新聞社やテレビ局といった責任あるマスコミが権威を持ち、有権者を導いていかねばならない――。こんな発想を、今から四半世紀前に言い放った人物がいました。本稿は当ウェブサイトにしては少し珍しく、ちょっとした「小説」風にまとめてみましょう。
目次
ちょっとした小説風に
本稿は、普段の当ウェブサイトの体裁とは少し変えて、ちょっとした「小説風」にしてお送りしたいと思います。
とある大学生の卒論執筆体験
卒論にいそしむ多忙な日々
僕は都内の●●大学法学部に通う学生だ。もう4年生で、幸いながら就活もだいたいうまくいっており、この調子でいけば希望する会社からの内々定ももらった。ただ、卒業に必要な単位の取得はあらかた終わっているが、僕が通う大学ではゼミで卒論を出す必要がある。現在、その卒論を書き上げるのに忙しい日々だ。
そんな僕が卒論に選んだテーマは、「マスコミ報道が有権者の政治的意思決定に与える影響」。
差し当たっては多忙な時間の合間を縫うように図書館に通い、新聞やテレビの歴史を調べたり、さまざまな統計データを調べたりしている。大学の電算センターにある、最近話題の「パソコン」ってやつを使い、「ロータス1-2-3」と呼ばれる表計算ソフトでこれらのデータを入力するのが日課だ。
また、テーマがテーマだけに、図書館だけではどうしても資料が足りない。僕はその「パソコン」や「ワークステーション」を使い、最近、うちの大学にも実装された「インターネット」ってやつを使って、政府のホームページを調べたり、他大学の友達と「eメール」という仕組みで情報交換をしたりしている。
マスコミが日本の権力者?
それはさておき、僕の長年の疑問は、こうだ。
現在の日本では、「大手マスコミ」と呼ばれる新聞やテレビの報道が僕たち有権者の投票行動に影響を与えており、これだとまるでマスコミが事実上の「権力者」みたいにみえる。
でも、マスコミについて調べてみると、新聞社にしてもテレビ局にしても通信社にしても、非常に少ない数の会社が日本の情報を事実上独占して配信している。これらの会社は自由経済競争で勝ち残ったわけじゃなく、戦前の体制をそのまま引き継いだだけだ。
それに、新聞は再販価格維持制度や宅配制度、テレビは電波利用権、と、それぞれ既得権益でがっちりと守られてしまっている。新聞、テレビの新規参入は難しいし、倒産もしないという仕組みだ。
でも、僕たちがこれまで習ってきたとおり、日本は自由・民主主義国だ、マスコミだって本当ならば自由経済競争で新規参入や倒産などが発生していないとおかしいじゃないか――。
だから、この長年の疑問を僕は卒論という形で調べてみようと思った、というわけだ。
先輩風を吹かせたAの登場
こうしたなか、卒論のテーマであるマスコミの歴史について調べていた矢先、ゼミの同学年にいるAがある日、いきなり僕に話しかけてきた。
このAは、浪人して大学に入ったらしく、また、留年もしているので、同じ4年生だけれども、僕たちよりも2~3歳は年上だ。ゼミでも僕たちの「兄貴」を自称していて、先輩風をふかしてくるから、正直あまり得意じゃない。そんなAは僕の卒論のテーマに関心があるらしく、こんなことを言ってきたのだ。
「おい、お前が調べているマスコミ論、あれ考え方がおかしいぞ。マスコミは社会にも大きな影響を与えるんだ。だから、マスコミはちゃんとした社会的権威がないといけないし、自由経済競争に晒しちゃいけないんだ。マスコミは自由経済競争の原理から離れて、有権者に正しい情報を伝える使命を帯びているんだ」。
普段の僕なら、Aのことを相手にしなかっただろう。
Aはもう4年生だというのに卒業に必要な単位を取っておらず、就活もしていないと公言している。風のうわさによると「司法試験を受験する」だとか、「新聞社の入社試験を受ける」だとか言っているらしい。
ただ、このAはどこか世捨て人みたいな雰囲気も漂わせており、ゼミ仲間にもときどき妙な議論を吹っかけて来るのだが、ハッキリ言って頭が悪いので、議論しても時間の無駄だからだ。
カチンときた僕は…
しかし、この日は違った。
「マスコミが自由経済競争に晒されていない」というのが僕の卒論の問題意識だから、そこを否定されるのは腹が立つ。カチンときた僕は、珍しくAにこう言い返した。
