先日も当ウェブサイトで取り上げたとおり、エビデンスを否定するような記事が大手全国紙である朝日新聞に掲載されました。これについて冷静に考えていくと、「エビデンス」を「証拠」と置き換えてみれば、「僕は株式会社朝日新聞社に1兆円貸しているから、今すぐ返せ!証拠はないけど。」という主張すら成り立ってしまうかもしれません。ただ、ここで重要なことは、「なぜ」、こんな主張が出て来るのか、という理由ではないでしょうか。
目次
エビデンスがないと駄目ですか?
先日の『新聞がエビデンスを否定するとき』では、朝日新聞デジタル(日本語版)が10月31日付で配信した、『「エビデンス」がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは』という記事について、話題として取り上げてみました。
新聞記事が一般人からエビデンス付きで論破されることが増えてきたように思えます。こうしたなかで、大手全国紙の一角を占める朝日新聞に、「エビデンス重視の世の中」にあって、「数値がすくい取れない真理」に関する記事が掲載されたようです。「エビデンスを重視しない研究」をなさるのは自由ですが、非常に残念ながら、それらの「研究」が後日、科学的な検証に耐え得るかどうかについては、まったく別の論点でしょう。科学とは検証可能性科学とは、いったいなにか。これにはさまざまな説明があろうかと思いますが、おそらく多くの... 新聞がエビデンスを否定するとき - 新宿会計士の政治経済評論 |
「エビデンス」がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは
―――2023年10月31日 17時30分付 朝日新聞デジタル日本語版より
リンク先は『客観性の落とし穴』という書籍を執筆した教授に対するインタビューですが、有料会員でないと全文を読むことができませんが、無料版で読める部分に限定すると、こんな趣旨の内容が書かれています。
著書は『社会の動きだけでなく人の気持ちも数値化していった結果、失われたものがあるのではないか』というテーマの書籍。SNSでも、データを持ち出し、自分の気に入らない投稿を批判するような書き込みが目に付く
著者の研究では数値的な証拠は積み上げない。個人のそれぞれの経験のなかにも、普遍的な事実はあるはず。数値的なエビデンスや客観性がとる視点とは逆向きの視点の置き方だ
大学には公費が支給されているのだが…
この点、繰り返しになりますが、日本には学問の自由、言論の自由がありますので、いかなるアプローチでいかなる研究をしようが、それはその方の自由です。
ただし、学問の自由は「批判を受けない自由」、ではありません。
おかしな言論、おかしな研究に対しては、相応の批判が寄せられることについては甘受しなければなりませんし、エビデンスの裏付けのないものは、こうした批判に耐えられない可能性があることもまた間違いありません。
しかも、一般に多くの大学では何らかの形で公費が投じられています。国立大学の場合は独立行政法人として国費が直接に投じられていますし、私立大学の場合は私学振興助成法に基づき、教育経費の最大半額が公費から助成されています。
つまり、日本の大学で教授を務めている方は、自身の研究内容に関し、納税者である国民に対して本来、説明責任を負っていると考えるべきでしょうし、一部の教授らがその説明責任をまったく果たしている気配がない点については、大変に大きな問題でしょう。
「エビデンス」ではなく「証拠」という言葉を使うと…!?
