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ウソにならなけれ良い?ストーリーありきの取材の問題

読売新聞の捏造記事と、それを巡る読売新聞社の対応などについては、当ウェブサイトにて先般より取り上げているとおり、もしかすると「ストーリーありき」で取材するという、新聞・テレビ業界の悪弊の証拠ではないか、といった疑念は払拭できません。こうしたなか、ジャーナリストの松浦晋也氏が先月執筆した記事が、大変参考になります。昔のジャーナリストのエピソードをもとに、メディアには「ウソにならなければ良い」と風潮がある、とする趣旨の記載があるからです。非常に奥が深い記事です。

捏造記事とマスコミ業界の対応の問題点

読売新聞インタビュー捏造事件とマスコミ業界の異常性

先日の『読売新聞記者が記事捏造…「自分のイメージと違った」』では、いわゆる「紅麹」に関連する記事で、読売新聞大阪本社社会部の主任(48)が小林製薬の取引先企業の社長に対するインタビューを捏造していたことが判明した、とする話題を取り上げました。

マスコミ業界さん、普段から情報をトリミングしていませんか?自身の製造物に責任を負わず、何か不祥事が発生しても小さく謝ってしばらく鳴りを潜め、しばらくすると「無かった」ことにする――こうした状況を見るに、日本のメディアというものは、もう末期的な状況にあると考えて良いのかもしれません。こうしたなかで飛び込んできたのが、読売新聞記者によるインタビュー捏造事件です。産経、朝日、時事、毎日など主要メディアが報じていますが、不思議なことに読売新聞自身はこれを報じている形跡がないのです。製造物責任と挙証責任...
読売記事捏造「自分がイメージしているものと違った」 - 新宿会計士の政治経済評論

これは、なかなかに強烈で衝撃的な事件です。

「捏造した」、ということは、実際にはなかったもの(この場合は「社長のインタビューでの発言」)を「あったもの」として報じた、ということですから、読売新聞はウソをついた、ということだからです。

くどいようですが、新聞社やテレビ局といったマスメディア各社にとっての最も大切な商品は「正確な情報」であり、「捏造報道」とは、新聞社自身が取り扱っている製品であるところの「正確な情報」に対する消費者の信頼を一気に喪失させかねない行為でもあります。

ただ、それと同時にこうした捏造・虚報・誤報事件などに接して認識せざるを得ないのは、消費者の信頼を失いかねない事件が生じた際における、マスコミ各社と一般企業との、あまりにも大きなギャップです。

雪印乳業株式会社が2000年に発生させた、たった1回の低脂肪乳の食中毒事件のために、どれだけ信頼を損ね、それを回復するために、同社の後継会社である雪印メグミルク株式会社がどれだけ努力しているかについての例を出すまでもありません。

あるいは、JR西日本が2005年の悲惨な鉄道事故を、JALが1985年の日航機墜落事故を、自社のウェブサイトでしつこいほどに取り上げ、安全への取り組みについて強調し続けているのも、ひとえに消費者の信頼を回復するための努力といえるでしょう。

読売新聞さん、これを報じているのですか?

では、本件に関しては、どうでしょうか?

読売新聞は本件をウェブサイトのトップページで取り上げたのでしょうか?新聞本紙の朝刊や夕刊のトップ扱いで取り上げたのでしょうか?

結論からいえば、少なくとも8時時点において、読売新聞オンラインのウェブサイトを見ても、この捏造報道事件については触れられている形跡がありません。

また、先日の「埴輪星人」様という読者からの情報によると、読売新聞は17日付の夕刊の「ものすごく小さい記事」で報じていた、というのですが、もしそれが事実であれば、コメント主様自身が指摘している通り、「まったく報道していない」というわけではありません。

要するに、「アリバイ報道」、というわけです。

戦前の法律では、「誤報や捏造報道をやらかした新聞は、その元記事と同じ分量で、誤報を行っていたと報じること」を義務付けていた、などと指摘する人もいるのですが、少なくとも現在の日本の法律では、新聞やテレビの誤報に関してはそれを訂正する「法的な義務」はありません。

