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あさま山荘事件と極論の出現:議論の拒絶の先に未来はない

実名は伏せますが、先日、ある優れた評論家の方とお会いする機会を得ました。その人物の実名を明らかにすることはしませんが、いろいろお話をお伺いする中で、今まで漠然としていたことが、1つ、「信念」に変わりつつあります。それは、「人間は万能ではないからこそ、議論をすることが何よりも大切だ」、という持論です。折しも先週、『サヨクの皆さんの主張がつまらないのは議論を拒否するからだ』のなかで、いわゆる「サヨク」と呼ばれる人たちの主張が絶望的につまらないのは、彼らが議論を拒否するからだと申し上げました。また、私たちの隣国・韓国の場合も、「反日原理主義」に染まるあまり、議論を拒絶しているように未来えられます。議論の先にあるのは繁栄であり、議論を拒絶すれば、その先にあるのは滅亡ではないかと思います。

サヨク、パヨク、ネトウヨ

以前、『サヨクの皆さんの主張がつまらないのは議論を拒否するからだ』のなかで、いわゆる「サヨク」と呼ばれる人たちの主張について紹介しました。

いや、便宜上私は彼らのことを「サヨク」と呼びましたが、正直、私は彼らを何と呼べばよいのか、今ひとつよくわかりません。「反原発」、「反アベ」、「反沖縄米軍基地」、「反戦」、「憲法9条守れ」など、だいたい判で押したように彼らの主張は同じで、ネット上では「パヨク」とバカにされることもあります。

もともとこの「パヨク」という単語は、千葉麗子さんが執筆した『さよならパヨク』『くたばれパヨク』などの書籍に出てきた単語で、私の理解が正しければ、「歌と踊りで自分たちの主張をただ押し付ける、頭が悪い極左活動家」のことです。

(※ちなみに「パヨク」絡みでは、最近、『パヨクニュース2018』なる書籍も刊行されているそうです。)

もっとも、「サヨク」、「パヨク」、「ネトウヨ」などの単語は、インターネット空間などで見かけることが多いのは事実ですが、論者によっては微妙に意味合いが異なることもあるため、当ウェブサイトでもこれらの言葉を巡って、使おうかどうかと悩むことがあるのも事実です。

いずれにせよ、当ウェブサイトで「サヨク」という言葉を使うときは、便宜上、「反アベ、反原発、反戦などで思考停止している人たち」のことを指すことにしたいと考えています。

議論することの意味

読者コメントについて考える

当ウェブサイト『新宿会計士の政治経済評論』は、「読んで下さる方々の知的好奇心を刺激すること」を目的に、政治、経済などの分野から話題を選定して提供する「ウェブ評論サイト」です。

といっても、私自身はジャーナリストでも官僚でも学者でも政治家でもありません。単なる中小企業経営者です。少しばかり金融の専門的な知識を持っているものの、基本的にはどこにでもいる社会人の1人に過ぎません。

このため、当ウェブサイトの評論スタンスは、「世の中の誰も知らない秘密のことがら」を暴露する、というものではありません。あくまでも「誰にでも取得できる情報」をもとにして、合理的な推論により仮説を導く、というものです。

そして、そのついでに「仮説を構築するプロセス」そのものを楽しんでしまおう、というのが当ウェブサイトの基本的な考え方です。だからこそ当ウェブサイトの場合は読者コメントを基本的に自由とさせていただいているのであり、また、今のところその狙いはうまく行っているように思えるのです。

正直なことを申し上げれば、読者コメントを拝読していると、「なるほど!」と膝を打つコメントもあれば、必ずしも賛同できるとは限らないようなコメントもあります。ただ、多様なコメントが寄せられるという意味では、当ウェブサイト自体が1つの言論空間として機能している、ということでもあるからです。

読者コメントを完全自由にすると…?

こうしたなか、最近になって気付いたことが1つあります。

それは、コメントを完全に自由にしてしまうと、却って良質なコメントが寄せられる、という事実です。実際、当ウェブサイトの場合、コメントを完全に自由としているのですが、そのわりに、奇妙な煽りコメントのたぐいがほとんど湧かないのです。

本来、当ウェブサイトではコメント自由ですので、当然、当ウェブサイトの主張を口汚く罵ることだって可能です(※ただし、特定人に対する名誉棄損、脅迫、犯罪予告のたぐいに該当すれば、事後的に削除することもありますが…)。

たとえば、東京新聞の望月衣塑子(もちづき・いそこ)記者が菅義偉(すが・よしひで)内閣官房長官の定例記者会見の場に現れては意味不明な質問を繰り返している問題については、当ウェブサイトでは望月記者側に対してかなり批判的に取り上げて来ました。

この手の記事を巡っては、望月記者の側から見れば、「かなり一方的な批判」だと感じるのではないかと思うのですが、これについてもし可能であれば、望月記者の擁護者の側から、「理論的な反論」を聞いてみたい気もします。

