先日の『ホテルで無料配布される新聞は真っ暗な未来の象徴か?』には、多くのコメントを頂戴しました。あらためて自分自身の記事とコメントを読み返してみて感じたのですが、そもそも論として、現在は「報道機関」と呼ばれている組織(とくにマスコミ四媒体)が担っている社会的機能を分解してみると、じつは「マスコミ四媒体でなくても担える仕事」なのではないか、との思いが、徐々に確信に変わりつつあります。本稿では少し時事的な話題から離れ、この「脱マスコミ」について、いくつかの具体的な事例を交えつつ、もう少し根源的なところから考えてみたいと思います。
目次
久々の反響
先日、『ホテルで無料配布される新聞は真っ暗な未来の象徴か?』で、なぜか一部の新聞紙が全国各地のホテルで無料配布されているらしい、という話題を取り上げました。
この記事に対しても、読者の方々からさまざまなコメントを頂きました。
読者の方の反響などを踏まえ、あらためて考えてみると、新聞やテレビなどの従来型の媒体は、現在、インターネット上のさまざまなサービスと、正面から競争し始めているように思えます。
いや、もう少し正確にいえば、「未来のあるインターネット」が、「未来のないオールドメディア」とは無関係に発達し始めており、インターネット上のサービスが、オールドメディアが担ってきた機能を部分的に代替し始めているという事象も、すでに各所で発生しているのです。
そこで、改めてインターネットとオールドメディアとの関係について、もう少し根源的なところから考えてみたいと感じた次第です。
報道について、考えてみる
報道機関とは、何か?
「報道機関とは、何か?」――。
これは、冷静に考えてみると、なかなか面白い着眼点だと思います。
ひと昔前だと、「報道機関」とは、「通信社、新聞社、テレビ局、ラジオ局、雑誌社などのマスメディア各社」であり、また、彼らが発行する「新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などの媒体」のことを漠然と指していたのではないかと思います。
ちなみに「マスメディア」とは、マス、つまり「大衆」に向けて、効率よく情報を伝達するメディアのことであり、また、一般にマスメディアを通じて大衆に情報を伝達する行為を「マスコミュニケーション」(わが国では略して「マスコミ」)と呼ぶこともあります。
(※余談ですが、2009年の政権交代選挙のあたりから、インターネット上で自然発生したのが、「マスゴミ」という用語です。おそらく、「ゴミのような情報を流す」「取材手法がゴミのように下劣である」といった意味が含まれているのでしょうか?)
この「マスメディア」と「マスコミ」は意味が似ているためでしょうか、メディア業界でも両者は混同されているようですが、厳密には「マスメディア」が「媒体」のことであり、「マスコミ」が「情報伝達行為」のことを意味します(※ただし、当ウェブサイトは、両者を厳密に使い分けるつもりはありません)。
いずれにせよ、「報道機関とはなにか」と聞かれると、これまで多くの人々は、新聞、テレビなどに代表される「マスの媒体」(マスメディア)や、そのマスメディアを経営している母体(新聞社、テレビ局)のことを意味する、と、漠然と思っているのではないかと思います。
(※なお、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌の4つの媒体のことを、株式会社電通が公表する『2018年日本の広告費』などのレポートでは「マスコミ四媒体」と呼んでいます。)
しかし、近年、デジタルデバイスの急速な発展と通信網の拡充により、インターネット環境が日々発達するなかで、「マスコミ四媒体」、つまり、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌以外の情報伝達手段が急速に普及し始めています。
たとえば、当ウェブサイト『新宿会計士の政治経済評論』は、「マスコミ四媒体」のいずれにも該当しません。文字情報が中心であるという意味では新聞や雑誌と似ていますが、べつに当ウェブサイトは紙媒体で発行されているわけではありません。
また、最近、多くの人々がコンテンツを楽しんでいるYouTubeなどの動画サイトにしても、「動く映像または音声」という意味ではテレビ、ラジオと性質が似ていますが、これらの動画サイトはあくまでもインターネットでデータを送るという形を取っており、電波に乗せて専用チューナーで受信するという媒体ではありません。
