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読者雑談専用記事 2019/11/16(土)

本日も「読者雑談専用記事」を準備しました。今週以降は、週1回・土曜日ではなく、週2回(土曜日と水曜日)の更新とさせていただきます。また、記事タイトルとURLのパターンについても、次回から変更いたします。

お知らせ:読者雑談専用記事の更新タイミングにつきまして

9月以降、「読者雑談専用記事」に付くコメント数が100件を超え、記事によっては200件近くに達することもあります。このため、コメントのロード時間が増えるなど、読者の皆さまにご迷惑をおかけしております。

そこで、今週以降は「読者雑談専用記事」を、週2回更新することにしました。更新タイミングは今のところ土曜日と水曜日とさせていただきます。

(なお、コメント数がさらに増えてくるようであれば、「読者雑談専用記事」の更新頻度を週3回にすることも検討します。)

コメントを書き込む際の注意点につきまして

コメントを書き込む際のルールは『コメント・引用・転載の注意点』のページをご参照ください。

次回の読者雑談専用記事の公表時期につきまして

次回の「読者雑談専用記事」につきましては、11月20日(水)正午に公表したいと思います。

※今回以降は記事タイトルを『読者雑談専用記事 yyyy/mm/dd(aaa)』、次回以降はURLを “https://shinjukuacc.com/yyyymmdd-00/” に変更します(yyyyは西暦4ケタ、mmは月2ケタ、ddは日2ケタ、aaaは曜日)。

過去リンクにつきまして

過去の「読者投稿一覧」につきましては、次のリンクをご参照ください。

新宿会計士:

View Comments (135)

  • 晴れてます。
    最近、コブラ効果という言葉を知りました。
    韓国の最低賃金引き上げは正にそれですね。

  • バンコク、シーロム通りはビルの谷間から
    秋の涼しげな風が吹いています。

    一句浮かびました…

    松尾芭蕉風に

    ハゲ親父
    あゝハゲ親父
    ハゲ親父

    もー一句

    カニ太郎
    あゝカニ太郎
    カニ太郎

    なんぼで出てくる…

    老害さん
    あゝ老害さん
    老害さん

    心配症のおばさん様
    あゝ心配症のおばさん様
    心配症のおばさん様

    あかん…字余り…ヤァ〜

  • 投稿したのに、投稿出来てない…
    も一度…

    シーロム通りは涼しい秋の風が吹いてます。
    一句浮かびました…

    松尾芭蕉風に

    ハゲ親父
    あゝハゲ親父
    ハゲ親父

    カニ太郎
    あゝカニ太郎
    カニ太郎

    老害さん
    あゝ老害さん
    老害さん

    心配性のおばさん
    あゝ心配性のおばさん
    心配性のおばさん

    字余り

    • タナカ珈琲 さま

      異国の地から、私なんぞに一句捻っていただき、大変光栄です。遠い異国に、故国の行く末を案じていただける方がいらっしゃるとは、まだまだ日本人も捨てたものではないと嬉しい限りです。

      これが、近隣国の同胞の皆さま方だと、人間性の嫌悪感が先に立ってしまうような、浅ましい生き方されることが多いような気がいたします。
      ← 謝罪と賠償を求めるクレームには注意しないといけませんね。川崎では、またまたヘイト関連の条例に血道をあげているようですし。

    • タナカ珈琲様
      お陰様で、朝から異国のコーヒーにも負けないハゲ親父🐧スペシャルコーヒー(電動ミルにスプーン六杯の豆を無理矢理入れパウダーにして、コーヒー4杯用のフレンチプレスに入れ、ギッタギッタに濃いコーヒー)が美味しく飲めました。🐧