ただ、不思議なことに、当ウェブサイトに寄せられる大部分のコメントが望月記者(や内閣記者会など)に対して批判的なものばかりであり、望月記者の擁護者と思しき人たちからのコメントは、ほとんどありません(また、コメントも非常に冷静なものばかりです)。

これについては、当ウェブサイトにおいて、別に異論を排除しているつもりはありません。それなのに、望月記者らの問題を巡る当ウェブサイトの主張に対しては、なぜか「異論」自体ががほとんど出てこないのです。

これについては、正直、困惑せざるを得ません。

私自身は当ウェブサイトの主張が100%正しいとはまったく考えていませんし、望月氏には望月氏なりの正義があるのだと思いたいところですが、残念ながら、そのようなものがあるのかどうかすら、最近は疑わしいと思ってしまうのです。

読者の批判コメント

もちろん、「読者コメント完全自由」にすることで、かなり感情的で低レベルな批判コメントが大挙して寄せられる、というリスクがあることもまた事実でしょう。

実際、インターネット上には、さまざまな極論が存在しています。

私自身が当ウェブサイトを開始したのは、『私がウェブ評論を開始したわけ』に記載したとおり、ふとしたきっかけでマスコミ各社の報道姿勢に対し、その正確性や客観性を巡って強い疑問を抱き、やがてその疑問が確信に変わったからです。

現在の私は、「マスコミの報道については100%鵜呑みにすべきでない」と考えていますが、だからといってマスコミの報道が100%間違っている、というわけでもありませんし、マスコミ以外の情報源が常に正しい、というわけでもありません。

こうしたなか、私がとくに酷いと思うのは、次のようなフェイク・ニューズ・ブログです。

ちなみにあくまでも私自身が調べた限り、「河野太郎閣下が韓国との断交を決断した」だの、「小野寺防衛相が『自粛するわけねーだろバーカ』と発言した」だの、「韓国側から日韓断交の申し入れがあった」だのといった事実はありません。

おそらく、この手の非常に劣悪なサイトは、わざと刺激的なフェイク・タイトルを付けることでアクセス数(と広告収入)を稼ぐのが目的でしょう。そして、このように不正確な情報に基づいて極論を煽るというやり方自体、長い目で見たら、インターネットの信頼性を貶めることもつながりかねません。

本来ならば他サイトを「低レベル」などと申し上げたくはないのですが、やはり、フェイク・ニューズばかりを集めたサイトは低レベルです。そして、私が見たところ、やはり「低レベルなサイトには低レベルなコメントが集まる」、という気がします(低レベルなフェイク・タイトルをたしなめるコメントがないわけではありませんが…)。

当ウェブサイトの場合は、少なくともこの手の「事実に基づかない悪質な捏造」をベースにした議論を排除するようにしているため、やはり、「過激な主張を求める人」、「議論をじっくり読むことができない人」は、自然に当ウェブサイトを訪れなくなってしまう、という側面があるようです。

議論の意味とは?

本当に怖い反論

一方、ウェブ評論家として「本当に怖い反論」とは、下らない感情的な煽りコメントではありません。

冷静・沈着に、当ウェブサイトの議論の穴を指摘する、という種類のコメントです。

先ほど申し上げたとおり、私自身は金融について多少の知識はあるものの、基本的には世の中の一般的なビジネスマンと同じような知識量しか持ち合わせていません(とくに「軍事が重要だ」と指摘する割に、肝心の軍事分野に関する知識については乏しいというのが実情でしょう)。

また、執筆した時点では「この推論は正しいに違いない」と自信を持っていたとしても、読者コメント欄でこれらの議論の欠陥を指摘されると、本気で焦ります。人間は得意分野でこそ失敗するといわれていますが、まさに、情報の読み込みが浅いと、思わぬ部分で足を取られるものです。

ただし、この手のコメントがあるからこそ、当ウェブサイトとしても議論がブラッシュアップされる、という側面があることもまた事実でしょう。

たとえば、私が好んで用いる用語の中に、「国民の敵」というものがあります。

これについて当初は、

選挙で選ばれたわけでもないくせに、不当に大きな権力を持ち、国益を邪魔している勢力のこと

と定義していたのですが、その後、複数の方から、相次いで、

  • 立憲民主党や日本共産党の議員は(いちおうは)選挙で選ばれていますよ
  • 2009年に当時の民主党は選挙で圧勝したから、民主党政権は国民の敵じゃないことになりますよ

といった指摘を頂きました。

これらについては、本当にそのとおりです。

とくに2009年の民主党政権については、仮にマスコミによる偏向報道のためであったにせよ、間違いなく有権者が民主党政権を選択したわけですから、先ほどの定義に従えば、2009年9月以降、3年3ヵ月間続いた民主党政権を「国民の敵」と呼ぶのは適切ではありません。

したがって、最近では「国民の敵」の定義を、このように変更しました。

消費者や有権者などから信を得たわけでもないくせに、不当に大きな社会的影響力、権力を持ち、国益を邪魔している勢力のこと

このように定義すれば、たとえば立憲民主党についても、「2017年10月の総選挙でわずか60議席足らずの議席しか得ていないにも関わらず、野党第1党として、有権者から付託されている以上に不当に大きな権力を得ている」という定義に該当して来ることになります。

