「見るべきテレビ番組がない」?ならテレビを消せば良い。
年末といえば、日曜日の夜のテレビ番組などを見ながらガリ版で年賀状を手刷りするという光景が、そこここの一般家庭で見られたのではないかと思います。その風物詩だった年賀状も廃れゆく運命にあるのかもしれません。こうしたなか、テレビ番組に関しては「見るものがなく地獄だ」、などとする主張が出てきたのですが、はたしてそうでしょうか?見るものがなければテレビを消せば済む話ではないでしょうか?
目次
あと1ヵ月少々で今年も終わりますね
早いもので、あと1ヵ月少々で今年も終わります。
首都圏だと急激に冷え込むことも増えてきました。
季節の変わり目は体調を崩しやすいため、読者の皆さまにおかれましても、どうかくれぐれもご体調にはご自愛賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
年賀状はなぜ廃れたか
昭和の家庭の家庭の日常風景は「テレビを見ながら年賀状印刷」
さて、年末が近づいてくると思い出すのが、昭和の一般家庭の風景です。
おそらく昭和の戦後世代にとっては、年末といえば年賀状の準備や大掃除、年始に向けた買い出しなどの風景を思い出す方が多いかもしれません。
とりわけ1980年代ごろまでであれば、コピー機はまだまだ高価で世の中に普及していなかったため、社会人の多くは鉄筆を使って原紙を作り、謄写版(いわゆるガリ版)によってハガキを1枚ずつ手で印刷していたのではないでしょうか(もちろん、宛名の方は、1枚1枚手書きでした)。
新しい物好きの家庭だと、「プリントゴッコ」という、カラー印刷ができる簡易印刷機を買い求めた経験がある方もいらっしゃるでしょう。
(※ちなみに理想科学工業株式会社『プリントゴッコ』によると、このマシンは1977年に発売され、大ヒットとなった商品で、1990年代には発売20年を前に累計1000万台を突破したのだそうです。)
まだ週休1日の時代、年賀状の印刷ができるのは日曜日に限られていたため、年末の特番をテレビで見ながら家族総出で年賀状の印刷を手伝った、という記憶を持つ人も、意外と多いと思います。
年賀状は急速に廃れている
しかし、時代というものは、移り変わっていきます。かつては一般的に見られた習慣も、時代の変化、技術の深化とともに、廃れていくのも必然といえるでしょう。
年賀状も、その典型例です。
『発行枚数が最盛期から3分の1に激減した年賀状の将来』でも指摘しましたが、日本郵便の発表によれば、令和6年用の年賀はがきの発行枚数(当初ベース)は前年と比べて2億枚減り、14.4億枚となったのだそうです。前年割れは13年連続のことです。
日本郵便のウェブサイトの公式発表などをもとに、遡れる最も古い2003年分以降で調べてみると、当初発行枚数は2004年の44.5億枚をピークにほぼ右肩下がりで減り続けていることが確認できます。
ということは、この傾向が続き、2025年分以降も毎年1.5億枚から2億枚のペースで減り続けると、早ければ2031年、遅くとも2030年代前半には、年賀状の発行枚数がゼロになってしまう可能性があるのです(図表1)。
図表1 年賀はがきの当初発行枚数推移とゼロになるまでの予想年数
(【出所】2003年~24年については実績値【当初発行枚数ベース】、25年以降は予想①が「2025年以降、毎年1.5億枚ずつ減り続ける」とした場合、予想②が「2025年以降、毎年2億枚ずつ減り続ける」とした場合の予想値)
ちなみに先ほど例に挙げたプリントゴッコも時代の波に逆らえず、2008年に発売が終了し、事業自体も2012年に終了しています(※ただし、プリントゴッコ事業の終了は年賀状需要が低迷したからではなく、カラープリンタの普及が主要因と考えられます)。
お年玉くじ付き年賀はがきの歴史は意外と浅い
果たして、年賀状はこれからどうなってしまうのでしょうか。
もちろん、年賀はがきについては私たちの多くが生まれたときからこの世に存在したものでもありますし、「一生出し続ける」と決めている人もいるかもしれませんし、「年1回くらい、書状で近況を報告し合うことを楽しみにしている」という人もいるかもしれません。
したがって、「年賀状の習慣が2030年代にも廃れてしまう」という予測については、さすがに「信憑性がない」とのご批判もあるかもしれません。