PL法は情報が対象となっていない

先日の当ウェブサイトでは「製造物責任法」、あるいは「PL法」と呼ばれる法制度を紹介しましたが、これは「製造物」で損害が生じた場合、メーカーなどが「自分たちには過失がない」と証明できなければ、自動的に賠償義務を負う、という「画期的な法律」です。

しかし、このPL法では、「製造物」とは「製造又は加工された動産」と定義しているのですが、「情報」が含まれていない、という致命的な欠陥があります。

だからこそ、私たち消費者は、新聞やテレビの虚報で損害を被ったとしても、「PL法に基づいて新聞社やテレビ局を訴える」、ということができないのです。

逆にいえば、新聞社やテレビ局にとっては、現在の法制度上は誤報も捏造も「やりたい放題」になってしまっているのです。

ただ、これは決して良い状況ではありません。

「決して良い状況ではない」というのは、「私たち消費者にとって」、という意味だけでなく、新聞、テレビなどの「マスメディア自身にとって」、という、2つの意味があります。

まず、私たち消費者にとっては、仮にインチキ情報を掴まされ、損害を被っても、その救済手段がない、という問題点があります。新聞社やテレビ局を訴えるための「PL法」などの法律がないからです。

ただ、意外なことですが、新聞やテレビにとってもこの状況はは大変にマズいものです。

というのも、マスメディアに対しては誤報や捏造に対して明確な罰則がないことから、「ウソでもガセ情報でも何でも良いから、とにかく売れるコンテンツを掲載しよう」、というインセンティブが働いてしまうからです。

ネット上にも質の低いサイトはある

なお、少しだけ余談です。

この手の「インチキでもなんでも良いから、目立つように派手なタイトルを付す」という行為は、じつは新聞、テレビ、雑誌などの専売特許ではありません。最近だと、インターネットの世界でも横行しています。

これについては『ツイッター速報の悪質見出し記事…ご夫妻に謝罪せよ!』でも説明しましたが、日本が好きで日本に暮らす外国人のご夫妻が、あたかも日本を侮辱する発言を行ったかのような虚偽の記事を掲載したことがあります。

問題サイトの管理人は元記事を削除して逃亡したようですが、これなども「ウソでも何でも良いから、派手なタイトルでPVを稼ぐ」という意味で、やっていることは悪質なマスメディアと大差ありません。

(※余談ついでに申し上げておくと、当ウェブサイトでもインチキでド派手で誇大な記事タイトルを付け、どこかの匿名掲示板サイトの書き込みを適当に転載するだけのコンテンツにすれば、もっと楽にPVを稼ぐことができるのかもしれませんが、それに手を染めたら、ウェブ評論サイトとしては完全にお終いだと思っている次第です。)

ストーリーありきの取材の現状

ストーリーありきの取材が横行していないか

さて、余談はともかくとして、先ほど紹介した読売新聞の捏造報道事件に関して、気になる点を指摘しておきましょう。

報道等によれば、読売の捏造報道に関しては、捏造に手を染めた主任が「岡山支社から届いた原稿のトーンが、自分がイメージしたものとは違っていた(のでインタビュー内容自体を)社会部が求めるトーンに合わせ(て捏造し)た」、とするくだりが確認できます(カッコ内は当ウェブサイトの勝手な補足です)。

この記述からうかがえるのは、読売新聞の社内では、自社が求めている「ストーリー」に合致しない内容があった場合、そのインタビューの内容をトリミングし、酷い場合には捏造したりするなどの「加工」が常態化している可能性がある、という点でしょう。

実際、これまでに当ウェブサイトを8年弱運営して来たなかで、虚報や捏造報道、偏向報道、政治的中立の逸脱、あるいはちょっとした印象操作に至るまで、とりわけ日本のメディアによる報道が不正確であるという点については、何度となく触れてきました。

というよりも、『「事実を正確に伝える力」、日本の新聞に決定的に欠如』なども含め、当ウェブサイトではしばしば取り上げてきたとおり、日本の新聞、テレビには「事実を伝える力」が極端に弱い、という特徴があることは間違いありません。

これも、新聞・テレビ・雑誌などのマスメディア業界に「PL法」などに代表される包括的な製造物責任を規律する法制が存在しないがために、彼らの規律が徹底的に緩み切っていることを、間接的に示唆しているのではないでしょうか。