しかし、ウェブ評論サイトやブログサイト、動画サイト、SNSなどのサイトは、「その気になれば一般大衆に向けて情報を伝達することができる」という意味では、べつに「マスコミ四媒体」と何も変わるところはありません。
ということは、「報道機関とは、マスコミ四媒体のことである」、という、これまでの漠然とした意識については、そろそろ改めなければならないのではないでしょうか。
報道とは、「客観的事実」と「主観的意見」
では、「報道」とは、いったい何でしょうか。
これも当ウェブサイトなりの独断と偏見で申し上げますが、ズバリ、「客観的事実」と「主観的意見」から構成されると考えています。
「客観的事実」とは、誰がどう報じたとしても、だいたい同じような内容になる情報のことです。たとえば、
「2019年12月20日に、イランのロウハニ大統領が日本を訪れた。」
という情報は、「客観的事実」です。
もちろん、報じる人によって
- 「令和元年12月20日に、イランのロウハニ大統領が日本にやってきた」
- 「皇紀2680年12月20日に、イラン回教共和国のハッサン・ローハニ大統領が訪日した」
- 「ヒジュラ歴1441年4月22日に、イーラーン・イスラーム共和国のハサン・ロウハーニー大統領が日本にやってきた」
という具合に、細かい表現が異なるかもしれませんが、「2019年12月20日」、「イラン大統領」、「訪日」というエッセンスは変わりません。
一方で、世の中には「絶対的に正しい意見」というものはありません。たとえば、このこの情報について、
「イランの大統領が日本にやってくるということは、イラン核開発疑惑において、日本がイランと国際社会の仲裁者としての役割を強めている格好であり、日本の国際的地位が上昇している証拠だ」
と評する人もいるかもしれませんし、
「イランの大統領が日本にやってきたとしても、どうせイランは日本を良いように利用するだけであり、日本の国際的地位が上昇しているという話ではない」
と評する人もいるかもしれません。あるいは、
「独裁者の安倍晋三は日本国民の税金を無駄に使い、イランのテロリストであるローハニを首相官邸で出迎えた」
となど述べる人もいるかもしれませんが、これらはいずれも「主観的な意見」としては立派に成り立ちますし、どの意見が正しい、間違っているというのは、一概にいえないのではないでしょうか。
(※個人的には、安倍晋三総理大臣は自民党総裁選を制し、いくつかの国政選挙で自民党が十分な議席を獲得するなどした結果、内閣総理大臣の地位に就いているのであり、日本共産党支持者などが安倍総理のことをしきりに「独裁者」と呼ぶのはおかしな話だと思います。)
そして、とても当たり前の話ですが、報道とは「客観的事実」、「主観的意見」のどちらが欠けても成立しません。
「イランのロウハニ大統領が日本を訪れた」という事実を知ることも大切ですが、「なぜ、このタイミングで、現在、ロウハニ氏が訪日したのか」という「背景」、ロウハニ氏が日本を訪れたことの日本にとっての意味、イランにとっての意味など、それに対する分析を知ることも重要だからです。
報道機関は、マスコミ四媒体に限られない
さて、以上の議論から、「報道」とは「何らかの客観的事実や、それに対する主観的な意見」のことを意味する、と考えるからば、「報道機関とは、何か?」、という問いに対しては、あえて当ウェブサイトとしての独断に基づいて、
「報道と呼ぶに値する何らかの情報を多くの人に伝えるための手段を持つ人や組織」
と答えたいと思います。
といっても、報道「機関」と述べると、どうしても「組織」というイメージが出てきてしまいます。というのも、一般に「機関」とは、何らかの働きをする「組織」、つまり、「複数の人で構成される何らかの集合体」のことを指すことが多いからです。
このようなイメージからすれば、「ひとりでウェブサイトやYouTubeのチャンネルなどを運営している人は、「組織」という条件を満たさないから、報道『機関』と名乗る資格はないのではないか?」といった疑問を持つ人も出てくるかもしれません。
しかし、この点、非常に技術的な話をすれば、会社法などの世界では、「機関」と言っても「たったひとりで運営している」という形態は存在しています(社員、株主が1人しかいない会社のことを、一般に「一人会社(いちにんがいしゃ)」と呼びます)。