人々がなぜ、年賀状を送り合うようになったのかについては諸説ありますが、最も一般的に見られる説明のひとつは、「年始回り」などの習慣を簡素化するために、書状をもって挨拶に代える、というものです。
明治以降、一般庶民も移動の自由が確立し、村落を出て遠方(たとえば都会)に移住する人が増えて来ると、いちいち地元に帰るのが難しくなり、両親、本家、親戚などに顔を見せる代わりに年末年始の節目などにあわせて書状を送るようになった――。
これが近代の年賀状の実態ではないでしょうか。
そして、こうした年賀状を送付するようになると、ついでに友人や職場の上司・同僚・取引先といった、「普段お世話になっている皆さん」にも同じように年賀状を送ることが一般的になり、それがいつしか、日本全国で44.5億枚ものお年玉付き年賀はがきが発行されるまでに盛んになったのではないかと思います。
ただ、年賀状を送り合うという慣習自体は古くから日本に存在するようではあるにせよ意外と知られていない事実かもしれませんが、「お年玉くじ付き年賀はがき」自体は、近代の産物です。「お年玉くじ付き年賀はがき」が発売されたのは1949年のことだそうであり、これは中華人民共和国が成立したのと同じ年です。
昨日に続き、年賀状に関する話題・エトセトラです。年賀状印刷サービスを提供するフタバ株式会社のアンケート調査によると、年賀状を10枚以上出す人は約4分の3に達しているのだそうですが、そのわりに年賀状の発行枚数は年々減っています。また、日本郵便はLINEを使った「スマートねんが」なる取り組みを数年前から行っているようですが、そのサービス内容についてはいまひとつ浸透していないようです。右肩下がりの年賀状日曜日の『発行枚数が最盛期から3分の1に激減した年賀状の将来』でも触れたとおり、年賀状の発行枚数は... お年玉くじ付きはがきの歴史は中華人民共和国と同年数 - 新宿会計士の政治経済評論 |
いわば、日本の「お年玉くじつき年賀はがき」の歴史は、74年という悠久の歴史をもつ中国と、年数だけで見たらほぼ同じで、意外と歴史は浅いのです。
個人情報保護法が年賀状文化を終わらせた
さて、年賀状が廃れていくであろうとする仮説を著者自身が強く支持している理由はいくつかあるのですが、社会のペーパーレス化もさることながら、個人情報保護法の影響は非常に大きいと思います。年賀はがきの発行枚数が減少し始めた時期と、個人情報保護法が施行された時期が、ほぼ一致しているからです。
もしかして当ウェブサイトの読者の皆さまのなかにも、かつて職場で名簿が出回っていたという経験を持っている方もいらっしゃるかもしれません。職場の各人の氏名や役職、郵便番号、住所、酷い場合はご家族(ご両親や配偶者、子供の有無など)の個人情報が記載された名簿です。
かつて、この手の名簿は、年賀状や暑中見舞いなどを送り合うためには必要とされていたものでした。
しかし、個人情報保護法が2003年に施行されると、「個人情報」(生存する個人に関する、氏名、生年月日、住所、顔写真など、「特定の個人を識別できる情報」)の保護には、社会全体で非常に敏感になりました。
想像するに、現代の会社や学校などで、こうした個人名簿を作成して全員に配る、といったことは、あまり行われていないはずです(著者自身が日本全国のすべての会社や学校を調べたわけではないので、断言することは難しいですが…)。
そうなると、職場の関係者、学校の先生や同級生などに対し、年賀状を送ろうにも、相手の住所がわからないわけですから、送りようがなくなります。
必然的に、年賀状を送る相手は親戚や昔からの友人などに限られ、新たに知り合う人とはよっぽど仲良くならない限り、住所交換もしなくなります。あなた自身が住所を知る相手がどんどんいなくなっていくわけですから、年賀状を送る相手も減っていく、というわけです。
こうした仮説は、さほど見当外れではないでしょう。先ほどの図表でも示したとおり、長期トレンドとして見れば、年賀状の発行枚数がほぼ直線的に減っているという事実と整合するものだからです。
年賀状の発行枚数が増える未来は考えられない