松浦晋也氏「メディアはウソにならなければ良い」

さて、この「ストーリーありきの取材が横行していないか」、とする問題意識に関連し、本稿で取り上げておきたいのが、「Sky」様というコメント主様から教えていただいた、非常に興味深い記事です。

「メディアは嘘にならなければいい」――シマゲジの栄光と挫折

―――2024.3.21付 日経ビジネスより

トータルで8000文字を超えるほどの長文記事ですが、これが大変に面白いのです。奥が深く、マスメディアの虚報体質の本質に斬り込む反面、情報が氾濫するインターネット空間に対しても、本質を突いた苦言を呈するものだからです。

記事を執筆したのはノンフィクションライターとして知られる松浦晋也氏で、前半はご家族を看取ったことに関連する随筆(※これはこれで大変に興味深いものです)、そして後半が「ウソでなければOK」がメディアの習慣だった時代に関するいくつかのエピソードです。

さっそく出てくるのが、こんな記述です。

ネットの普及以前、マスメディアに取材され、『これは事実と違う』ということがあっても、マスメディアに抗議し、謝罪させるというのは至難の業だった。多くの場合、自分の意に反した形で取り上げられた側は泣き寝入りするしかなかった」。

なぜか。

松浦氏の言を借りるならば、マスメディアが持つ「情報を多数に伝える」という機能は「大変に大きな力」であり、これこそまさに、マスメディアが「第四の権力」とよばれた理由でもあるのです。すなわち「伝える能力を持つマスメディアと伝える能力を持たない取材される側」には、「圧倒的な非対称性」があったのです。

ところが、ネットやSNSの登場と普及で、この格差が縮小し、「一部ではひっくり返ったのではないかと思える」状況が到来しました。厳密にいえば、現代は過渡期、ということなのだと思いますが、今回の松浦氏の論考における極めて重要な指摘は、この一文に凝縮されています。

実のところ、マスメディア関係者の間では圧倒的な非対称性を前提とした習慣が、長年継承されてきた。それは『嘘にならなければいい』というものだ

…。

「シマゲジ」の頭が痛くなるエピソードの数々

「ウソにならなければ良い」、というのも、なんだか強烈です。

松浦氏が引用するのは、NHKの政治記者出身でNHK会長も務めた「シマゲジ」こと島桂次氏(1927~96)という人物のエピソードです。

この人物、松浦氏にいわせれば、衛星放送やコンテンツビジネスの展開など、現在のNHKの基本的な形を作り上げるという先見性の反面、「強引な手法が目立つ独裁者」でもあったのだそうです。

松浦氏は『シマゲジ風雲録』(1995年文芸春秋刊)の記載をもとに、その「ウソにならなければ良い」のエピソードをいくつか紹介するのですが、これがまた、頭が痛くなるようなものばかりです。

  • 警察に取材するときに「NHKの島です」ではなく「シマケイジです」と名乗ると、相手は勝手に「島刑事」と誤解して色々な異常をしゃべってくれる
  • ある地方に赴任すると、まずはわざと酔っぱらって交番に行き警察官と口論して殴り倒すことで、警察では一躍有名人となることができる
  • ラジオの自然番組でサルの鳴き声を収録しようとして取材に行った際、地元の人がサルを呼ぶためにサルの鳴きまねをしてくれたが、あとで録音を聞き返すと野生のサルと地元の人の鳴き声が混じっており、そのまま「サルの声」として放送してしまった

…。

どれも、犯罪スレスレ、いや、下手をしたら犯罪そのものです。

とりわけ最後の「サルの声」のエピソードについては、大学の研究者が「野生のサルの声を録音するのは非常に難しい」、「素晴らしい仕事だ」と激賞し、島桂次氏は社内で表彰され、上司に告白したところ、上司からこう言われた、というオマケがついています。

これは私とお前の胸の内にしまっておこう。誰にも言うな」。

いわば、島桂次氏だけでなく、彼の上司も、「サルの声ではないもの」を「サルの声」として放送した件に加担していた、ということでしょう。すなわちNHKは当時から腐敗し、堕落し切っていたのではないでしょうか。