      あまりにも強烈なカフェインの影響を低減する為、やむを得ず今から別の飲料(エビスビール)を頂きます。🐧

    • 老害様
      ハゲ親父様

      コメントありがとうございます。

      ハゲ親父様には特別に座布団2枚です。
      エビスビールが大阪人の私には、味わい深いユーモアを感じます。

      次回帰国時にJALのラウンジで只でエビスをいただく予定です。
      ついでに、モルツも、一番搾りを飲み比べします。

      ネットの見すぎで、目がカスミます。
      皆様も目を大切に…

  • こんにちは。晴れて日差しが、暖かいです。小春日和ってやつですかね。

  • 長文失礼。

    埼玉県民さんにお約束していた、読書感想文です。
    「古代日本「謎」の時代を解き明かす」長浜浩明 著

    ネタバレありますので、ご注意を。

    とても面白く、刺激的でした。主観で抽出すると、
    ・神武東征は紀元前。魏志倭人伝の記述はそのずっと後代である。
    ・欽明天皇以前は春秋歴を使っていたと仮定すると神武天皇即位はBC70年
    ・日本では古くから葦の根にできる褐鉄鉱などで製鉄をしていた。
    ・豊葦原瑞穂国は、鉄と米が豊かな国を意味する。
    ・景行天皇の九州征討は卑弥呼の時代のすぐ後。
    ・教職員追放令は日本の歴史への害悪。卑屈史観の歴史学者は氏ね。(一部誇大表現)

    氏はほとんど、一般に公開された情報を元に詳細な分析を重ね、結論を導いています。これも面白い点です。いろんな歴史家の著作もかなり広範に抑えられています。関裕〇氏などクソミソでした。(笑)

    この書籍主張の大前提となっているのが、河内湾→河内潟→河内湖の変遷と年代の解明です。これにより神武東征があった年代を推定しています。
    ここはこの本のキモなので少し書きます。

    年代分類は書籍ではもう少し細かいですが、ざっくりと、
    ・河内湾時代(海水) ~BC2000
    ・河内潟時代(汽水) BC1050~BC50
    ・河内湖時代(淡水) AD150~
    としています。
    これは、大阪平野のボーリング調査、出土貝の種類と場所、その放射性炭素年代測定値により推定しています。出典はこの2点と明記されています。(出展は後述)

    一方、日本書紀の神武東征の記述はこうです(本書での訳)。

    ”難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって大変早く着いた”
    (原文:方到難波之碕、会有奔潮太急。)

    難波碕は今の上町台地(大阪城のあたり)で、その北は当時は水路です。
    有明海のように湾内に流れ込むような早い潮流があるのは河内「潟」の時代であり、河内「湖」の時代にはおこらない、としています。
    つまり、神武東征は河内潟時代(BC1050~BC50)に起こったことだ、という結論を導いています。
    これが、この本のキモです。

    これはとても説得力があると思いました。
    その後のパート(春秋歴解釈など)は細かくは異論があり得ると思いますが、この点は固いんじゃないかと思います。


    記された出典は以下です。結構古く、1960~1970年代の文献です。
    ---
    大阪平野の発達史 アーバンクボタNo.16
    https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/16/pdf/16_1_1.pdf
    大阪平野の発達史ー14C年代データからみた-
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10809046/1
    ---

    このペーパーを読んでみたところ、要となる出土物がこの2点。

    ・BP1800(AD150)±120年 森の宮遺跡の淡水貝
    ・BP2260(BC310)±90年 淡路新町の汽水貝
    ※BPは1950年から遡った年数。放射性炭素年代法の作法。

    サンプル数が少なく、潟の時代をBC50ころまでとするには根拠不足感がありますが、少なくともAD150±120年以降の森ノ宮が淡水であったことは確かなので、淡水貝の繁殖にかかる期間と年代測定誤差を含めても、神武東征が卑弥呼の時代(AD250)よりも前(悪くても同時代)と言えます。

    他に氏の解釈を指摘する点としては、日本書紀原文「会有奔潮太急」を「早い潮流があって大変早く着いた」と訳は他にもあり得るところでしょうか。
    まあ、根本的な否定材料はありません。

    もう一つ、春秋歴について。
    記紀で100歳を超える長命天皇に対しては、欽明天皇以前は春秋歴(2倍歴)で記憶されていた解釈をしています。中国史書(書名忘れました)に倭人は春と秋で1年を数えていたとする記載が根拠です。
    これで、記紀の記載を比較し、細かいルールを定めて天皇各代ごとに分析し、神武天皇即位をBC70年を導いています。
    細かくは異論もありますが、春秋歴を前提とするなら、こんなもんだろうと思います。
    (欽明天皇以前の在位期間を単純に半分にしても、だいたい同じ感じになります。)


    私の頭には「魏志倭人伝の記述が史料に現れる最古の出来事」との思い込みがあったのですが、この河内潟と春秋歴を採用すると覆ります。
    これまで古代史の解釈で窮屈だったところが、とても素直に解釈できる余地が生まれました。例えば、