さて、著者自身もピーク時には100枚前後の年賀状をやり取りしていたことがありましたが、どんどんとその枚数が減り、昨年実績だと25枚ほどでした。最近だと毎年のように、「今後は年賀状を止めます」という宣言を見かけることが増えています。
考えてみれば、それも当然のことでしょう。最近だと、遠方の相手と連絡を取る手段は手紙・はがきに限られないからです。電話やFAXはもちろんのこと、電子メール、LINEやX(旧ツイッター)などのSNSに加え、FaceTimeやZoom、WebEx、Teamsといったウェブ会議システムなど、いくらでもあります。
たとえば、遠方に暮らす仲の良い親戚との間では、年賀状を送り合うよりも、新年や誰かの誕生日などにあわせ、家族みんなでFaceTimeを使って直接話をした方がよっぽど効率的ですし、満足度も高いはずではないでしょうか。
ましてやそこまで親しくない昔の知り合いなどに対し、(手書きにせよ印刷にせよ)わざわざ年賀状を送り続けるというのも、現代人にとっては心理的負担が重くなりすぎているのかもしれません。
そして、年賀状というものはお互いに送り合うことが多いという文化でもあります。ウェブ主などは「滅多に会わなくなっても、年1回くらい、書面で近況を報告し合う機会はあっても良いのではないか」、などと思っているクチですが、それでもどちらかが送らなくなれば、それっきりになってしまうことが多いです。
(※もっとも、高齢の親戚には、こちらから一方的に送り続けている、という事例もあるかもしれませんが、それにしてもいつまでも送り続けられるものではないでしょう。)
いずれにせよ、年賀状を送り続けている人にとって、やり取りする年賀状の枚数は、今後減ることはあっても増えることはないのです。年賀状という文化が今後、完全に消滅するのかどうかはわかりませんが、少なくとも年賀状の発行枚数が増えることは考え辛いところです。
日曜日の夜、テレビを見ながら謄写版でハガキを印刷する。
ハガキが乾いたら今度は表面に1枚ずつ手書きで宛名を記入する。
それも、手書きで作った住所録を見ながら。
そんな昭和の光景がふと懐かしくなるものです。
テレビと年賀状
テレビを見ながら年賀状を印刷したかつての年末の光景
さて、変わりゆく年末の光景を象徴するものといえば、個人的に年賀状以外にもうひとつ挙げておきたいのが、テレビです。
各種調査によると、人々のテレビの総視聴時間は年々減っており、とくに若年層になればなるほど、テレビをほとんど見ないという傾向がくっきりしています。
たとえば総務省『情報通信白書』に毎年掲載されている、年代別のメディアの平均利用時間に関する資料を眺めていると、すでに40代以下の層では2022年、インターネット利用時間がテレビ(リアルタイム+録画)、新聞、雑誌の合計視聴・購読時間を上回っていることが明らかになっています(図表2)。
図表2 2022年における年代別・メディアの平均利用時間(平日、単位:分)
(【出所】総務省『情報通信白書』データをもとに作成)
もちろん、年代によってはまだまだテレビをリアルタイム視聴する人は多いのでしょうが、その反面、若年層になるほどネット利用時間が顕著に増え、オールドメディア利用時間が顕著に減ります。
ちなみにここから先はあくまでも著者自身の想像ですが、高齢層ほどオールドメディア利用時間が多くなるというのは、あくまでも「平均値」の議論であって、実態はすべての高齢者が等しくオールドメディアを好んでいるわけではないと思います。
すなわち、同じ高齢層であっても、「インターネットに1度もアクセスしたことがない」、「情報は新聞とテレビに全面的に依存している」、といった人もいる反面、なかには若年層と同じくらい、バリバリとインターネットを使いこなしている人もいるのではないでしょうか。
見るべき番組がない?ならテレビを消せば良い
さて、本稿の締めに、こんな記事を紹介しておきましょう。
大晦日、各局「見るものなし」の地獄状態…TBSは中居正広「WBC6時間」で「テレビ離れすごい」と衝撃の声
―――2023.11.20 16:39付 Smart FLASHより
光文社『フラッシュ』のウェブ版『スマートフラッシュ』が20日付で配信した記事によると、今年の大晦日の特番はいずれも視聴率が低迷し、「いよいよ見るものがない『地獄の年越し』となるのかもしれない」のだそうです。
はて、そうでしょうか?