松浦氏はこうしたエピソードについて、こう述べます。

その場所で、野生の猿が鳴いていたことは嘘ではない。だから地元の人の鳴きまねが混ざってしまってもいい、という考えなのである。他にも島の回想録には、今の時代ならアウト、な話がいっぱい載っていて大変面白い」。

今の時代じゃなくてもアウトではないでしょうか。

ストーリーありきの取材の功罪

松浦氏の論考でもうひとつ、極めて興味深い記述があるとしたら、「相手に言わせるように誘導する」というテクニックです。

これは、『記事のためにはこのコメントが必要だ』と感じた時に使われるテクニックだ。インタビューの最中に投げる質問を調節することで、相手に自分が望んでいるようなフレーズを言わせるのである」。

言ってしまえば、それは『この人がこういうことを言った』という事実が発生し、嘘ではなくなる。記事中で堂々と発言を引用することが可能になる」。

これは、インターネット上で、新聞やテレビに取材を受けた経験を持つ多くの人が明らかにしている内容とも一致します。新聞、テレビ、雑誌などのマスコミ関係者は、「結論ありき」でインタビューを行い、その結論に合致するような内容を相手に求めたりすることがあるからです。

松浦氏はこの「相手に言わせるテクニック」について、「40年近く前の新人記者時代」にそのような教育を受けたとして、次のように述べます。

先輩記者が言う。『いいか、雑誌記事にはまずストーリーが必要だ。事前に取材対象を可能な限り調べておいて、先にストーリーを立てろ』」。

新人記者の私は、混乱する。えっ?ストーリーというのはフィクションに必要なものではないのか。現実を取材して記事を書くというのは、まず取材があって次に執筆があるのだから、事前にストーリーを立てるというのは本末転倒ではないのか。それって事実のねつ造では?」。

<中略>

『誘導するんだよ。こっちから『あなたの言おうとしていることはこういうことでしょうか』と質問して、『そういうことです』という返事が返ってきたなら、自分の要約を相手の発言として記事に書き込むことができる』」。

ここでまた新人記者は一層混乱する。相手に話させるというのは、話を誘導していって、自分が思っている通りのことを話させるということか?それは事実のねつ造にならないのか」。

このあたりは、微妙でしょう。

もちろん、取材する記者には取材をする目的があるわけですから、相手がどう話すかをある程度予想し、うまく相手から本心であったり、あるいは読者にとってわかりやすいストーリーを組み立てるうえで有益な情報を引き出したりすることは、インタビュワーとしての力量であり、事実の捏造ではありません。

しかし、「結論ありき」で相手を誘導し、相手の本心でないこと(あるいは相手にとって本意ではないこと)を、うっかり口を滑らせるように話させるのであれば、それは詐欺的な取材と指摘されても仕方がありません。

このあたり、普段から松浦氏の優れた記事を読んでいる身としては、松浦氏のこの記述は前者の「うまく相手の本心を引き出し、読者にとってわかりやすいストーリーを組み立てること」を意味していることは明らかです(実際、松浦氏の記事でも、そのような趣旨のことが書かれています)。

本当の問題は記者の能力

ストーリーが問題なのではなく「修正できない」のが問題

ただし、松浦氏はこうした「ストーリーの想定」を巡って、こう警告します。

もちろんこれには前提条件がある。『事前に想定するストーリーが、的確であること』だ」。

まったく同意せざるを得ませんし、これができるのが優れたジャーナリストです。

では、記者が事前に想定したストーリーが、的確でなかった場合、どうすれば良いのでしょうか。松浦氏は、こう続けます。

実際に取材して、事前に用意したストーリーが間違っていたなら、すばやく軌道修正しなくてはいけない。実際問題として『取材をして文章を書く人』としての記者の優劣を分かつものは、この『すばやい軌道修正能力の有無』だと思う」。

要するに、「ストーリー」が問題なのではなく、「修正できない」のが問題だ、ということでしょう。これなど長年、ライターとして活躍して来た松浦氏ならではの視点です。

言い換えれば、実際に取材をして見えてきた事実関係が、自分自身が事前に想定していたストーリーと合致しなかった場合には、ストーリーの方を修正しなければならない、という当たり前の話です。