そして、当ウェブサイトとしては、「何らかの情報を多くの人に伝える」という「機能」を果たすかどうかという点に着目して、たとえ1人でニュース配信などを行っている人がいたとしても、こうした機能を立派に果たしているのであれば、報道「機関」と位置付けても良いのではないかと思っています。
つまり、「報道機関」とは、「報道」と呼ぶに値するサービスを提供する能力を持った人や組織のことを広く指す、と考えても良いのではないでしょうか。
(※もっとも、その気になれば誰もが情報発信できる時代にあって、「報道と呼ぶに値するサービスを提供する能力を持った人や組織」のことを、「報道機関」と呼ぶこと自体が妥当なのかどうかについては、また別の問題であり、これについては後述します。)
誰にでもできる話
根拠があれば良い話
つまり、報道とは、「客観的事実」の部分と、それに対する報じる人・組織(つまりその報道機関)としての「主観的な意見」から成り立っていると考えるのが適切です。
そこで、自然に考えたら、
- 「絶対的に正しい客観的事実を、いかに捻じ曲げないで正確に伝えるか」
- 「絶対的に正しいとはいえない主観的意見を、どうやって説得力を持って伝えるか(あるいはいかに多様な意見を伝えるか)」
が、報道機関としての究極的な価値ではないかと思う次第です。つまり、
- 取材活動を通じて客観的な事実関係を集めて来る
- 集めた事実関係について、報道機関なりに重要性を判断する
- 現時点でわかっている事実関係をもとに、その背景などを考察する
- 考察に基づいて推論を作り、それを主観的意見として記事化する
といったプロセスを踏むことが、報道機関としての本領なのでしょう。
当然、「どの客観的事実を大きく取り上げるか」、「客観的事実に対し、どのような主観的意見を付すか」を巡っては、、さまざまな意見を持つ人がいるでしょうから、ここで大切なポイントは、
- 「いかなる情報、いかなる推論、いかなる根拠に基づいて、そう判断したのか」
です。
推理作家ではありませんが、意見が別れている問題を取り上げる場合であっても、どんなに優れたジャーナリスト、どんなに優れた評論家であっても、前提となる情報、議論を組み立てるうえでの道筋などが間違っていれば、結論がおかしくなります。
先ほど出てきた、「アベは独裁者」云々のくだりについても、多くの場合、その人・組織が最初から結論を決めつけ、重要な前提条件やさまざまな推論をすっ飛ばして議論する(あるいは結論に合致するように議論を組み立てる)からこそ、議論がハチャメチャになるのではないでしょうか。
客観的事実は、誰にでも手に入れられる時代へ?
もちろん、ここで気を付けなければならないのは、「客観的事実」の部分については、私たち一般人が気軽に手に入れられる場合と、そうでない場合がある、という点です。
たとえば、新聞社・テレビ局は、霞が関の官庁に記者クラブという独占的・排他的な組織を作り、官僚からブリーフィングペーパーをもらったり、記者クラブを拠点として官庁を徘徊し、情報を集めたりする、ということを、堂々と行っているようです(『経産省のオフィス施錠に逆ギレするマスコミ脳』参照)。
しかし、少しずつですが、こうした独占的な状況も変わり始めました。
たとえば、官庁のなかには、定例記者会見の模様を官庁自身のウェブサイトに掲載するケースも増えて来ましたし、重要な報道発表については、報道機関に対して流すのとほぼ同じタイミングで、官庁のウェブサイトにアップロードする、というケースもあります。
もちろん、いわゆる「リーク情報」の類いは、いまでも新聞、テレビ、通信社などに依存しているという側面がありますし、また、大災害などがあった場合、報道各社は被災地上空にバンバンと爆音を轟かせてヘリを飛ばすなど、救助作業を堂々と妨害しながら独自取材する能力を持っています。
しかし、こうした状況も、かなり変わり始めています。
ツイッターがその典型例ですが、事件・事故現場に偶然居合わせた人が、ツイッターに写真や動画をアップロードする、というケースも増えているのです。
たとえば、先日、福岡空港を飛び立った飛行機のエンジンが出火し、福岡空港に緊急着陸する、という事故が発生しました(幸い、けが人もおらず、無事に着陸できたようです)。この事故について、地上から目撃した人、たまたま乗り合わせた人が、その様子を動画で撮影し、ツイッターにアップロードしました。