「見るべきテレビ番組がない」と言われても、元からテレビを見ない人にとっては今ひとつピンときませんが、もし「見るべきテレビ番組がない」からといってそれが「地獄の年越し」になるものなのでしょうか。
「見るべきテレビ番組がない」のなら、テレビを見なければ良いだけの話だからです。
テレビを消せば、自称公共放送の商業主義剥き出しの派手で下品な歌番組(通称『日韓歌合戦』)などが視界に入らなくなり、穏やかな気持ちになれます。
静かに除夜の鐘に耳をすませながら年越しそばをすするも良し、普段夜更かしばかりしている人は、大晦日くらいは早く就寝するも良し、あるいは少し早めに初詣に行くも良し(いや、大晦日に神社仏閣に行くのは「初詣」ではなく「年末詣」でしょうか?)。
だいたい昔の人はテレビなんて持っていなかったのですから、年末くらいは静かに過ごしても良いのではないでしょうか。
もっとも、最近だとインターネットがあるので、友達とLINEを交換したり、X(旧ツイッター)を眺めたり、あるいは山手線の駅名を冠した怪しげな自称会計士のサイトでマターリとしたりするのも良いかもしれません。
なお、当ウェブサイトでは読者雑談専用記事を年末バージョンにしたうえで皆様のお越しをお待ちする予定ですので、どうかお気軽に覗いてみてください。
View Comments (22)
人間も変化しなければ衰退するのみですからねー
お年寄りすごい!女性すごい!若い男やおっさんは情けない!ばかり垂れ流してばかりのテレビなんか見てたら、お年寄りや女性は努力しなくなるわな。笑
昭和や平成か!ってね笑
正月は箱根駅伝みる。
HDにたまってる放送大学の「映像コンテンツの制作技術 全15回」、「Webのしくみと応用 全15回」その他「身近な統計」を見るのも面白いかな。
BSの放送大学は結構おもしろいのやってる。
NHKのお得意様ですね。NHKから年賀状が来ます?
横から失礼します。
わたしも
NHK(約33年)
NTTドコモ(約26年)
JAF(約34年)
継続して支払っています。
モンスタークレーマー風で言えば、
「年賀状どころか盆暮れのつけ届けを直接持って来い」
と言ってよいレベルです(笑)
>と言ってよいレベルです(笑)
いやいや、倉が建つレベルです。
少なくとも、イナバの100人乗れる倉庫は確実です(😛)
請求書なら来るけど。
良いことお教えします。
銀行引き落としにすれば、来なくなりますよ。
ヴィンセント君を見る為には一体いくつのCMを見なくてはならないのだろう。
マラソンよりCMの方が本体に思える。
私も最近、BSの放送大学を視るのにハマっています。
なんもいい番組やらんな~と思って、番組表データでたまたま目に留まった化学とか気象の番組見たら、そこから結構見る・録るようになりました。
「初歩からの化学」「はじめての気象学」「人体の構造と機能」などなど。
主に理系科目で興味引きそうなものを第1回からHDDに録り溜めしてます。
私も年末年始で視ようかなと思います。。
>個人情報保護法の影響は非常に大きい
個人情報といえば今日行ったコンビニで女性店員が胸につけている名札に「クルー」とだけ書いてあった。実際の名前を書くと名指しで電話がかかってきたりいろいろ不都合があるのだろう。クルーと書くだけなら名札ないのと同じじゃないかとおもうけど。だって制服着てカウンターのなかにいるんだから。
>あるいは山手線の駅名を冠した怪しげな自称会計士のサイトでマターリとしたりするのも良いかもしれません。
これは、雑談板に年越板を設置するという予告だったりして♪
٩(。•ω<。)وピコーン
>静かに除夜の鐘に耳をすませながら年越しそばをすするも良し、
で思い出すのが「おせち、いつ食べる」問題です。
わたし自身、東海地方出身(両親は岐阜県・富山県出身)です。
大晦日の夕食は質素(年越しそばを食べるだけ)でした。
元旦は家長である父親から年始挨拶があってからの豪華おせち&雑煮となりました。