その意味で、「本当に怖い反論」とは、「本当に有益な反論」だと言い換えることができるのであり、だからこそ、当ウェブ評論サイトの読者コメントについては、「批判コメントには非常に大きな価値がある」、と考えているのです。

「あさま山荘事件」と理論の純化

さて、どうして私が「議論」と「異論」にこだわるのかといえば、同じような考え方の人たちで凝り固まると、議論が間違った方向に純化しても、それを修正するという方向に働き辛くなります。

これについて、実名は伏せますが、とある優れた評論家の方から、先日、ある例え話を聞きました。

それは、「あさま山荘事件」です。

調べてみると、これは1972年2月に発生した、連合赤軍のメンバー(日本共産党の一派)が軽井沢にある「あさま山荘」に立てこもった事件です。犯人集団は事件の直前まで、仲間内での抗争を繰り返し、理論が仲間内でどんどんと先鋭化、過激化していったという経緯もあったようです。

結局、この事件は発生から10日目で警察の機動隊が山荘に強行突入し、犯人全員を逮捕することで解決しましたが、その過程で警察や民間人などに犠牲者も出てしまうなど、凄惨な結果に終わったとのことですが、これについて考えていくと、実に教訓に満ちています。

この事件が発生したのは今から実に50年近く前のことですが、現代の左派メディアを見ていると、「仲間内で固まり、議論を排除することで、議論がどんどんと純化・先鋭化していく」、という意味では、現代につながる教訓でしょう。

また、私たちの隣の国・韓国の場合も、本来ならば全面的な同盟国となってくれるはずの日本を敵視してしまうなど、完全に理論が間違った方向に純化されてしまっているため、ある意味では国全体が「あさま山荘」のようになってしまっている、という言い方ができるのかもしれません。

人間は万能ではない!

ところで、私自身、1つの仮説を持っています。

それは、世の中にはさまざまな問題がありますが(たとえば改憲・護憲、反原発・原発推進など)、いずれの問題においても、「結論」を決めつけてかかるべきではない、という点です。

考えてみれば、「サヨク」の皆さんが議論を極端に嫌う理由は、「反原発」、「反アベ」、「反沖縄米軍基地」、「反戦」、「憲法9条守れ」など、「結論」が決まってしまっているからではないでしょうか。だからこそ、この「異論は認めない」とする姿勢に、多くの人が反発を抱くのです。

これと同様、日本国民が韓国を見ていて強い違和感を抱く理由は、「反日」という国是が決まっていて、何をどう議論しようが、異論が許されないからでしょう。

もちろん、たとえば「原発推進」を巡っても、安全性や核廃棄物など、あいまいなままの論点はたくさんありますし、過去に原子力関連で、凄惨な事故も多数発生しています。原子力開発を盲目的に推進するという考え方が正しいとは思えません。

また、改憲議論を巡っても、私自身、護憲派も改憲派も「憲法といえば第9条」と考えていることには強い違和感を覚えており、日本国憲法にはむしろ「天皇の国事行為」について定めた憲法第7条など、問題のある規定はほかにもたくさんあると考えています。

また、ついでに申し上げるなら、「憲法」イコール「全面改正」という考え方にも違和感があります。日本国憲法にはたしかに欠陥がたくさんありますが、自由主義、民主主義、資本主義、法治主義、人権尊重など、近代国家としての基本となる重要な考え方については大切にすべきでしょう。

いずれにせよ、人間というものは、森羅万象の問題を巡り、1人で100%の正解を考え付くほど万能の存在ではありません。社会全体の方針を決めるときには、それに先立ってさまざまな立場の人が、さまざまな視点から意見を述べるべきですし、それを議論するのが国会という場所であるべきなのです。

日本社会をより良くしていくためには、さまざまなテーマについて、さまざまな立場の人が議論する場が必要であり、私自身が当ウェブサイトを運営しているのも、結局のところ、当ウェブサイトがそのような議論の場の1つになれば嬉しいと思っているからなのです。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ただし、人間は変わっていくものです。

私自身が昔は尊敬していた某ブロガーの方も、今やすっかり「反アベ原理主義者」のようになってしまっているようですし、右も左も関係なく、自分自身の理論に絶対的な自信を持っている人は、言論統制などに関心を持ってしまうのかもしれません。

私自身もそうならないように自戒しなければならないという気持ちもありますが、現在、私が最も望んでいることは、当『新宿会計士の政治経済評論』が捨て石の1つになり、多様なウェブ評論サイトが多数出現することなのかもしれません。

新宿会計士:

View Comments (38)