ところが、これらのツイートに対し、
などが、判で押したように「ご無事ですか」のヒトコトもなく、ツイート主に「相互フォローとダイレクトメッセージの依頼」をしていて、いずれのツイート主もこれを断っているのが印象的です。
つまり、多くの「客観的事実」については、新聞、テレビを利用しなくても集められるという時代が、もしかしたらもうすぐそこに来ているのかもしれません。
そうなれば、かつては「報道機関」(というか、マスコミ四媒体)が独占的に担っていた、「報道」と呼ばれていた情報の配信を、個人であっても気軽に業として営むことができるようになるのではないでしょうか。
放送法の規定は、時代にそぐわない
そうなったときに、時代に合致しない規定が出て来ます。
ここで、改めてお伝えしておきたいのが、放送法第4条第1項の規定です。
放送法第4条第1項
放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
これは、「放送事業者」(つまりテレビ局やラジオ局)は、放送番組を編集する際に、4つのことがらを守る必要があるという規定です。実際に日本のテレビ局が、これらの規定を守っているかどうかについては、個人的な意見を1行ずつ書くに留め、本稿ではあえて詳しく論じません。
「公安及び善良な風俗を害していないか」
→TBSがオウム真理教に情報を流したことで生じたとされる、坂本弁護士一家殺害事件
「政治的に公平か」
→「もりかけ問題」や「桜を見る会」問題など、あきらかに特定野党の側に偏った報道
「報道は事実を曲げないでしているか」
→朝日新聞による一連の慰安婦報道が捏造であるという事実を地上波テレビ局はほとんど伝えていない
「意見対立している問題で、多くの角度から論点を明らかにしているか」
→加計学園による獣医学部開設などを巡る2017年7月の国会閉会中審査で、テレビ各社が圧倒的に多くの時間を前川喜平・元文科省事務次官(貧困調査員)の証言に割いた
日本の地上波には、全国ネットの民放局は5局しかありませんし、それに職員に1550万円という破格の人件費を支払っている、NHKという国営でも民間でもない怪しい放送局が1つあるだけで、これらのメディアの論調が「多様である」とはお世辞にも言えないでしょう。
ただ、「政治的に公平」、「多様な報道を」といわれても、新規参入が一切ない世界で、のんべんだらり、漫然と過ごしてきたテレビ局の「中の人」に、そこまでの能力があるのかという問題はあるでしょう。
個人的には、この放送法第4条第1項の規定は全廃し、そのかわり、NHKの民営化または廃局を伴った電波オークションなどにより、放送局事業への参入を全面的に自由化した方が早いのではないかと思います。
新時代の情報発信
「報道」という枠にとらわれない!
ただし、先ほどから申し上げているとおり、「報道機関」、あるいは「報道」という単語にとらわれるのは、果たして妥当なのかといえば、そうとは限りません。
個人が運営するウェブサイトでも、下手な新聞社よりも多くのページビュー(PV)を集めているケースもありますし、ツイッターで数十万人というフォロワーを持っているツイート主もいます。
このようなケースだと、個人でありながら社会的影響力も大きいため、インターネットが存在しなければただの個人だった人も、いわゆる「インフルエンサー」(社会的影響力を行使し得る人物)となるケースもあります。
「多くの人々に、ウェブサイトを通じてさまざまな「情報」を届けることを生業(なりわい)にする」
という意味では、近年だと、ブログサイト、SNS、ウェブ評論サイト以外にも、科学技術系のサイトや小説サイト、マンガサイトなども充実し始めました。
ひと昔前でいえば、書店で科学雑誌コーナーや小説コーナー、マンガコーナーなどに行かなければ手に入らなかったジャンルのものが、(多くの場合は無料で、有料であっても紙媒体と比べれば格安で、)インターネット上で自由に閲覧できるようになり始めているのです。
その意味では、新聞の世界で新規参入がほとんどなされていないうちに、ネット技術が非常に進み、ネット媒体が(ときとして)紙媒体以上に多くの読者を集めることも増えて来たのではないかと思います。