義実家(妻は北海道札幌市、両親は北海道・山形県)では全く違いまして、
年末は豪華(ケンチキやお寿司&おせちで大宴会)で〆に年越しそば。
元旦は前夜に残った料理を食べる&雑煮もあるよ、でした。
ネット情報によれば、大晦日におせち食べる地域は
北海道と東北・甲信越・四国・九州の一部だそうです。
青森でも大晦日に食べる方が多いようで、こういう時は各地の風習を実感できる転勤族で良かったなあと思います。
年賀はがきの発行枚数がここ20年間で半減したとのこと。年末には年賀状を書くのが当然の習慣となっていた旧世代の人間にとっても、まあそうなるだろうなと、不思議には感じないですね。
社会人になった当時は、版画、シルクスクリーンなんぞを使って、それなりに手の込んだ年賀状作りをやっていたのが、今では図柄から賀詞まで共通のものを、PCでディスプレイ上に作製、相手ごとに何か書き足したいメッセージがあればに備えて、ちょっとした余白を残しておく。こんなの、宛名書きは住所録ソフトを使い、あとプリンターで印刷するだけで。そう手間はかからない。こんなの思い立ってから2日もあれば十分。
年賀状を毎年書いてる本人ですら、手抜きも良いところは自覚しています。もっと昔であれば、気の張る先には肉筆で書いた年賀状でなければ、きちんと礼を尽くしているとは見てもらえない、却って腹立てられたかも知れなかったんですが、わたしくらいの年齢層ならば、年賀状やり取りする双方とも事情は似たようなものですから、普段の無沙汰を詫びて、今後も元気にやっていこうよとエールを送り合うくらいの儀礼としては、まあ十分かなって感覚です。
こういう感覚、年齢層が下がるほど、希薄になっていくでしょうね。わたしと家内は見合い婚。引き合わせてくださったお仲人さんには、年賀状を差し上げるのはもちろん、年始の挨拶にも伺っていました。だけど今の世の中、親戚や近所の世話焼きのおじちゃん、おばちゃん、縁談を纏める生涯目標何百組なんて職場の上司など、今やすでに絶滅危惧種。人付き合いの質は急速に変わってきています。最近の葬儀で少人数の会葬で済ませる家族葬が主流になりつつあるのも、同じ世相の移り変わりと関係しているように思えます。
人同士の交わりが希薄になり、水くさい世の中だ、なんて感慨も生まれそうですが、必ずしもそうとは言えないように思えます。周囲の人に頼らなくとも、公的あるいは民間の企業などが提供する社会的サービスの範囲や質が、昔とは違って、飛躍的に増しています。なまじプラスαの気遣いが付きまとう濃密な個人的な助力は。求める人も減っているし、周りも下手に手を出そうとしない。それで世の中、却って以前よりうまく回っているのではないかと思うのです。
われわれ旧世代型の人間とて、アタマの中では昔の仲間、人脈は大事にしなければ、という感覚はどこかにあっても、日常の生活では、社会から提供されるサービスを、当然のこととして利用し、それだけで十分暮らしています。今でも年に一回くらいの頻度で、同期会と称して、昔の仲間と集まったりもしていますが、今の若い人たち、仕事をリタイアしたあとになって、そういう方向に気が向くんでしょうかね。
それでは寂しかろうと考えるのは、年寄りが故の老婆心かも知れません。でも、若かろうが年寄りだろうが、個人レベルでの人付き合いを求める心情の濃淡というのは、そうは変わらないような気もします。鉄オタだなんだの類いの共通趣味で盛り上がる、オシ活動なんかで共感と同時に、自らの優位性をアピールして楽しむ。時代によってスタイルこそ違え、人というのは、人の中で生きているという実感を求める生き物だという本質は、多分変わることはないんじゃないでしょうか。ただ、こういう新時代の、ネットを介して成立する人付き合いには、年賀状などというツールは、多分不要になっていくんでしょうね。
いつもながら、幅広い考察ですね。こういう考察を読むと何かレスしたくなります。
昔、地縁・血縁・職縁、という言葉がありました。