  • おっしゃることに、ほぼ全面的に同意します。
    もちろん、私は私なりの意見があるので、貴兄と異なる意見もあります。
    ただ、こう思います。人間は非常に社会的な動物であり。コミュニケーション無しには無力です。議論を否定したら、絶望しか残っていませんね。
    今、アメリカ合衆国では半数の有権者が議論を拒否しているというのが私の考えです。壁問題外異例でしょう。あれがなぜ必要なのか、作ったとしてどれほどの効果があるのか、大統領を含めて彼の支持者は全く議論しません。ひどいものです。

    ついでながら、私は(日本のマスメディアと異なり)米国のクオリティペーパーは高く評価しています。
    かれらは「国民の代表」などとおこがましいことは言いません。自分たちは「権力のチェック機関」だと言っています。そして、言うことは最初から「我が社の意見」ですし、大なり小なり偏っているでしょうが、少なくとも首尾一貫しているし論理的です。

    日本のマスメディアがひどすぎるせいで、アメリカ合衆国も同様だと考え、トランプ大統領が優秀だと誤解(?)している人が多すぎます。
    私見ですが、あの人物は米国史上最悪の政治家です。ヒトラーやスターリンの方がはるかにましです。

    • すいません。
      「壁問題外異例」->「壁問題がいい例」
      です。。。

  • サヨクの皆さんは「反安倍」とか「反原発」のように基本、「反対」なの。反対は誰でもできるのだから、本来はそれからどうするかが必要なんだけど、それがない。人間の考える事は全員が良いなんてことはない。何かが良ければ何かが悪いのがほとんど。結局、選択の問題なんだけど、それを考えずに「反対」ばかりだから、国民の信頼を得られないのでは。サヨクの皆さんの源流が共産主義とか社会主義とかだけど、それらを取り入れた国家はみんな貧乏なの。共産主義国家は貧乏共同体になっている。これでは国民が共産党とかをなかなか支持しないよね。今の日本は格差社会になりつつあるけど、それなりに豊か。身寄りも財産もなく、頭がおかしくなって放浪していると、行政がちゃんと保護して、どこかの施設に入れてくれる。餓死することはかなり難しい。日本は共産主義国家ではないけど、共産主義の理念に近い制度は築き上げてきた。一時的に政権を失ったとはいえ、戦後の長い時間は自民党が日本の行政を担ってきた。そして、ここまでの国を作ってきた実績は重い。また、国と地方の関係も機関委任事務を廃止して、互いに平等となった。地方自治もかなり高度になった。方向において自民党は決して間違ってはいない。
    結局、野党は自民党が変なことをやったときの「自民党にお灸をすえるための政党」に成り下がった。自民党のやり方に反対の人だっているわけで、そのために野党がいる存在になっている。そこに安住して、ただただ反対を叫ぶ政党になってしまった。
    自民党は日本をかなりよい国にはしてきたが、それでも憲法改正を容易にするほどの支持はない。先の大戦で多くの人命が失われたからね。「戦争はもうこりごり」となったので、戦争できる国になるにはそれなりの犠牲がないと難しいのではと思う。日本は「戦争はもうしない」と決めたのだから、どこかの国が日本に攻め込んで多くの犠牲がでないと「戦争できる国家になるぞ」にはならないかもしれない。

  • 私は人間が変わっていく一方で、正しいことや正義も時代や時節で変化していくものと考えております。憲法改正も10年前ならむしろ変えないことのほうが正しかったかもしれませんが、今は変えないことの弊害のほうが大きくなってきた気がします。護憲論や憲法原理主義者の主張を聞いていると、むしろあなた達は曖昧な現憲法の条文に執着せずに異論や解釈の余地が生じないような条文修正の運動をするべきなのではと疑問を抱くことの方が多いのですが、自分を常にかわいそうなマイノリティの立場において悲劇のヒロインに浸っていたい方々には言っても無駄なんでしょうね。
     時代によって変わるといえば核廃棄物という言葉はかつては間違いでした。現在は正しいです。かつては「使用済み核燃料」と呼ばなければなりませんでした。一般の人にはどちらもほぼ同じに聞こえるのがミソでした。核廃棄物といえばただのゴミですが、使用済み核燃料という言葉には再利用できる燃料というニュアンスが含まれます。ただのイメージだけならよいのですが、この定義によってただのゴミ(負債・支出)である核廃棄物が、資産に化けて総括原価方式によって電気代の高騰につながるというのがあくどい錬金術でした。今は、核燃料サイクルなる机上の空論が事実上破綻し、総括原価方式はまだ残っていますが固執すると自由化の波に沈むのでやっぱりただのゴミと言って構わなくなりました。
     原子力発電の復活にこだわる勢力や認可組織に抹殺された構想に、利水権に貸与の仕組みを儲けて、発電業者が借用料を支払って貸与枠で水力発電をするというものがあります。発電に使用しても水の勢いは弱まりますが、水自体がなくなるわけではありませんので返す事ができます。現状だと分割された利水権を超えて発電はできませんが、レンタルすることでそれを可能にします。借用料を林業や山林の保全、農業振興などに利用することで国土や一次産業の保全にも繋がります。法改正が必要になりますが、この誰も損をしなさそうな構想で損をするのが誰であるかというお話なのです。時代が変われば正義になるのかしら。