「それって、マスコミが常に正しい情報を僕たちに教えてくれるって言いたいんですか?そんなこと、だれがどう保証するんですか?」
じつは、僕は卒論を書くときに、数年前の政権交代についての状況を調べていた。マスコミはあまり大々的に報じていないが、どうやらとあるテレビ局の報道局長が非自民連立政権を誕生させるべく、報道姿勢を捻じ曲げるような方針を打ち出していた疑惑が持ち上がっていることを把握していた。
Aはたぶん、この事件のことを知らないのだろう。
すると、Aは僕にこう言い放った。
「お前、マスコミってのは、情報を選り分けるプロなんだよ。新聞社やテレビ局に入るためには勉強もたくさんしなきゃいけないし、マスコミに入れるって時点でその人にはお前みたいな一般人よりも賢いんだよ」。
「情報っていうのは自由経済競争とは別次元のところでちゃんと資格を持っている人が取り扱わないといけない。マスコミにはマスコミとしての責任がある。社会に出たこともないくせに、マスコミの情報収集力を舐めるなよ」。
僕はもう一度、こう言い返した。
「でもAさん。日本のマスコミって、何社あるか知っていますか?テレビ局は民放が在京キー局5局とNHK、新聞は全国紙5つ、ブロック紙4つ、それに2つの通信社。あとは独立系の地方局や地方紙、地域紙、それにラジオ局。しかも民放テレビと新聞社は同じ資本のクロスオーナーシップですよ。」
「諸外国の事例で調べたら、新聞社もテレビ局もたくさんある。人口で比べたら、日本のマスコミの数はとっても少ない。そして新聞社やテレビ局が誤報をしても、僕たち一般人にはそれを見抜く手段がないんですよ。何年か前、新聞社が捏造報道をして問題になったばっかりでしょう?」
そのうえで、こう畳みかけた。
「Aさんの理屈だと、マスコミは絶対に間違えないってことになるけど、それって本当に正しいんですか?」
するとAはいきなり苦虫を噛み潰したような顔になり、こう言い放った。
「お前は理屈っぽいんだよ。何が『数字』だ。世の中は数字でわかるほど単純じゃない。それにマスコミをバカにするのは大概にしといた方が良い。お前の就職先の●●社の入社試験は誰でも受かる。マスコミの入社試験は本当に賢いヤツしか受からないんだ」。
そして、Aは「社会に出たことがないお前にはわからないんだよ」、と捨て台詞を吐いて、教室から出て行った。
このやり取りを見ていたゼミの友達は、「災難だったな」、と声をかけてくれた。<了>
後日談
事件自体は実在
上記はフィクションです。「僕」が何者であるかについては明かしませんが、架空の人物と思っていただいて結構です。山手線の駅名を冠する怪しげな自称会計士が上記エピソードの誰に相当するか(あるいは相当しないか)についてもご想像にお任せします。
ですが、この文章に出て来る「テレビ局の偏向報道事件」、「新聞社の捏造報道事件」、「数年前の政権交代」といったエピソードは実際のものです。「テレビ局の偏向報道事件」はいわゆる「椿事件」、「数年前の政権交代」は1993年の自民党下野、「新聞社の捏造報道事件」は1989年の「珊瑚捏造報道事件」のことです。
なにより、「A」のモデルとなった人物は実在します。
万が一、本人が当ウェブサイトを読んでいたら困りますので、詳細については敢えて記述しませんが、大学4年生の時点で「大学に入学するまでに浪人した」、「大学を留年している」、「就活をしていなかった」という部分は事実ですが、それだけでありません。
上記文章の「僕」は大学を無事に卒業して就職したのですが、風のうわさによるとこの「A」のモデルとなった人物は単位が足りなくて留年し、翌年に新聞社の入社試験を受けたもののそれに合格できず、さらに司法試験を受験すると称し、それっきり消息不明になってしまったそうです。
「社会に出たことがないのに」云々の部分は、A自身の自己紹介ではないか、という気がしてなりませんが…。
ちなみに「頭が悪い人」は得てして現実の数字を無視する傾向にあるというのは、この人物の事例からも明らかでしょう。上記架空の「僕」が出してきた数字に反論することもできず、それどころか自分自身が大学を卒業するのに必要な単位数も計算できていなかったのですから。
「責任あるマスコミが権威を持つ」…どこかで聞いたような?