地縁は、確かに、公共福祉や公共サービスの充実によって、多分殆ど必要なくなっているような気がします。町内会がどうのという話がありますが、そういう話が出て来るのは、町内会の必要性が薄れているからでしょう。
血縁も薄れています。昔から、兄弟は他人の始まりといいますし、今の時代、生誕地で暮らし続ける人の数も減少しています。親戚の価値・意義も意識の中では減少しています。これも、公共サービスの充実の影響があるのかもしれません。
一昔前まで、遠くの親戚より隣近所とかいう言葉もありましたが、今やそれすら必要が無くなりつつあります。
職縁は、日本から工場が無くなって職場での繋がりの必要性が無くなってから、その意識も急速に薄れたのではと推測します。入社して新人の頃は、上司は親代わり、先輩は、兄代わりみたいな雰囲気があり少々辟易しました。
日本では、明治維新後も、殖産興業など集団で行わなければならない産業形態が続き、戦後も工業に重点を置いていた頃まで、いわゆる生産手段が土地に大きく依存していた封建制度とその継承制度である家督相続の考え方が、ずっと残っていたと思います。
そのような産業形態が日本から少なくなり、個人が自由に働ける職場や職種が多様に存在する世の中なったこの時代に、集団維持意識や家督相続の意識など、社会的に殆ど必要ありません。そこに、社会サービスや社会福祉制度の拡充が重なります。
以上なようなことかなと観察しています。
個人的には、地縁血縁の付き合いは面倒ですし、職場の濃密な関係性も煩しかったので、今の時代、自分のウマが合う人達だけと付き合えばいいと言うのは、まあ、天国な感じです。昔の職場の気の合う人達と偶に合うのも、何か心をほぐしてくれます。
今の時代、政治的自由、職業の自由、の上に、人付き合いの自由まで、実現した、何と言うか、人類の歴史上初めての時代として、特筆されるべきかもしれません。
補足します。
今は、言わば強制されるべき人間関係が必要でない時代なのかもしれません。
が、それ故に、人間関係の希薄感に耐えられない人達、特に若い頃は、他人との関係性の中から、自分の存在を確認しつつ自己形成をする時期ですから、人間関係の希薄な世の中は、まあ、「自我」としては、困る訳です。
人間というのは、自動航行ミサイルが、常に周囲に、電波を発しつつその反射として返って来る電波を確認しつつ、自分の位置と他者との距離を確認しながら、目的地を目指しているのです。しかも、ミサイルは、予め目的地を決められているからいいのですが、人間の若者は、未だ定まらぬ自分の目的地も探求しつつ、というかなりの難題をこなしつつという事になります。いわゆる「自分探し」とか言われるような状態に耐えつつ、という事です。
目的は、社会での自分のポジション探しです。
そういう意味で、結婚は、永久就職と言ったのは、このポジショニングの考え方としたは、正確な言い方ですね。
さより様
>人間関係の希薄感に耐えられない人達、特に若い頃は、他人との関係性の中から、自分の存在を確認しつつ自己形成をする時期ですから、人間関係の希薄な世の中は、まあ、「自我」としては、困る訳です。
>結婚は、永久就職と言ったのは、このポジショニングの考え方としたは、正確な言い方ですね。
少し関わりそうなことは書いたのですが、こういう思いも寄らなかった観点を提供していただけると、うれしい限りです。こういうのがこのサイトの魅力でもありますね。
ちょっと思ったのが、どうにも理解不能にも思えるストーカーの心理。
ご指摘のようなプロセスが、失見当識に陥り、迷走、暴走した挙げ句の、行き着く先ってことなんでしょうか。
伊江太さん
何となく流れで書いたことで、私は専門家でもないですが、人間とは上手く言ったもので、人の間、人との関係性で自分の存在を認識するものではないかと気が付いたのです。せっかくレス頂いたので、そのうち考えていることをじっくり書いて見たいと思います。
ストーカーって、ニュースで聞く内容によって端から見る感じですが、要は、自分を認めて下さい、という感じではないかと思えるんですが、やはり自我がしっかり形成されていないのかな?と感じますね。