    • 陰謀論者 様

      これから書くことは根拠のない私見なのですが、お読みいただけると嬉しいです。

      まず、いくら陰謀論とはいえ、原発推進派が構想を抹殺したとするのは無理があるかと思います。彼らは、専門家を集めて時間をかけて調査を行っても、門外漢の裁判官一人に覆される程度に無力ですので。

      次が本題ですが、時代により移り変わる正義として、現在は「正義」とされている再生可能エネルギー、これが「悪」とされる時代が来ると、私は踏んでいます。原発とて、安全でクリーンかつ枯渇の心配がない夢のエネルギーと喧伝されていた時代があったのですが、実際には大量のリスクをはらむものであると判明しました。再生可能エネルギーも、同じ道をたどると思います。何より、自然界からエネルギーを奪って発電する行為が環境に優しいとは、到底信じられません。

      ゆえに、リスクが判明している既存の発電手法、未知のリスクを持つ新規の発電手法の両方を生かし、一方に偏らないようにすることでリスク分散を図るべきと考えます。
      お目汚し失礼しました。

      • 沖縄の三十路さんへ

        "再生可能エネルギー"ザックリし過ぎ
        太陽電池は完全にOUT
        現在の技術では、地球上での大規模発電が
        無意味なのは、ハッキリとしてる

        "再生可能エネルギー"は、太陽電池だけじゃない
        物凄く、多種多様、小規模水路発電から
        温度差発電、加圧発電、潮力発電
        ホボ無限にアイディアが出てくる

        >自然界からエネルギーを奪って発電
        発想がオカシイ
        自然界から、お裾分けを頂く気持ちが大事

  • これまた興味深い記事をありがとうございます。

    望月記者に関する話題ですが、確かに彼女の視点からたてば、安倍政権は「ひどい政権」であるとは思えます。無党派層の方々も、望月記者の主張には全く不同意だ、とはならないのであり、東京新聞も彼女を使い続けるのもそれでしょう。彼女の意見は良くも悪くも、鋭く人の耳には入るでしょう。
    しかし、ここまでは敢えて反論しようと思い書いたもので、私の意見ではありません。

    私の意見は、望月記者は最早記者ではなく、最早活動家と化しているというものです。官房長官会見での質問もさることながら、望月記者の講演で産経新聞の記者を追い出したという記事を目にしました。この産経新聞の記事がデマの可能性もありますが、これが事実なら彼女やその講演は異を唱える者を排除する、ある種の独裁政権のようなものを感じます。
    ここで明確にしたいのが、望月記者やその周りが、この新宿会計士様のブログのような、議論を全くするつもりがないということです。少なくとも望月記者が望むなら、その産経新聞の記者を入れ、彼女の意見を聞かせてあげて、その反応を確かめることもできたでしょう。しかし、望月記者はそれを拒み、追い出した。「私は貴方と議論するつもりがない、それよりか厄介になるから出ていけ」、という感じでしょうか。
    このような姿勢が、現状の望月記者を擁護する者からの反論がない理由の一つでもあるでしょう。もちろん、これだけではないとは思われますが、大体はこの「望月記者は最早活動家」論でこの状況や、彼女への反対者が続出していることは説明できると私は考えております。

    最後に別の話題ですが、新宿会計士様の知見には驚かされる所もありますが、ひとつだけ明確に反論したい点もございます。
    それは、「国民の敵」についてです。私としては、当選した国会議員は少しは国民の信を得ているわけです。「不当に」「影響力や権力を持ち」「国益を損なう行為をしている」のが国民の敵ならば、それは国会議員ではなく、扇動を行う現在のマスコミだと私は考えます。恐らく新宿会計士様の記事を遡ればマスコミ批判もされてるでしょうが、国民の敵の定義により当てはまるのは、こちらなのではないでしょうか?

    • 私は国会議員が国民の信を得たとは思っておりません。例えば辻元清美や山尾志桜里は私が住むことはない関西、中部の民度の低い地域の代表に過ぎないと思います。国民の信を得る対象は代議士個人ではなく、政党ですね。

      • 自分が気に入らない代議士が当選した、ただそれだけをもって「民度の低い地域」と断定するあなたにこそ、民度の低さを感じます。

    • 速達列車様、鋭すぎます。

      「国民の敵」のくだりについては、自分も違和感を感じています。
      確かに、朝日新聞も、民主党も、立憲民主党も、東京新聞も、望月記者も、蓮舫議員も、辻元議員も、志位議員も、山本太郎議員も嫌いですが、時々は、よい質問や提言をすることもある訳です。彼らなりに頑張っている訳です。反自民の声も必要になることはありますし、自民党も権力を長期間持てば腐敗します。オーム真理教は、国民の敵でしたが、共産党が国民の敵というと、同調しずらいです。大嫌いではありますが。

      国民の敵とのレッテル張りは、敵と味方に分けて、議論を遮断する効果があります。
      韓国がよくやる手段な訳です。それをこのブログもやるというのは、このブログの趣旨に反する気がしています。