ただ、この人物が言い放った、「マスコミの責任」という表現は、奇しくも当ウェブサイトの『ネット化で「責任あるマスコミが権威持つ社会」が終焉』でも言及した、いわゆる「責任あるマスコミが権威を持つ社会」という珍論とも相通じるものがあります。
今から12年前、とある人が、「ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が情報発信する楽しみを覚えた」と警告したうえで、「責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」と提言しました。実際には、その「責任あるマスコミが権威を持つ社会」とは真逆の社会が実現しつつあります。というよりも、そもそもマスコミが正しい情報を発信してきたのでしょうか?ツイッターの新たな機能の実装により、その検証が、これからさらに進むかもしれません。メディアの偏向報道史「責任あるマスコミが権威を持て」山... ネット化で「責任あるマスコミが権威持つ社会」が終焉 - 新宿会計士の政治経済評論 |
上記文章に出てきた架空の人物である「僕」が卒論のテーマに選んだとおり、現代日本の問題点のひとつは、自由経済競争を勝ち抜いたわけでもない新聞社、テレビ局を中心とするマスコミが情報を独占し、それによって私たち有権者の投票行動を歪めてきたことにあります。
ただ、昨日の『芸能事務所の性加害問題はテレビ局の経営問題に発展へ』などでも指摘したとおり、あるいは以前の『事実なら主要紙で初:北海道新聞が夕刊から完全撤退か』などでも議論したとおり、新聞、テレビを中心とするオールドメディアは現在、急激に衰退しています。
その理由はもちろん、インターネット環境の普及です。
とくに新聞に関しては、夕刊は早ければあと数年で、主要紙の朝刊も下手をしたら10年以内にその寿命を終える可能性が濃厚であり、地上波テレビもこれに続くかもしれません。
その構造が、インターネットの出現によって揺らいでいる、というわけです。
その意味で、この「僕」と「A」の四半世紀前の会話は、ずいぶんと時代を先取りしていたのでしょう。
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マスメディアなどのいわゆる言論機関が自らの言説に責任を持つというのは、結構なことですし、ある意味当然のことでもあります。でも、そんな言論機関が「権威」である必然性などさらさらありません。「ご託宣」をありがたく拝聴しろなどというのは論外です。
でも、翻って見れば、彼らが「権威」を持ってしまった、あるいは持っていると錯覚させてしまうに至ったのは、実際に彼らの言説が世論を動かすことができた、あるいはできたように見えたということが過去に幾度もあったからです。その意味では、言論機関に「権威」を与えてしまったのは消費者自身であるとも言えるでしょう。「〇〇新聞の言っていることは正しい」→「○○新聞の記事は信頼できる」→「信頼できる○○新聞が言っているのだから正しいに違いない」というわけです。実は、この展開には論理の転倒があり、最終的に判断放棄に至っているのですが、少なからぬ人はそれに気づきません。そしてそのような錯覚を多くの人に起こさせたことこそが、言論機関の「権威」の正体です。なお、上記展開は、「○○新聞の言うことは間違っている」から始まる逆パターンもあり、それもまた一種の錯覚であることにご注意ください。判断放棄という点では一緒ですので。
さて、言論機関の「権威」とやらが、以前と較べて揺らいでいることは事実でしょう。そしてその一因がインターネットの普及によるものであることもその通りだと思います。しかしながら、今なお消滅したわけではありませんし、仮に既存言論機関が消滅したとしても、「権威ある言説」を求める人がいなくなることもないだろうと思います。ブログ主様が提示された寓話に引っかけて言えば、「オレは自分で調べたり考えたりなどと言う面倒なことはしたくない。だから、(誰でもいいから)無条件に信頼できる情報を提供してほしい」と言う人が、けしていなくなるとも思いませんし、実は相当数に上るのではないかとも思っています。これまではその「誰でもいいから」の部分に既存言論機関があったのですが、その「権威」が揺らいだり、または消滅した場合、彼らはどうするのかというと、一度考えることを止めてしまった、もしくはそもそも一度も考えたことがなかった人たちが、突然考え始めることなど期待できません。せいぜい、言論機関に替わる何かに縋りつくくらいだと思います。幸か不幸か、それこそインターネット上にはその「何か」に相当するものがたくさん転がってますので、彼らの心の平安を保つことはそれほど難しくないでしょう。
あえて極論すれば、「頭の悪い人」にとっては、次第にキビシイ時代になりつつあるということであり、同時に「頭の良い悪い人」にとっては、煽動が容易になりつつあるということなのではないかと思います。