ちなみに当ウェブサイト『新宿会計士の政治経済評論』の場合、今年8月には瞬間風速的に月間400万PV以上を達成しました。これは一種の特殊要因だと思いますが、ただの個人が運営しているウェブサイトが、下手な地方紙よりも多くのPVを集めるというのも、面白い時代ですね。
また、個人が運営していると思しきウェブサイトのなかには、当ウェブサイトよりもはるかに多くのPVを集めているウェブサイトも珍しくありません。これも時代の変化と呼ぶべきでしょう。
ユーチューバーという無限の可能性
こうした変化が生じているのは、「文字の世界」だけではありません。
もっと強力なインフルエンサーの例としては、近年成立した「ユーチューバー」と呼ばれる職業がその典型例でしょう。少し調べてみたのですが、「ユーチューバー」と名乗る人たちのなかには、日本人に限定しても、
- 政治系の話題を選んで、自身で話したものを動画にしている人(たとえば、チャンネル登録者数69.3万人の「KAZUYA」さん)
- 作曲、ピアノ演奏などを行い、それを動画にしている人(たとえば、チャンネル登録者数64.7万人の「よみぃ」さん)
- 新幹線、鉄道、バスなどの交通手段のレビューを動画にしている人(たとえば、チャンネル登録者35.5万人の「スーツ」さん)
- 飛行機やクレジットカード、マイレージなどのレビューを動画にしている人(たとえば、チャンネル登録者数16.5万人の「おのだ」さん)
- 海外に在住し、路上ライブやローカルグルメ、地元のおもしろいスポットなどを動画にしている人(たとえば、チャンネル登録者数10.4万人の「ジブリおじさん」さん)
など、さまざまなタイプの人がいます。
とくに、きょうび「クリエイター」と呼ばれる個人がYouTubeなどの動画サイトに個人チャンネルを所有し、自身で音楽を演奏したり、歌を歌ったり、ダンスを披露したりすることで、人によっては多くのチャンネル登録者を獲得し、生計を成り立たせているというケースは稀なものではなくなりました。
彼らはテレビ放送でいう「バラエティ番組」「ワイドショー」「音楽番組」「旅行番組」などのジャンルを、プロフェッショナルとしての技術により洗練させ、動画サイトのシステムを利用して、個人として配信しているのだ、という言い方ができるでしょう。
正直、テレビを見ているよりもはるかに面白い、と感じる人も多いらしく、また、テレビと違って好きなときに好きなチャンネルの好きな動画をいつでもオンデマンド(かつ今のところは多くの場合無料で)で呼び出せるというのも、こうした動画サイトの魅力を高めている格好です。
そして、通信規格が「5G」「6G」などに移行していけば、地上デジタル放送をはるかに上回る画質の動画配信も常態化するでしょう。そうなれば、放送法第4条第1項をいじらなくても、技術的な理由によって地上波テレビが廃れていくのは、時間の問題といえるかもしれません。
View Comments (12)
恥ずかしながら昨日まで知りませんでした。NHKは
テレビだけで6個の電波をもっていたんですね。
地上波2波 総合と教育。BSで4波BS1とプレミアム
4kと8k、それぞれ別々の番組を放送してたんですね。
4kテレビや8kテレビって映像が綺麗で繊細なだけと
思ってたのですが・・・
高額な専用受像機が必要で、昨年12月の放送開始後の
普及率はどれくらいなのでしょうか?
BSの受信料には見もしないBS4波の協力金も
含まれているのでしょうね。地上契約は仕方ないとしても
衛星契約は解約したいです。Ñ国を応援しようかな。
独断と偏見かもしれないと、お断りしてコメントさせていただきます。
匿名様へ
NHKは、BSのプレミアムを削減してチャンネル数を減らそうという話が
あります。表向きには他のテレビ局との公平性を保つためとありますが、
6チャンネル分の番組制作が間に合わないという、面もあるのではないで
しょうか。個人的な考えですが、公共放送という建前が崩れないのなら、
視聴率を気にせずに、実験的な番組制作のために、局外から実験的番組を
募集する(または、番組のアイデアを募集する)という手もあると思うの
ですが。今後はネットの発達で、国外から番組が入ってくる、または国外
に番組を発信する時代になっていくと思うからです。
蛇足ですが、将来の日本のために、公共放送たるNHKには視聴率より大切
なものがあると言えば、筋は通ると思うのですが。何なら、このサイトの内
容を番組にするという手もあると思います。
駄文にて失礼しました。
更新お疲れ様です!