      批判は大いに結構ですが、○○の行為がいけないなどという風に話して、存在自体を否定するのは、なるべくは避けた方がよいと思います。
      (自分も、韓国が嫌いになるあまり、韓国を擁護するすべてを否定したい衝動にかられますので、大変、難しいことですが。)

      • 「おまえは国民の敵だ」
        「おまえは国民の敵だという、おまえこそ国民の敵だ」

        確かに、これでは議論にならないw

    • あえて「国民の敵」という言葉を定義しなくて良いのでは?
      「こんな犯罪をする者は社会の敵だ」とか「こんなことをするのは国民の敵だ」とか普通の表現だと思います。理由を示さずそう呼ぶのはレッテル貼りになりますが、そうでないなら選挙で選ばれようが表現としておかしくないと思います。税金からの議員報酬に対して常習的に虚偽申告する議員は国民の敵です。
      また、そういうことの常習者やあまりにひどいことをした者には、あっさり国民の敵でいいと思います。
      「国民の敵」を定義すると、前後の文の内容に対して関連が変わる(その言葉が固定、強調される)ので、レッテル貼りと受け取られる可能性が生じます。

    • イソ子の問題は思想性の次元ではないんです。

      質疑応答の場で、根拠のないレベルの低い質問や、自説を演説する馬鹿をどうにかしろという実務的な問題を、大きくしようとしている勢力がバカ騒ぎしているだけ。

      「お前に答える場所ではない」という菅官房長官の最後の言葉は、ちゃんとすべての発言起こしを読めば何の問題もないことなんですが、そこまで普通の人は読みませんよね。

      別に活動家の属人性を持った記者がいたって構わないんですよ。ただあんな国の最高レベルの場に存在していいクラスの格ではないという点。

  • いつも知的好奇心を刺激する記事の配信ありがとうございます。

    当方は原発に関しては管理人様と正反対ですが、憲法第7条等の改正に関しては管理人様同様、改正の必要があると心から思います。
    法治根源を憲法に求めるわりに現行の憲法は問題を抱えているためです。

    今の憲法は緊急時の仕組みを持たない点では二千年以上前の共和制ローマにすら劣る部分があると思います。

    しかし改憲と言うと9条。
    この視野の狭さ何とかならないですかね。

    憲法の問題について管理人様位の視野の広さがある方がもう少し居ると日本も良くなると思うのですが。

    以上です。駄文失礼しました。

  • 私も議論は大切だと思います。そしてそれは根拠を伴っている場合に成立します。

    私はトランプ大統領の大ファンです。彼の不合理性と予測不能性こそが魅力の源泉です。彼は歴史に名を残す名(珍?)大統領になると思っています。なぜそう思うか? 色々屁理屈はこねられますが、煎じ詰めれば私の直感です。根拠を伴う議論にはなりそうもありません。

    私は米国にクオリティペーパーなどないと思っています。NYT? サヨクの巣窟。WP? 偏向記事ばかり。程度の差があるだけで日本と大して変わりません。ま、これもここで議論するつもりはありません。

    歴史学者ジェイソン・モーガンは、米国は二分している。米国は内戦状態にある、と言っています。彼は米国のリベラルは議論を拒絶するとも言っています。トランプ支持者「だけが」議論を拒否している訳ではないのです。

    議論は大切ですが、噛み合わないものはあります。実生活でも、友人・知人との間でいやというほど話が噛み合わない経験をしています。

    議論が成り立つには、論題に対してある程度の共通認識が必要なのだと思うようになりました。これは議論を否定するものではなく、議論を求めても得られないことから来た自分への諫めです。

    • トランプ大統領が優秀かどうかはともかく、公約を守るのにこれほど必死な大統領はないのではないかな。壁だって公約なんだから。普通は公約しても守れないなら無視する例が多かった気がする。なんか株主の利益を守る経営者ってかんじ。

      • >公約を守るのにこれほど必死な大統領はないのではないかな。壁だって公約なんだから。

        乱暴な言い方をすると、民主主義の選挙は「バカなやつが、自分より少しバカじゃないやつを選ぼうとする」制度だと思う。つまり、愚かな国民が少しはまともな(と勘違いした)議員を選んでるにすぎない。可能なら、その国で最も頭脳明晰で、あらゆる政治的能力に長け、かつ愛に満ちた人格者が独裁してくれる方がよほど素晴らしい国になるだろう。そんなことがありえないからこその、とりあえずまあの民主主義だ。

        所得主導成長を公約に当選した大統領が、公約を死守するあまり雇用沈滞を招いたままの国があるらしい。最初から守るつもりのない甘言や公約なら論外だが、実行してみて不都合なら、己が不明を恥じ、謝罪説明した上で豹変するのがむしろ君子だろう。思った通りいかないとか、やってみたら違うなんてよくあること。過去の公約に自縛され、軌道修正をためらう方がかえって愚かだ。そんな事態は、政治家個人のみならず、国民の不幸ですらある。