龍 さま
>「頭の良い(悪い)人」にとっては、煽動が容易になりつつあるということなのではないかと思います。
仰る通りですね。特に実生活と分離して活動できるという意味で抑止力が効きにくい。
良い方向に出ればよいのですが、問題になるのは、お説の「頭の良い人」は大悪党、「頭の悪い人」は無知蒙昧と言うべき存在です。この輩は何時の世でも存在しますし、この関係はインターネットの無い時代から、現在まで、極左、ベ平連、オウム、統一教会、9条教、有象無象の新興宗教と枚挙に暇が有りません。
ここで「頭の良し悪し」はある領域に限定されての話で、大学・院?生でもオウム信者がいた事からも単純な無知蒙昧とは違うところが問題。
義務教育では、読み書きソロバンの次に”英語・プログラミングではなく、情報リテラシーと心の平静の保ち方”を教えて欲しいものです。
科学や芸術、文学で圧倒的なドイツでさえヒトラーが現れたのですから、扇動には要注意ですね。
日本も戦前はマスコミが戦争を煽りましたので、やはりマスコミは信用できませんね。
今はネットがあるのが救いですね。
はるちゃん様
>今はネットがあるのが救いですね
これはどうなんでしょうね。
バーバラ・F・ウォルターという人が書いた「How civil wars start:どのようにして内戦は始まるのか」という本があるんですが、彼女は内戦というものは、完全な独裁国家でも、十分にデモクラシーが定着した国家でも起きないことを、過去の事例を元に論じています。
一方の極端から民主化の方向へ進んだ、あるいはその劣化によって強権的傾向が強まった、「アノクラシー」状態にある国家で内戦の危険が高まることを、アイルランド紛争、ユーゴスラビア紛争、ジャスミン革命後の中東諸国の混乱など、過去の事例の分析から導き出しているんですが、そのような状態にあれば必ず内戦が起きるわけではないことも、同時に指摘しています。
彼女が何を問題にしているかといったら、それはSNSの普及、とくにフェイスブックを槍玉に挙げています。内戦に至る前の数年間、こうしたプラットフォーム上で、国内の異なった集団に対するフェイクとヘイトが入り混じった投稿が飛び交い、それが少数の過激分子から次第に社会に浸透していく過程を語り、遂にはほとんどの国民が自らが対立するどちらの集団に忠誠を誓うか明らかにするよう周囲から迫られるに至る。そんな様が活写されています。
この本の主眼は、今アメリカがそういう状態に急速に進みつつあることを警告するところに置かれているんですが、その主役をトランプと彼の熱狂的支持者であるとする、極めて党派性の強い主張なので、人によっては全く受入れられないということはあると思いますが、わたしはこのネットの危険の部分については、やはり十分傾聴すべきではないかと思っています。
結局、既存マスコミであろうが、新興のネットであろうが、受け手のわれわれの良識こそが試される、それがこの情報社会を生きる宿命ではないかと思います。
> 今はネットがあるのが救いですね。
これがちっとも救いにはならないのではないかという危惧が拙文の趣旨でもあります。
既存言論機関が衰退もしくは消滅したとしても、そのことによって、俄かに自分で調べ、自分の頭で考えようとする人が増えるとは思えません。はるちゃん様のように、ご自分でいろいろと調べ、自分の頭で考え、自分の言葉で発信しようとする方であれば、さほど心配は不要でしょう。でも、数多のそうでない人たち、その中でも何の知見も能力もないくせにエラソーにしたがる、あるいはカシコソーに見られたいと切望する人たちにとっては(心当たりありませんか?)、既存言論機関の消滅は、コピペの元ネタを失ってしまうわけで、「なんだかよくわからないけど、いかにもエラソーに、"世界の真実"とやらを自分だけが知っている」などと嘯く言説にコロッと引っかかる可能性が十分にあります。なにせネット上にはそんな言説を垂れ流すサイトがいくらでもありますから。
# このように書くと、「じゃあ、お前はどうなんだ」という突っ込みが
# 来そうですが、「そうかもしれないね。それで?」と返しますので、
# 悪しからず。
「〇〇新聞が」「〇〇ブログが」「〇〇さんが」「みんなが」。
何を言っているかではなく、誰が言っているかで判断するのは、ただの権威論法や多数派論証でしかありません。
でも、不思議なことにこういう事を語る人達ですら、根拠として権威論法や多数派論証を持ち出している事例をよく見掛けます。実に、論語読みの論語知らずです。
ちなみに、龍さんのことではありません。
確かに、インターネットには一次情報(公報や歴史史料など)のような、事実と扱えるソースはあります。
なお、個人的な見解としてはマスコミ報道は二次・三次~の情報です。
しかし、そんな一次情報を使って語る人がどれだけいるか? 一次情報を使っているか判断出来ている人がどれだけいるか? 一次情報を必要十分に、飛躍や論点ズレなく検証している(出来る)人がどれだけいるか?