    ・神代三代と邪馬壱国・狗奴国との関係(時代が違う)
    ・崇神天皇が祭祀の変更(鏡と剣を宮中から追放)と、銅鐸銅剣消滅・前方後円墳出現との関係
    ・崇神朝以降の国内征服と前方後円墳の全国への展開の関係

    魏志倭人伝の卑弥呼の時代は、崇神朝時代に当たることになります。神武や神代三代はこれより300年以上も昔の話となります。卑弥呼は、大和朝廷とは別の、九州の一地方の国の王と言うことになります。

    神代三代の阿多・吾平は、九州南端の平野に同一の地名があります。300年以上も時代が違うのであれば、狗奴国や熊襲の心配をすることなく安心してこのへんを当てることができます。南さつま、国分、肝属だけでなく、串間、都城、日南、高原などでもOKです。自由度が高まります。

    全国にある前方後円墳が考古学的に4世紀以降とされていますが、これが崇神朝以降となり、だいたい時期的に合います。崇神朝以前の欠史八代は大和盆地の地方国王で、崇神朝から記紀の記述どおり全国展開したと考えることができます。

    先代旧事本紀・国造本紀には、主に崇神朝の成務天皇以降に国造が150近く認定されていることが記されていますが、魏志倭人伝の記述に「分かれて百余国を成す」と国数のオーダーが一致しています。

    とまあ、こんな感じで、とてもスッキリ感を覚えました。スッキリ感は他にも無数にあります。

    巻末まで読み進めるとわかりますが、長浜氏のエネルギーの源泉は、教職員追放令から始まる歪んだ戦後の学問の世界への疑念と怒りなのであろうと思います。共感を覚えます。
    とても良い本に巡り合えたと思います。埼玉県民さんに感謝です。


    最後に。今週たまたま、プライベートで越前福井のあわら温泉に行ってました。
    気づいたことがたくさんあったのですが、長くなったので列記するにとどめます。
    倭人の中で鉄の扱いがうまい同族集団がいたのかもしれません。

    ・あわら=芦原で、葦原中つ国の「葦原」。平野は九頭竜川による堆積平野。昔から超米どころ。
    ・内陸の低地に「船津」「金津」の地名。丘陵地の弥生遺跡で鉄滓多数出土。
    ・福井のこの辺の方言は「無アクセント」。宮崎(日向)弁ととてもよく似ていた。
    ・韓国語もソウル付近は「無アクセント」(らしい)。
    ・宮崎弁の「てげ ひんだれた」は韓国語の「テゲ ヒンドゥルダ(되게 힘들다)」と同意で、「すごく疲れた」(らしい)
    ・日向も昔から米どころ。葦原もたくさん。鉄滓出土多数。
    ・倭人は朝鮮半島にも多く住んでおり、半島の鉄を取っていた。

    以上です。長々と失礼いたしました。

    •  なんちゃん様

      読後紹介ありがとうございました。

      大変興味深く感じました。

      目が悪いので本を読むことが難しくなっておりますので

      感謝いたします 埼玉県民様にも感謝いたします。

      タイ チェンライ在住の団塊爺より。

      • 外してしまった感があります。(笑)

        興味を感じていただけてうれしゅうございます。

    • なんちゃん様

      私もこのような話題が大好きです。なので、ひと言。

      河内湾~河内湖変遷の考古学的年代と、書紀中の、神武東征時の船べり風景に関する記述から、東征の時代を割り出したのは斬新だと感じました。ただ、書紀の記述「方到難波之碕、会有奔潮太急」が歴史的事実であるというのをどうやって検証したか知りたいですね。単に書紀に書いてあるから、と言うだけでは少し根拠として弱いような気がしましたので。

      これからも、貴兄の古代史関連投稿を楽しみにしています。

      • >ただ、書紀の記述「方到難波之碕、会有奔潮太急」が歴史的事実であるというのをどうやって検証したか知りたいですね。単に書紀に書いてあるから、と言うだけでは少し根拠として弱いような気がしましたので。

        著者の立場は、「「正史」を勝手に読変えてはならない」ですので、検証はされていません。
        正史に記載してあることを、根拠なく誤りだと決めつけてはならないという前提を取っています。
        記載が誤りだとするならば、誤りである根拠を示すべきと。(モリカケ議論と似ています)