ところが、多くのメディアなどで現在問題となっている記者などは、多くの場合、こうした軌道修正ができず、「事前に用意したストーリーに固執して」、「見当外れの質問を繰り返したり」、「なんとか誘導で自分のストーリーに合うコメントを相手から引き出そうとして不興・不信を買ったり」する、というものでしょう。

マスメディアに取材されて、不本意な記事を掲載されたというようなケースを観察していくと、原因の多くは、この『事前に用意したストーリーと現実が合致しないにもかかわらず、記者の側が柔軟にストーリーを組み替える能力に欠けていた』という場合が非常に多い」。

松浦氏はハッキリ書いていませんが、端的にいえば、記者の能力不足です。

大変に腑に落ちる記事です。

いや、「(個別の)記者の」、というよりはむしろ、「新聞社全体・テレビ局全体・雑誌社全体の」、あるいは「マスメディア業界全体の」能力不足、というべきなのかもしれませんが…。

記者の専門性欠如、そしてネットに氾濫するゴミ情報

この点、私たちが普段目にしている新聞、テレビの記事でも、そもそもの記者の「専門性の欠如」が目に付くことが多いのですが(いわゆる「悪い円安論」や「悪い賃上げ論」などがその典型例でしょう)、経済記事を書くのに経済・金融・簿記の基本知識すら持っていないというのは、正直、致命的です。

松浦氏の論考では、他にも興味深い記述が多々出てきます。

とくにインターネットが発達した結果、「情報の非対称性」は消滅したものの、その結果生じているのは「質の低い情報の氾濫」だ、という指摘については、同意せざるを得ません。インターネット上には「PVありき」、「アクセス数ありき」で、明らかに虚偽の情報を垂れ流す事例も数多あるからです。

当ウェブサイトも、「読んでくださった方々の知的好奇心を刺激する」をひとつのテーマにおいて、これまで8年弱、運営して来たつもりですが、自省を込めて冷静に振り返ってみたら、正確さに欠ける記載も多々あったのではないかと思えてなりません。

また、ときとして盛大な計算間違いをすることもあります(たとえば『「ザイム真理教七公三民」記事の顛末とお詫びと再計算』や『【総論】電力系統の維持に適さない太陽光発電の問題点』などは、その酷い事例でもあります)。

ただ、改めて思うのは、せっかく貴重な時間を割いて当ウェブサイトを訪れてくださる以上、読者の皆さまの「知的好奇心」を刺激するような記事を提供する――、という原点については、決して失ってはならない、という点でしょう。

マスメディアを偉そうに舌鋒鋭く批判するわりに、そのサイトが率先して、PV狙いで質の低い記事を量産するようになっては、意味がありません。

いずれにせよ、インターネットが出現する以前の新聞、テレビが提供していた情報の質が高かったとは思いませんが、インターネット時代が到来したことで、質の高い情報が自動的に手に入るようになったのかと問われれば、それもまた違います。

その意味では、当ウェブサイトは当ウェブサイトなりに、「統計など、客観的かつ誰でも簡単に入手できる一次情報をベースに、読んでくださった方々の知的好奇心を刺激すること」を目的として、ウェブ評論活動をもう少し続けようと思う次第です(いつまで続けられるかはわかりませんが…)。

新宿会計士:

View Comments (23)

  • >この『事前に用意したストーリーと現実が合致しないにもかかわらず、記者の側が柔軟にストーリーを組み替える能力に欠けていた』という場合が非常に多い」

    この、柔軟にストーリーを組み替える能力は、優れた仕事人であるためには、業種・職種を問わず必要なことですね。
    このサイトの読者の方でも、仕事が出来ると自負されている方は、この部分を読んで、最も共感されるのではないでしょうか?仕事とは、これの連続であるとも言えるかもしれません。
    又、経営は、予めストーリーを立ててやるものですが、現実との差異が分かれば、ストーリーは修正されなければならないはずです。それが出来なければ、倒産です。

    現実を修正出来るとすれば、神か独裁者しかいないでしょう。
    なるほど、マスゴミは、第四の権力を持った独裁者と自認しているのかもしれないですね。

    • ストーリーを決めて、そのストーリーにあうように記事を書かないと、分かりやすい記事にならないのではないでしょうか。つまり、ストーリーに合わない現実を記事にすると、分かりやすい記事にならないのです。