それを考えると、暗澹たる気分になりますね。
ちなみに、出来ていない人達の場合ほど、当人の中では「出来ている事になっている」ようなので、実際に反証を持ち出して反論しても、詭弁を返してくるだけで無駄であり。改善も期待出来ないと思っています。
日本の報道機関は、まさにマスゴミ状態ですね。
朝日新聞、毎日深部は特に酷く、NHKも中国もので稼いでいるので、中国忖度が酷いと思います。
新聞もテレビも公開された読者アンケートすら無い事が問題だと感じています。
意図的な世論調査は信頼を落としていますし、番組や記事に対して批判を受け付けない事も問題だと思います。
読者や視聴者の意見を公開できるようにすれば、左傾化した活動家ばかりを見なくて済むだろうにと思います。
代表選手はサンデーモーニングの関口宏や青木理です。こんな変質者がテレビで出ているようでは日本の将来はありません。
A氏がここまでマスコミを信仰する理由は何だったのでしょう。
賢い(と自称する)人が、上から目線で批判すること(論理的根拠なし)にあこがれていたのでしょうか?
>情報っていうのは自由経済競争とは別次元のところでちゃんと資格を持っている人が取り扱わないといけない
記者クラブ(法的根拠なし)は「資格」ではないと思いますが。。
記者クラブは,試験の点数の稼ぎ方と相手を言いくるめる文言の使い方は熟知しているという意味でならば大変に頭の良い(但し大局観に乏しい)人々(官僚)が,自分は頭が良いと勘違いしている頭の悪い人々(記者)を閉じ込めて自在に操るための入れ物ですからね.
程度の低い対話だな。が最初の印象。なによりも、年上のAくん。ご高説を垂れる前に自身の状況を理解する必要がある。社会にでたこともない、、この部分は自身も云えることでA君自体が先に社会にでなくては行けないのではないだろうか。本欄でも過日、手本を示すことなく、みんなから総攻撃をくらった方がいたがあれと似たようなものだ。自分を上にして人を見下す態度をとり見本を示さず居場所を失った。
毎度、ばかばかしいお話しを。
マスゴミ:「マスゴミにとっては数字がとれるかが重要なので、情報の信頼性を確認する能力はもっていない」
嘘の情報でも、全員が信じれば事実になる、ということでしょうか。
皆さんがA氏に突っ込んでるので、ここはあえて「僕」氏に対してなのです♪
・・・・
>この調子でいけば希望する会社からの内々定ももらった。
就活が上手く行ってるのは喜ばしいことですし、「僕」君としては内々定を貰うのは既に確定してるのかもしれませんね♪
「この調子でいけば」という語に続くのは将来への予想だと思うのです♪だから、文末は「内々定ももらえるだろう。」とした方が、文意が伝わりやすかったのかなって思います♪
社会に出るといろいろな文章を書く機会も増えると思います。そのときに、伝えたいことをきちんと伝えられるように、主語・述語の関係や時制といった基本的なところを抑えるのが大切だと思います♪
ちょっとしたことではありますが、気にかけて貰えると嬉しく思います♪
ホンマや…
クロスオーナーシップ最近知りました。
それほど親しくはなかったのですが、大学の二つ先輩で不思議な能力を持った人のことを思い出しました。
口角泡を飛ばし、胸ぐら掴まんばかりの相手に対して、まずは宥めすかしながらも、相手の些細な矛盾や齟齬を穏やかに指摘。
はぐらかしたり言い包めたりの手練手管を駆使して、結局は逆上していた相手を納得させてしまうか、君の主張にも一理は有るとまで言わしめてしまう不思議な人でした。(右翼左翼過激派新興宗教ジャンル問わず)
そして相手を瀬戸際まで追い詰めるような手法は取らない人でした。
(いやはや見習いたいものです)