>加計学園による獣医学部開設などを巡る2017年7月の国会閉会中審査で、テレビ各社が圧倒的に多くの時間を前川喜平・元文科省事務次官(貧困調査員)の証言に割いた
前川氏は貧困調査員というより出会い系バーソムリエの方がナウくて良いと思うのです・・・( ̄▽ ̄)
> 「客観的事実」とは、誰がどう報じたとしても、だいたい同じような内容になる情報のことです。
仰る通りなんですが、マスゴミは、日本政府が「輸出管理の見直し」と述べても、それは口先だけの事、実態は「輸出規制」であり、「経済報復」だと報じます。
証拠写真1枚あれば容易に事実を示せるものばかりではない様です。
ここでも、マスゴミの言う実態を事実と思い込んで、「輸出管理の見直し」を、「輸出規制」だとか、「報復措置」だと捉える人、最近では、「対話」を「協議」と捉える人が少なくありませんでした。
証拠写真(の様なもの)があっても要注意なものも存在します。
例えば、オバマ氏とトランプ氏の大統領就任式の同じアングルの写真を並べて、人の集まりが全然違うと報じた記事がありましたが、影の付き方が全然違うので、よく見れば撮影時刻が大きく異なる事が判ります。どちらも実際の景色の写真であり、その時刻なりの「事実」ではありますが、「人の集まりが全然違う」という評価とは無関係な「事実」です。
> 報道とは、「客観的事実」と「主観的意見」
は仰る通りでも、「客観的事実」と「主観的意見」の間の関係性は要注意です。
私個人の場合で言えば、紙の新聞はここ20年以上取っていません。昔、新聞の拡販員が自宅に来たときは、「日経・工業新聞は会社で読めるから要らない!」「朝日・毎日はカネもらっても要らない!」「読売・サンケイはただなら考えるが・・・」と言って追い返していました。
時間に余裕のできた今でも、PCで日経、産経のサイトを眺める程度。有料の記事は読みません。あと、ヤフーなどの所謂まとめニューサイトのヘッダーリストで今の大きなニュースは何かを知るようにしています。その中で、興味のあるものだけ詳細記事を読みます。時間としては30分~1h/日程度ですかね。TVは、地震や台風などの情報をリアルタイムで知りたい場合ぐらい。それ以外のニュース番組は殆ど観ません(それにつけてもNHKの受信料勿体ないです!)。雑誌はたまに図書館や書店で立ち見する程度。ラジオに至っては、カーラジオ含め殆ど聴いた事ありません。
という事で、確かに今の私自身にとっても、既存の大手メディアの存在はあまり大きくないですね。これは、インターネット環境下にいる日本人であればごく平均的ではないでしょうか?