    • 柔軟にストーリーを変えるのもおかしな話しです。
      ストーリーありきではなく事実をわかりやすく組み立てたものでなければいけませんね
      結果としてストーリーになるのかもしれませんが。

      • もりかけ記事など、何度読んでもさっぱりわからない記事だったと思います。
        ストーリーと証言が合致する部分だけ繋げるので、話が飛んで意味不明。と感じていました。恨みというか執念だけは感じられるので気味がわるいのですが、怖いもの見たさというか、頭のおかしい人みたさというか、それで朝日新聞取ってました。

  • ちょっとモヤモヤしているのですが、記者の「ストーリー」を仮説と置き換えてみます。
    記者は自分の仮説の正しさを検証するための一つの手段としてインタビューをしていくものだと思います。この時に思いもよらぬ(自分の考えが及ばなかった?)反応が有ったときに、仮説をどうしていくか。あくまで仮説ですから違っていたと悟ればその時点で仮説を変えればよいことだと思います。
    しかし、仮説ではなく「あるべき姿/事実」と認識しているようです。この「あるべき姿/事実」を伝えることが使命であると思っているのでしょう。
    ここの認識が思い上がりに感じるのだと思います。

    • >しかし、仮説ではなく「あるべき姿/事実」と認識しているようです。この「あるべき姿/事実」を伝えることが使命であると思っているのでしょう。

      本文によれば、シマゲジさんは、このようには教えられていないようですよ。あくまで、自分の考えたストーリーのようです。
      ストーリーと「あるべき姿/事実」は、違います。

      >「あるべき姿/事実」を伝えることが使命であると思っているのでしょう。

      これを使命と考えるのは、牧師さんだけでしょう。しかも、それは、聖書に書いてある事でなければなりません。

      自分の考えた「あるべき姿/事実」を伝えることが使命であると考える人は、最早、常人ではないのでは?

    • 新聞・テレビは、「事実」を伝えるとは言っていないように思えます。
      「真実」を伝えると常々言っているように思います。したがって、「事実」であることに拘っておらず、「イメージした真実」を伝えているものと思います。。

  • 誤りは恥ではなく、謝らないのが恥。

    メディアによる「ためにする批判」は、
    メディアをより「ダメにする批判」(!)

    「事実に則した記事」を執筆するのがジャーナリスト。
    持論を通すのであればエッセイストを名乗ればいい。

  • 仮定と前提の区別が出来ない記者の脳内では、仮定が決付けとなる訳ですね。

    予断や偏見も、それに囚われる事なく臨機応変な柔軟な思考が出来る人にとっては有益なのでしょうし。

    • 現実とは常に劇的であるとは限らないし、平凡なつまらない原因であることが多い。しかし、ここから劇的な記事にするために、記者の脳内で仮定をつくり、それが前提になり、事実になっていく。こんなあたりが真相ではないでしょうか。

  • PL法に、対価を得て発信する情報、を加えるというのはいいアイデアですね。
    新聞と有料ニュースサイト、NHKが範囲に入ります。普通のTVはCM収入のため入りませんが。

    もしできたらNHKに対する訴訟が乱発しそうです。

  • マスゴミは、「嘘にならなければ良い」ではなく、「世間にバレなければ良い」、「世間が騒がなければ良い」、「社内で問題にならなければ良い」ではないでしょうか。
    蛇足ですが、マスゴミは、(嫌いな)他国のマスコミ、あるいは他の業界が同じようなことをしたら、大喜びで騒ぎだすのではないでしょうか。

    • もし、あるマスゴミの嘘報道で世間が騒ぎになった場合、他のマスゴミは嘘報道をしたことより、「どうしてバレるような下手な報道をしたのだ」、「どうして、世間で騒ぎにならないようにできなかったのか」と言って怒りだすのではないでしょうか。

  • それにしても、この記事の引き合いに出されているシマゲジこと島桂次氏。
    こういう人が公共放送機関であるNHKで出世し会長職まで務めた。という事実。その出世にあやかりたい周囲の連中が彼のやってきたことを正とするのは当然と言えるでしょう。