        トランプを100%の国民が選んだわけではない。州ごとに選挙人を選出する仕組みの内実は分からないが、仮に直接選挙だとしても、51%の支持者がいるとすれば、49%の反対の民意もあるということだ。さらに支持者は総合的に判断してのトランプなわけで、51%の全員が壁の建設を全面的に肯定しているとは限らない。株主なら見切ったらその時点で好きに売り払えるが、国民はそうもいかない。

        • 猫はおかかが好きさんへ

          米国の民主主義は、第7代大統領
          アンドリュー・ジャクソンの時代に強固になった
          ってのが定説みたいだから
          トランプ政権も似たようなモノなんじゃないの

    • >阿野煮鱒

      コメントを拝見していて、民主主義を否定するものに対して、民主主義を認める必要があるかという議論を思い出しました。

      日本は、民主主義を否定する政党(=共産党)の存在すら認めるという意味で、ドイツと正反対です。民主主義を否定する者にも権利を認めています。そこが、日本の懐の広さなのだと思います。

      ただ、韓国政府のように、議論を否定する方々(=事実をねじまげ、合理的な帰結を否定する方々)とは、議論は成立しないですよね。

      自分も、そういう人たちとは、かかわらないようにしています。議論しても、時間の無駄ですから。

      とはいえ、避けるという戦略が成り立つのは、関係が浅い場合のみです。日本と韓国のように隣国ということですと、どうしても、接触が生じてしまいます。

      そして、優越的地位に立つと、何でもかんでも、押し付けてよいという風に人間はなりがちです。

      日本より精神的に優位にたっていると思っている韓国も、その典型ですが、GAFAなども、優越的な地位にたっていると思っているときは、なんでも好き放題やってきたりします。

      このサイトは、韓国一辺倒ですが、政府の審議会は、およそ半数がGAFA関係でないかと思う位、GAFA対策をやっています。

      GAFAは話せばわかる方がたですが、そもそも話し合いにもっていくために、こちらが武器をもっていないといけません。

      まずは、独禁法違反や個人情報保護法違反、不競法違反などで、課徴金数百億円くらいを政府が課していただかないと、民間では交渉になりませんが、肝心の政府が腰抜けなので、何もしてくださいません。こちらが、徒手空拳では、国際社会では戦えません。優越的な地位の濫用も、国際法では禁止されておらず、軍事的優位を盾に、交渉を優位に進めるということが平然となされています。

      その典型がトランプさんです。

      日本も、法令違反の罰金額などをもっとあげていただいて、韓国が、Toyota、日産に対して罰金を何十億も課しているように、日本もある程度はやり返していただかないと困りますし、色々と力があるのですから、やり返していただいて、実力主義の、魑魅魍魎の世界である国際社会で、力強く生き残っていかないといけません。

  • 更新ありがとうございます。
    「結論を決めつけてかかるべきではない」、まさにそう思います。
    私は「政治には正解がある」という考えにも疑いを持っています。政治は利害の調整である以上、あるのは、あるいはあるべきは最適解だと思います。状況に応じて最適解は変わります。それゆえに最適解を求めるという姿勢を持てば、教条主義や原理主義に陥る危険性も減るように思います。
    最適解を導くためには様々な角度からの視点が必要です。そしてもう1つ不可欠なのが、定量的な考え方だと思います。放射線、農薬、食品添加物など、1か0かの議論にすり替えられることが多々ありますが、それらのリスクは量と関連付けて考えなくてはいけなません。定量的な考えることは必須の一般教養であり、だからがゆえに中等教育まで数学を学ぶ必要があるのだと思います。ちなみに前川元文科省事務次官は高校教育において数学を必修から外すことを主張されたそうですね。
    貴ブログを高く評価するのは数字に基づいた議論をされていることです。今後ともよろしくお願いいたします。

    • 在加賀京都人様

      ご投稿の前半部分に共感し私の考えも付け加えさせていただきます。
      塩野七生氏の「政治家とは」という随筆にイタリアのアンドレッティ元首相の言葉「以前より改善されているならば、まずは良しと考えるべきではないか」が紹介されています。生温いようですが老練の政治家の知恵のように感じます。半島問題も息長く考えて宜しいのではないでしょうか。

      「あさま山荘事件」は半日仕事を放りだしてテレビ中継を見守っておりました。

  • 『面白いけど笑ってはいけない!〈国民の敵はここにいる〉 : 日本をダメにしたパヨクの正しいdisり方』
    倉山満, はすみとしこ。ビジネス社という書籍もあるそうです。

    >> 「歌と踊りで自分たちの主張をただ押し付ける、頭が悪い極左活動家」

    彼らが中国や韓国や北朝鮮の悪口を言ったのを見たことが無い。
    自分が都合が悪い事に対して貝のように口を閉ざすのはまだ理解できるが
    中国や韓国や北朝鮮に都合が悪い事にも貝のように口を閉ざす

    中国や韓国や北朝鮮の工作員の破壊工作(戦闘行為)なんじゃないのか??