さて、こうしたなかで、この記事はやはり、ネット上でも多くの人が反応を示したようです。
ある人は、「エビデンス」という外来語ではなく、「証拠」という日本語に置き換えて、記事タイトルを『「証拠」がないと駄目ですか?数値がすくい取れない真理とは』、と読み替えたようです。
なるほど、「証拠がないと駄目ですか?」と読み替えると、受ける印象はさらに強烈です。極端な話、証拠がないのにものごとを主張するというのは、自身にとっての強烈なブーメランとなる可能性があることがわかるからです。たとえば、こんな具合に、です。
「僕は先日、株式会社朝日新聞社に1兆円の現金を貸しました。早く返してください。証拠?ありませんよ、そんなもん。証拠がないと駄目ですか?」
ただ、この「証拠がないと駄目ですか?」と敷衍(ふえん)していくと、これはそのまま新聞業界全体がSNSなどのネット空間に抱いている不満とも関わって来ている、という可能性はありそうです。
考えてみれば、インターネットが普及し、X(旧ツイッター)などのSNS、個人のブログサイト、ウェブ評論サイトなどにおいては、なにか主張をする際にはその「証拠」を出すことが厳格に求められます。
なぜでしょうか。
その理由は簡単で、そのウェブサイト、そのアカウントの主が何者なのかがわからないわけですから、読者としては、そこに書かれている内容だけで、その議論の妥当性を判断しなければならないからです。
これに対し、新聞、テレビといった既存メディアの場合だと、「これだけ大きな新聞が報じているんだから(間違いない)」、「これだけ大きなテレビ局が報じているんだから(間違いない)」、といった具合に、「報じている内容」ではなく、「誰が報じたか」によって情報が正しいかどうかが判断される、という特徴があります。
(いや、「特徴があります」、ではなく、「特徴がありました」、と過去形にすべきなのかもしれませんが…。)
新聞には証拠なしに断言する記述が多すぎる
実際、新聞記事などを読んでいると、議論にエビデンス(≒証拠)が示されていないことも多く、また、社説、論説などを読んでいると、「なぜ唐突にその結論が出て来るのか?」と、思わずズッコケてしまうことも少なくありません。
つい最近、当ウェブサイトで取り上げた事例でいえば、たとえば『中途半端?経済対策閣議決定へ…解散総選挙はどうなる』で指摘したとおり、産経ニュースに2日付で掲載された次の記事では、文章の途中で唐突に、記事執筆者の主観に基づくと思われる記述が混ぜ込まれていました。
経済対策17兆円、夕に決定 政府与党が最終調整 減税で家計支援
―――2023/11/2 08:27付 産経ニュースより
記事は政府の経済対策に関するものですが、財源として国債増発が充てられる、などと言いたかったのか、唐突にこんな記述が出てきたのです。
「国の借金となる国債の増発は避けられない見通しで、財政は一段と悪化する」
そもそも現在の財政状況に照らし、税収が過去最大規模となる一方、予算が使いきれずに余りまくっているという現実がありますが、こうした状況を踏まえると、なぜ「国債増発は避けられない」となるのか、そしてなぜ「財政が一段と悪化する」と決めつけているのか、理解に苦しみます。
というよりも、そもそも「国の借金」なる概念は存在しませんし、「財政が悪化する」という表現には、「悪化した財政は立て直さなければならない」という印象を読者に与えかねないという意味で、大変に不適切な記述と断じざるを得ません。
つまり、どの新聞に限らず、エビデンス付きの文章を読むのに慣れた人にとっては、「記事を読んでいて、あまりにも唐突過ぎて思考停止してしまう」という記事が多いことは間違いなさそうです。
新聞にエビデンスが求められなかった理由
このように考えていけば、新聞記者が「エビデンス?ねーよ、そんなもん」(仮)などと叫びたくなる理由も、何となく解明できるかもしれません。インターネットが出現する以前なら、「新聞」というだけで読者からは自動的に信頼されていて、記事を書く際にエビデンスなど求められなかったからです。
また、エビデンスのなさ、記述の不正確さなどについて、新聞社が批判を受けたとしても、そうした批判が表に出て来る可能性は、そこまで高くなかったのです。ネット普及以前だと、そもそも新聞社を批判する意見を世に問う手段が限られていたからです(『ツイッターで「手紙リレー」による新聞社批判が爆速化』等参照)。