これについては、中川与一という人の「天の夕顔」という短編があるのですが、この作品は、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の日本版という言い方もされるのですが、この両作品とも、何というか、自分の心の中だけの心理的なソフトストーカーなのかもしれません。いや、片思い恋愛などは、相手への迷惑な行動をしないですが、自分の心の中だけでいえば、変な言い方ですが、ストーカー的心理になっているのかもしれません。寝ても覚めても相手の事が頭から離れない、なんて純愛小説やドラマや映画のテーマですから。所で、ゲーテは、80歳近くで、17才位の娘に熱烈な恋心を抱き、相手への熱烈な愛情表現を書いた手紙を繰り返し送ったらしいですが、これなど、ゲーテじゃなきゃ、エロジジイのストーカー行為と取られかねないのではないか、と思われます。
他人の迷惑も省みずにストーカー行為をするのは、やはり自我が形成されていないのではないでしょうか?周りから認められて、心理的に自分自身のポジションニングが出来ているか否か?それが出来ていなければ、結局、依存意識から抜け出せないで、他人との距離感、位置関係の確認が取れていないのかもしれません。
よく、自分の居場所という言い方をしますが、それは、社会での自分のポジションを自分で確認出来ているか?という事だと思います。
自分で自分のポジショニングをして、結婚を永久就職と見つけたり、とは凄いポジショニング意識だと最近関心しています。が、それを3食昼寝付きだと認識してしまうと、それは、自分のポジションを危うくすることではないかと思います。
取り急ぎ書きましたので、纏まりがありません。悪しからず。
尚、ゲーテは「若きウェルテルの悩み」なんて書いていますが、本当に恋愛心を持ったのは、80才になってからかもしれません。若い頃に恋愛をしたと思っていても、それがいい加減なものだと、心の芯まで火が通らなくて、生焼け状態だったのかもしれません。
鉄オタゆえに、「オシ」活動ですね.......失礼いたしました。
地獄の年越し?ああ、そうでしょうね。放送する側にとってはね!
視聴者はもう別にテレビを見なくても良いんですから、地獄じゃありませんね。
早いですね
もう1年終わりですね。
来年こそは!の繰り返しですけどね。
年賀状は、新年の挨拶メール・LINEに置き換わったのかもですね。
正月0時から「あけおめ」「ことよろ」でいいのではないでしょうか?
年賀状は年始の挨拶回りの代わりですし。
なんとも寂しい気もしますが・・・。
見る見ないは別として
年末の視聴率予想は楽しみです。
紅白は25%割るのか?
野球は20%超えるのか?
孤独のグルメはやるのか?
大晦日は酒を飲みながら怠惰に過ごします・・・
年越しの15分前から、映画『ブルースブラザーズ』をやるそうです。
(NHKだっけな)
あまたの法律違反をやらかします。
(リーガルなんぼのもんじゃい)
ハーケンクロイツばんばん出ます。
(ポリコレなんぼのもんじゃい)
モチの論でそういうのを推奨してる訳じゃなくて、軽やかに茶化して笑い飛ばしている作品です。
喫煙シーンや自転車2人乗りがオンエアできないとか、そんなもん
「誰も見なくなって当たり前」
の自業自得な今の大手メディアなんか放っておいて、家族団らんに推奨いたしますですよ。
昔の日本には、一体いつの頃からかは知りませんが、年越しの神様に象徴されるように新年は神聖なものという考えがあったと思います。
それが毛唐共の習慣に毒されてクリスマスやハロウィンにはどんちゃん騒ぎをするわ(本家のクリスマスは今でも神聖で、静かに家族と過ごすそうですが)、一方の新年は単に年号の数字が1つ上がるだけという悪しき考えが広まったのが、年賀状の減少も新年の番組が廃れてきた等の根底にある原因であると思っております。
うーん、ちょっと牽強付会気味で申し訳ございません。今日は疲れておりまして。。。