    • 『それでも反日してみたい : はすみとしこの世界』
      はすみとしこ、青林堂

      という書籍もありますね。

    • パヨクが工作員である状況証拠を
      「ポストが赤いのも安倍が悪い」レベルの主張を繰り返すパヨクですが、
      消費税増税等ではほとんど安倍叩きをしない

  • 更新ありがとうございます。

    『あさま山荘事件』ーー古い事件をよく調べられましたね。彼らは所謂『学生闘争』からは、はみだした極左の中でも異端の組織でした。山中を移動しながら武闘訓練を受け、日本を含む『世界同時革命』を真剣に考えていた。

    大学で石や火炎瓶を投げ入れて大学ロックアウトする若者とは違い、山中で厳しい訓練をした訳ですが、公安からすでにマークされ、追い詰められて行った。

    もともと一つの過激派組織ではないから、より過激な思想を持つ者が、『総括』の名の下に互いに批判し合った。異論は挟めない。リーダーは方針、目的、手段を絶対変えないから。たかが、歳は一つか二つ違いでも、見事に階級が出来、下の者は上からの指示に従うだけ。また歳が上だけでも下位にされるケースもあった。

    異論を言うとリンチに会う。それも気まぐれに。若い男女の行動だから恋愛感情も湧く。それも決して許さなかった。また告げ口を奨励した。『自己批判』が上手く出来ない、或いは仲間を徹底的にやり込めない若者は、惨殺されました。

    一ヶ所に留まらず移動しながら遺体を処理して行った。最後、公安・警察に追い詰められ、山荘管理人夫婦を人質に取って籠城、突撃した警官・隊長が殉死して全員逮捕。以後、日本の学生闘争は下火になり、共産化革命、極左活動家は地下に潜った。その黒幕の一つ、日本共産党は何の非難も受けず、公党として、素知らぬ顔で地盤を作り、狂信的な仲間を集めている。

    当時高一だった私は鮮明に覚えてます。あさま山荘のグループは、他の事は一切考えず、武力闘争のみ信じてた。頭ん中が止まっている。一般大学生らは引きましたよ。『これじゃモノが言えないソ連、中国と同じだ』。

    今もパヨク、左傾人と言われるヒトは、ハナから結論ありきで相手の言葉を聞きません。途中で遮り、泡吹いて大声でまくし立てる。理論的に物事が言えないから、そうなる。バカな連中、一生治りませんわ(笑)。

    朝鮮人もそうですね、謂れのない『日本人が悪い』『我々より劣っている民(笑)を吹聴している。理論が完全に純化しており、話し合いの余地なく『親日派!』とレッテルを貼られます。

    最後に原発問題ですが、私は推進派です。少なくともあと20〜30年は必要でしょう。代替のエネルギーが脆弱なモノばかり。化石エネルギーは大気を汚染する。福島事件が暗い影になってますが、あんな地形、高波をモロ被る所に作るのは間違ってたと思う。

    そういう意味で東北太平洋側・愛知県までは好ましくないし、型も古い。他の地域は別段、問題は少ないと思います。ただし、北朝鮮や中国の狙うターゲットにはなりますが。 以上。

    • あさま山荘事件はテレビが延々と報道していたね。当時は予想外の事件だった。鉄の玉のクレーンがでてきて、壁を壊していたのが印象に残っている。あとで当時の状況を振り返る番組があったけど、鉄の玉のクレーンの支障になるからと「送電線を切れ」と命令したところ、部下が送電線の電気を切って、送電線はそのまんまということがあったそうだ。「送電線をペンチでちょきちょき切れとまでいわないと分かってくれないのかな。」と嘆いていた。
      警察の犠牲者も多く、機動隊も銃を持っている相手には当時は慣れていなかったもよう。確かカップラーメンも機動隊が食べていたんじゃないかな。「あれなに?」とかだっと思う。今じゃ当たり前のカップラーメン。
      その後、あさま山荘事件の犯人が仲間を殺しているのがわかり、過激派に対して世間は冷たくなったね。

  • ご意見に賛成いたします。私は、50代後半であり、浅間山荘事件は鮮明に記憶しております。また、その前後に続いた左翼過激派によれ企業連続爆破事件など、強い衝撃を受けました。
    これら左派の主張は、独善の一言に尽きるものであり、自己の無謬を信じる怖さと危うさを感じます。

    私見ですが、現在の左派の多くは、東西冷戦時代の社会認識のまま現状を論じようとしており、対して冷戦後の多極化の社会を認識の基底にした方々は、日本の安全保障に疑問を感じ憲法改正の必要性を提起しておられるのではないかと感じております。
    議論の基本となる認識が異なるにもかかわらず、自己の認識(憲法を守れ)を絶対と考えるので、議論が成立せず相手を揶揄中傷するに終始しているように思います。
    社会の寛容性と言うか、包摂性と呼ぶか、異論を受容する余裕が、議論では重要だと言うことでしょうか。

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