いずれ、この記事が指摘するような、既存大手メディアの寡占による弊害は確かです。ただ一方で、一般大衆にとって、世情に関する情報を効率的に信頼感(大手と言うことで得られる安心感、偏向がないという意味に非ず)をもって得られるというメリットがあります。問題が多いとはいえ、一概に、全面否定されるべきでもないでしょう。今後これらが、デジタルメディアの挑戦を受け、どのように自己変革していくか興味深いです。
民主主義国家のマスメディアで活動している人々の内、いわゆるマイノリティー(民族的、性的、思想的)と呼ばれている人の割合が実社会のそれより多いのが問題ではないでしょうか。
その人たちの発言力が増し 更に増長していったのが現在の各民主主義国家のマスメディアだと思います。
行き過ぎた多様性を押し付けたり、マイノリティーの利益や権利を優先させる発言、行動に多くの人が違和感を感じたのではないでしょうか。
そこに 個人のブログやSNSの出現でマジョリティーの意見が普通に言えるようになったのが現在だと思います。
今、ヨーロッパ各国では彼等の言う極右勢力(本当は愛国者勢力なのですが)が台頭するようになりました。ある意味アメリカもそうでしょう。
マスメディアという権力を持った勢力が 実社会の割合と違うマイノリテイーで構成されている現状は問題です。
4つのプロセスを踏むことが報道機関の本領との考察では、報道機関の商品自体は、最後に出来上がる主観的意見である記事ということかと思います。
媒体としてのオールドメディアでは紙面やら放送時間の制約から、記事しか商品にならなかったと思うのですが、ネットを媒体とするのであれば、最初の
>取材活動を通じて客観的な事実関係を集めて来る
というところこそが、報道機関という組織の本業ではないかと思います♪
事実を集めるといっても、「経産省が、韓国との局長級会合の結果をHPに載せました」みたいな一次情報に直ぐにたどり着くものはともかくとして、そうじゃない情報元が記者自身になる「政府高官が匿名を条件に〇〇について語った」とか「沖縄のサンゴに人為的な傷がついてる」みたいな情報を集めるのは、それなりに難しいと思うのです。
今は記名記事は少ないのですが、記名記事を増やして、その上で記者が書く記事の信憑性を組織的にある程度担保するのなら、それこそ「報道」の名に値する活動なんだと思うのです♪
何度か他のとこでも書いてるけど、組織立って情報を集めて広くて提供するって役割自体は社会的に必要なんだと思うのです♪
今の自称報道機関は、その本業をないがしろにして、一部の記者や論説委員とやらの私見を垂れ流してるのでマスゴミと揶揄されるんだと思うのです♪
主観的意見は、個人の評論家として流して、組織としての報道機関は信頼性の高い客観的事実を記事として書けば十分だと思うのです♪
安倍さんを攻撃できるネタだと、捏造ねじまげがあたりまえ
こんなのどうやって「信頼しろ」と言うんだよとホント思う。
他にも「報道しない権利」とか行使しているから信用する気にならない
『意見対立している問題で、多くの角度から論点を明らかにしている』
これが無いのがほとんどだし、あっても7割くらいが大声大会
オールドメデイアが衰退しても、しかたないとしか思えん
りちゃぼうさま
マスゴミの悪い所を凝縮した、分かりやすくて、適切な指摘だと思います。
メディアを通して、言論を楽しみたい、純粋に議論をしたい
という人は正直少数派だと思います。
嫌な言い方をすれば、自分の考えを押し付けたり、利益を得たり、他人を誘導したりするためのツールでしかないです。
そう考えれば別にTVや新聞の旧態依然のものより、ツイッターやyoutubeの方が簡単に始められたり、効果が大きいから徐々に世代交代しはじめた、というだけで、報道の質(?)、という観点では根本的な部分で大きな革新があるようには感じません。
メディアの四機能のうち、会計士さんが最初に挙げられた客観的情報の収集だけは引き続き組織力が必要で、個人に頼るのは限界があり、危険でもあると思います。
不祥事を隠そうとしている組織に対して批判的な取材で斬り込んで真実を曝くのは個人には荷が重いからです。
逆に言えばそこに需要が有ると思うので、YouTubeのようなプラットフォーマーが個人向けの通信会社(共同や時事のようなオールドメディアに代わるサービス)をやってくれないかなーと妄想しているところです。
もしくは、会計士さんが例で挙げていたように個人の目撃情報を集約するという方法も、信頼度の低いオールドメディア以外の機関がサービスとして展開すれば成立するかもしれません。
夢物語に聞こえるかもしれませんが、気象情報に限れば既にウェザーニューズ社が「みんなで作る天気予報」というサービスを実現していて15年の実績が有ります。
http://weathernews.jp/ip/info/wxrepo10th/history/index.html
不祥事の内部告発を含めた「クラウドリポーティング」がオールドメディアに取って代わる日が来るのを切望してやみません。
マスゴミと言う表現は20世紀の終わり頃にはすでに思想系の個人サイトで見られた表現かと思います。
その人たちが考えた表現かというとそれもまた微妙で、もっと前からあったのかもしれませんが。