    もう一つ。
    松浦氏の指摘で以下はとても重要で、この条件に合った人ってどの位いるのかと思いました。
    「素早い軌道修正を可能にするには、「違うストーリーがあり得る」と常に意識し続ける必要がある。そのためには幅広い基礎の知識を持たねばならない。理想としては政治・経済・法律・ビジネスはもちろんのこと、物理学・化学・生物学・地学、それらの応用としての各種工学、さらには古典から現代に至るまでの芸術、民俗学・風俗にいたるまでを一通り押さえておくべきである。
     かつての――というのは、私より前の世代、昭和ヒト桁生まれが現役記者だった頃のことだが――新聞の取材現場では「記者は物知りでなくてはいけない」とか「万物を知る雑学屋でなくてはいけない」という雰囲気があったそうだ。なぜなら、いつなんどきどんなニュースが飛び込んでくるか分からないから。どんなニュースにも対応するためには、何を聞いても「ああ、あれか」と土地勘が働くような、幅広い知識の基盤が必要となる。」

  • 新しい切り口での見方をご紹介いただいた
    とてもためになる記事をありがとうございます。

    そのうえでなのですが、
    記者の能力不足(?)や
    事前に用意したストーリーの修正能力欠如(?)
    と分析する見方は、すでに対象の人たちの
    ありようを知っていると
    適用すべきでない人達に
    性善説を適用してしまっているのでは?
    との疑念を感じてしまいます。

    「それは失敗と言いまあ~す♪」の
    沈めさ意地さんや、桜ういろうさん、
    シュナムルさんや、コラボの
    反日活動家おばはんたちなどは
    能力不足以前の根深い病巣の考察なしには
    分析分類と正しい対処法が見えてこないと
    危惧します。
    常習犯の万引きや泥棒さんに
    貧乏だから?とか、能力が劣るから?
    とか憐れみをかけて見逃し続ければ
    犯罪は減りません。

    朝日やどぶサヨ方面や韓流さんが
    自称従軍慰安婦や自称徴用工画策で
    嘘捏造をさらに積み増ししてまで
    主張し続けるのは、
    『間違ったと気づいたストーリーの
     修正能力の欠如(?)』とするのは
    無理があり過ぎと感じます。
    むしろそっちの方々は、
    見破られた嘘を如何にレトリックを弄して
    書き続けることをすぐれた能力(笑)だと
    自慢さえしているかのようなのですから。

  • 良記事だと思いました。
    結論を変えうる根拠が目の前に現れた時のストーリーの修正力は、柔軟さだけじゃなく、
    論理的思考(「根拠→結論」の流れ)の概念を持っているかどうか、もあったりするのかと思います。
    読みながら思い出していましたが、とある中国地方の新聞の安芸高田市長番記者氏は、市長からの逆質問を受けて絶句することがしばしばです。「こんな根拠が揃えばこんな結論になるはずなのに、あなたの結論はおかしいですよね?」的な市長の質問などサッパリ通じない。記者が後につなぐ言葉が全く脈絡のない言葉だったりするので、市長の質問の意図がまったく理解できない(何を聞かれているのかわからない)んだろうなと思ってやりとりを見ています。

    紹介記事後半にある普段の習慣や心がけの行にもつながるのでしょうが、日常業務や日常生活が「結論→根拠」のストーリー思考ばかりで論理思考から遠ざかってしまっていると、こうなってしまうのでしょうかね。そうはならないように自分も心がけたいものです。

    >自省を込めて冷静に振り返ってみたら、正確さに欠ける記載も多々あったのではないかと思えてなりません。

    私なんぞが偉そうなことはまったく言えないですが、論理思考とストーリー思考の使い分けにも「謙虚さ」は大事な気がします。常に内省する態度。謝ったら死ぬ病と対極の態度(頑なに失言と認めなかった某県知事を思い出しながら)。
    謙虚な人は、「謙虚であれ」と他人に言わないので、謙虚でない人は「謙虚であれ」というアドバイスはもらえないんですよね。自分で気づくしかない。大きな壁だと思います。まあ、口で言ったところでわかるようなもんでもないですけどね。

    ええ、私には謙虚さが足りないので、新宿会計士さんの言を利用してこんなことに言及しています。(笑)
    自戒を込めた感想文でした。

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