新聞社にとっては、自社が配信した記事に批判が届いたとしても、そうした批判を握りつぶしていれば良かったのかもしれません(それでもごくまれには、「傷ついた珊瑚」という捏造が発覚する、といった事件も発生していたようですが…)。
それがネットの出現により、エビデンスを欠いた記事がネット上で批判にさらされるようになり、「批判を握りつぶす」が通用しなくなったのではないでしょうか。
こうしたなか、複数の新聞記者・ジャーナリストらは、現在のネット空間にはある種の「息苦しさ」がある、「報道の自由が制限されている」、などと述べることもあるようですが、その「息苦しさ」の正体とは、記事に対し、いちいち説明責任を果たすことが求められるようになったことではないでしょうか。
エビデンスが求められる社会こそ、むしろとても健全
いずれにせよ、もしも「エビデンスなしに何を主張しても良い」ということが罷り通るのであれば、そんな社会はもはや自由・民主主義社会でも法治国家でもなんでもありません。極端な話、権力者が「お前は気に入らない」と宣言すれば、その故人を恣意的に排除できてしまう社会になるかもしれないからです。
現代の北朝鮮などがその典型例ですが、それだけではありません。
冷静に考えてみると、ネットが出現する以前の日本だって、「新聞社」「テレビ局」という「権力者様」を怒らせれば、その人はその「権力者様」の「報道の自由」あるいは「報道しない自由」に名を借りた絶対権力によって葬り去られていたのかもしれません。
世の中の主張にすべてエビデンスが求められる時代というのは、理不尽な理由で個人が社会から葬られたりしないということを意味しており、それは同時に、「報道機関が確たる証拠なしに印象操作だけで特定個人(たとえば政治家など)を葬り去る」ということができなくなったことを意味しているのではないでしょうか。
「エビデンスが求められる社会」は、そうでない社会と比べ、少なくとも、証拠もなしに決めつけだけで葬り去られるような社会よりは遥かにまともではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
View Comments (31)
毎度、ばかばかしいお話しを。
新聞業界:「エビデンスは我々の都合に忖度してくれない」
これって、笑い話ですよね。
毎度、ばかばかしいお話しを。
マスゴミ:「エビデンスなど確認していたら、締め切りに間に合わない」
確かにSNSの投稿には、締め切りはありませんから。
素朴な疑問ですけど、新聞社はエビデンスを確認することと、新聞他社に抜かれないこと、または自分のところだけが報道しないことを避けることの、どれを優先するのでしょうか。(サラリーマンの悲哀と言えば、それまでですが)
根拠よりコンギョ。情報戦はとにもかくにも速度が重要です。
フェイクニュースが広がるスピードは、真実の報道が広がるスピードよりはるかに速い、ということでしょうか。
蛇足ですが、マスゴミがフェイクニュースを拡散させてしまった場合の(最終的な)デメリットが、耐えきれなくなるほど大きくなければ、この傾向は変わらないでしょう。
「報道しない自由」にはエビデンスなんて必要ないのだから。
「証拠がないと駄目ですか?」
「おーん、そらそうよ、はっきり言うて」
ちょっと意味が判らないのですが、新聞が週刊誌みたいになってはダメですか?、ということでしょうか?。
それとも、訳の判らない論調の韓国の新聞みたいになってはダメですか?、ということでしょうか?。
このような著作物を「ノンフィクション」とすることでしょうか?。
当方の感覚では「フィクション」なのですが。
実際に読んだ訳ではないので書籍紹介を読んでと以下の出演番組を視聴して、の感覚ですが。
鈴木エイト「竹田恒泰氏、門田隆将氏の論説は無意味だ」短絡的な論理の展開は単純な人ほど賛同する…『そこまで言って委員会NP』言い残し
https://news.yahoo.co.jp/articles/8c3c21b8c91ccb5322073ebedceb46d428a3d7ae
端的に言えば、駄目でしょう。