女性関係は相当乱れていたようでしたが…
もしAさんがこの先輩と出会っていたなら、今頃は新聞社の論説員か弁護士として活躍しているかも知れませんネ。
マスゴミの現状は酷い物なんでしょうね。
広島県安芸高田市長と中国新聞安芸高田支局長のやり取りを見てると呆れ果てます。
アレで「支局長」なんて肩書持ってること、それを平気な顔で使ってる会社、マジヤバイw
其の安芸高田市ですが、議会もやばい状態になっているそうです。
KSL-Live!の管理人である竹本哲児氏が、YouTubeのKSLチャンネルで取り上げていますので、是非とも視聴してみて下さいませ。
安芸高田市議会バトル!石丸伸二市長「これくらい資料から読み取って」山本数博市議「まったくわからんですよ」委員長「…(無視)」
https://www.youtube.com/watch?v=wMVHOHYFYbM
【安芸高田市議会】山本数博市議が石丸市長の発言に注文「バカな質問とは侮辱だ」あっさりと委員長に却下され委員会継続
https://www.youtube.com/watch?v=6fwaLaMDMu4
【安芸高田市議会】山本数博市議「番組出演は公務?」石丸伸二市長「聞くに堪えない!市が受けたら公務!」出張旅費請求巡る不毛な議論
https://www.youtube.com/watch?v=7VEy2VPSjYI
安芸高田市議会が学級崩壊!山根温子市議の事実誤認質問に石丸市長が猛反論、私語を注意された山本数博市議は「聞きとうない」
https://www.youtube.com/watch?v=23XBQLvXEVA
中国新聞社はこんな市議会議員の味方なのですかね。
広島県人として此は恥ずかしいですよ。
続報です。
【安芸高田市】中国新聞が2カ月連続で会見から逃亡!石丸伸二市長に次の選挙での報復報道を示唆した疑惑、説明責任果たさず KSLチャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=HfcTW8wc4oc
マスメディアの信用が失墜するのも当然の流れだと思います。
架空の物語について時代背景を考察してみました。
①最近話題の「パソコン」
②「ロータス1-2-3」と呼ばれる表計算ソフト
③最近、うちの大学にも実装された「インターネット」
④「eメール」という仕組みで情報交換
⑤「1993年の自民党下野」は数年前
①肌感覚としてパソコンが一般人に広まったのは「Windows95」か「iMac」。それ以前の「Windows3.1」などはマニアの世界。となると1995年もしくは1998年。
②「ロータス」が「エクセル」とのシェア争いに負けたのは2000年前後、1990年頃は表計算ソフトといえば「ロータス1-2-3」でありワープロソフトといえば「一太郎」が一般的だったと記憶しています。となると1990年~2000年の間。
③これも①と同様ですね。一般的には「インターネット元年は1995年」とされていますので1995-1997年頃でしょうか。
④同上
⑤数年前と表現するには、1995-1996年は「2-3年前」でしょうし1997年以降でしょうか。
以上から舞台設定は1997年(の前後1年含む)と推測します。
ちなみに自分自身、卒論はPCではなく手書きでもなくワープロでした。
電話回線を使用してのパソコン通信はワープロでも出来ましたが、文系の一般学生でそんなことをしているのは皆無。理系学生の一部でPCを持っていましたが、スタンドアロンでした。
1992年に社会人となりましたが、いわゆるPC(パーソナルコンピューター)に触れたのは1995年、世間が「Windows95」で浮かれていたの時でした。
無粋な考察、失礼しました。