示しコメントまで求めているのに、もう一方のケミカルタンカー側には同じ深度の情報を視聴者に伝えようとしないところです
ちなみに当該ケミカルタンカーそれ自体も、またソノ運航会社も、他に幾つもの事故に関与している模様です
引っ掛かったオタク 様
情報ありがとうございます。
報道は真実を伝えてもらいたいですね。
ありがとうございました。
「本社論説委員のとっておき日替わり拡大コラム豪華二本立て」と思えば腹もたちません。
また党議拘束ならぬ”社是拘束”で論調を一致させるような新聞のほうが空恐ろしく、書き手によって差異や矛盾が生じるのは不可とまでは言えないと考えます。ただ「本日の編集長」は、矛盾を含めてその日の責任は背負うべきです。
さらに、誤解を招かないよう、企業広報誌などと同様『小紙で掲載している記事・論説・寄稿文・対談・インタビューの内容は、必ずしも○×新聞株式会社の見解を反映しているものではありません。』のような注記を題字近くに明記するのが望ましいです。さらに後世の批判が怖いならば『発売当日限り有効』とか『降版前途無効』と入れるのも手です。
いいですね、「当社新聞記事は当日限り有効」
書き散らかし、自己矛盾、行アタリ単価の売文稼業、それが新聞記者の本質。前途無効「宣告」はまず政治部者から。
子供の頃、新聞を読めと言われたり、大学受験のためになるから、天声人語をしっかり読みなさい、とか聞かされたのは私だけではないはず。あの頃は、新聞社が慰安婦などの記事を捏造して、日本の国格を落としめるなんて、夢にも思っておりませんでした。様々な価値観は歓迎したいと思いますし、表現の自由も必要でしょう。しかし、嘘を捏造して広めてはいけない。
ブログ宣伝用の雑談専用記事といい、この記事の文体といい某氏を強烈に意識して(皮肉って)いて笑えます。
結構容赦ないんですよね、サイト主は。
受け取る側に感性・レセプターが機能的に欠如している模様なので・・・。
そもそも新聞のレベルが低いことは今に始まったことではないのではないかと感じます。
皆さんもご自身の専門分野に触れた記事を読んで「え?それは違うやろ。むしろウソやんか」と思った経験をお持ちではないですか。
これって、新聞というシステムの限界を示していると思うのです。
世の中の専門化が進めば進むほど、記者が正確な記事を執筆できる領域は狭くなります。
だからといって、執筆者を無制限に増やすことはできませんから、どうしても手薄な領域が増え続けます。
全ての分野を対象とするいわば総合新聞というシステムが崩壊しつつある時代なのだなと感じます。