新聞含むマスメディアは法的に優遇されていますが、優遇されている以上、それ相応の義務を負うのが本来のあり様ですし、法律にもその旨が明記されています。しかもマスメディア自身も「信頼のおける情報源」であると喧伝しているのです。であればその義務を果たしていることを国民に対して明確に示す義務があるのです。それを遂行するたまに必要なもの、それがエビデンスの開示なのです。
返信ありがとうございます。
そうですよね。エビデンス不要を主張するなら、朝日新聞から「日刊アサヒ」等に改名して、新聞の名称は捨てるべきです。
因みに、韓国の新聞発行部数を調べてみたら、591万部(2019年)と以外に少ない。Yahooニュースでは韓国新聞記事を目にするので以外でした。
世界主要国・地域の有料日刊紙の発行部数
https://www.pressnet.or.jp/data/circulation/circulation04.html
そんな事を言ってるからオールドメディアの信頼性は低下し、発行部数や売上は減っていくのです。
オールドメディアのくだらない禅問答に付き合うほど、我々は暇も金もありません。
記者:新宿鍋のエッセンスをお聞かせください。
新宿:数字に裏づけられた「海老でんす・・。」
例えば中国では、外国人も中国人も突然逮捕されるという事態が起こります。
それは中国当局、もしくは中国共産党がスパイかもしれないという疑いをかけたためだと言われています。
のちに解放された人たちの証言を調べますと、その疑いには特に根拠はなく、誰かがそう思い込んだから逮捕されるに至ったというもののようです。
つまりエビデンスなし。
エビデンスがいらない社会、それはあなたやその家族が急に逮捕される社会かもしれませんね。
それを望む朝日新聞…法治国家から人治国家へ日本を変えたいんでしょうか。
あ、元からだったか。
だから、新聞の信用低下に拍車がかかる。エビデンスの重要性が理解できない新聞屋は淘汰されていく。ネットの普及で速報性、信憑性、みんなの考えの掲載が格段に増している。紙、インク、広告業界も新しい形態を考えて行かないと生き残れない。もっとも朝日、毎日、東京、中日、沖縄タイムズ、日本経済新聞など反日勢力は、いの一番に消えていく。テレビ業界も同様、安閑としてはいられない。
新聞社がエビデンスないとだめですか?、とか絶対言ったらだめだろ!
>>>記事に対し、いちいち説明責任を果たすことが求められるようになったことではないでしょうか。
はい。私もブログ主と同意見ですね。説明出来ないから圧力だと感じるんですよ。
>新聞社がエビデンスないとだめですか?、とか絶対言ったらだめだろ!
その通り。
「それを言っちゃあおしめぇーよ」
「エビデンス」とは「客観的な事実情報」のことであり、客観的な事実情報は、誰にとっても同じ内容となる情報のことなので、「エビデンス」は、すべての人に対して完全に公平で、等しく誤りのない正しい価値を提供するものです。
したがって、「エビデンス」は適正な考察を進めるにあたっての土台となることが可能ですし、「エビデンス」を基にして議論を行う限り、議論する者同士の間において、完全に対等な関係性を確保することが可能となります。
これらを踏まえて、「エビデンス」を否定する、ということが何を意味するのかを考えれば、それはすなわち、公平で正しい価値感を否定することであり、適正な考察を行うことを否定することであり、対等な立場で議論を戦わせることを否定することである、ということができるかと思います。
こう考えてくると、新聞業界がエビデンスを嫌う姿勢というのは、新聞に対して期待されている役割をかなり根本的なところで否定する態度であると言えると思います。言い換えれば、新聞業界は、読者に対して正しい情報を提供する気もなく、偏向した自社の見解を全力で垂れ流す気満々であり、読者ごとき下々の奴らのクレームや意見に耳を貸す気はない、と宣言しているのも同然であり、こんな戯けた業界に存在価値はないと思いますので、早々に絶滅してほしいと思う次第であります。
エビデンスを嫌うないし無視するマスコミは、国際原子力機関(IAEA)が科学的に調査し安全であると認定したALPS処理水を、汚染水などと言いがかりをつけて嫌がらせをする中国や韓国などと同じ種類の人間なのでしょうね。
こんなマスコミに振り回されている政治も情けないですが。