        なので、記紀の記載はすべて検証が必要である、という立場の方には、この本は不満足だと思います。

        著者はこの点にはこだわりがあるようで、この前提を述べた上で、著書の中で多くの歴史学者、歴史家の論を引用し、一つ一つ事実誤認や論理破綻を指摘し、その背後にある「記紀は捏造」を根拠に我田引水で自説を正当化する意図を明らかにしています。
        根拠なき記紀否定の流れができたのが、皇国史観の排除を明記した教職追放令以後であるとも指摘しています。
        なので、この考え方をする人は既にGHQに毒されている、くらいの言い方に見えます。(笑)

        また、書紀が書かれた8世紀頃には、すでに大阪平野がかなり出来上がっていたはずで、執筆者は「海なんか無いのに変だ」と思いながらも、口伝や書籍の記載がそうなってるから忠実に書いたのではないかと、思いを馳せているくだりもあります。

        私は著者の考えに近く、記載をいったんは事実として受け入れます。でないといかなる議論も成り立たないので。その上で、150歳以上の天皇の寿命など、個別具体的な論点での議論はありだと思います。

        • なんちゃん様

          著者・長浜浩明氏の主張の立脚点は理解しました。氏のような考えも一つの見識だと思います。

          で、上記のような質問をしたのは、単純に、日本書紀記述を裏付ける新たな証拠があるのであれば、より一層、神武東征の信ぴょう性が高まるなと思った故です。

          機会があれば、また楽しい話を聞かせてください。

      • >著者の立場は、「「正史」を勝手に読変えてはならない」

        というか、これを主張するための著書だった、と言ったほうがよかったかもしれません。(笑)

        ついでにで恐縮ですが、放射性炭素年代測定法も絶対ではなく、貝殻も海洋リザーバー効果で実際より古く測定されることがあるそうです。大阪平野の出典文献は古く、この効果が考慮されていません。

        場所と時代にもよるようですがこの時代だと100年くらい古く測定されることもあるようです。
        ただ、キモの試料は淡水貝なので、影響はないかもしれませんが。

    • なんちゃん様

      「古代日本「謎」の時代を解き明かす」長浜浩明 著、小生恥ずかしながら読んでいない為、読みたくなってきました。
      本書を読んでないので的外れかもしれないのですが

      小生は製鉄材料として砂鉄・隕鉄・輸入鉄しか知らず、葦の根にできる褐鉄鉱からの製鉄との事ですが、葦の根にできる褐鉄鉱=高師小僧は湿地帯に生える葦や水田の稲の根の周囲に鉄バクテリアが大繁殖する事で生まれるものです。滋賀県日野町、北海道名寄市等が有名です。
      鉄バクテリアが繁殖条件を小生知らないのですが当時存在していた地下式鍛冶炉で鉄生産できるほどの量が賄えたのでしょうか
      また、難波にはニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が降りた地とされる肩野を支配する物部一族の鉄生産を支えた肩野物部の森遺跡が有りますが高師小僧での鉄生産の引用があると考えていいのでしょうか。

      小生としては神武天皇の東征原因は阿蘇に算出する阿蘇黄土(リモナイト)が阿蘇山の噴火により入手困難となった為の謂わば鉄を求めての東征と考えておりヤマタノオロチ伝説の舞台、出雲の揖斐川の砂鉄と難波の鉄とが神武天皇の東征の終点たる大和、纏向の地で合わさり大和朝廷を構成したと考えており、神武天皇の東征=邪馬台国(ヤマト国)となったと考えております。(東遷説)
      ゆえに本書は小生の説を壊してくれるに足るものなのか中々たのしみです。

      春秋歴に関しては小生も支持者です。小生も出典は忘れてますが春秋歴は真であろうと思ってます。
      理由は節句の考え方と春~夏(太陽の年)、秋~冬(月の年)として二元的に扱うのは論文を読み納得しています。

      >私の頭には「魏志倭人伝の記述が史料に現れる最古の出来事」との思い込みがあったのですが、…
      >これまで古代史の解釈で窮屈だったところが、とても素直に解釈できる余地が生まれました。
      おめでとうございます。いま「なんちゃん様」は1つの説を打ち立てた訳です。
      要は自分の頭でスッキリする事が大切で、後はスッキリした内容を論文に組立て万人が納得できるものであればそれが歴史の定説つまり真実となります。
      今後とも歴史研究の成果を期待いたします。
      駄文失礼いたしました。

      • >鉄バクテリアが繁殖条件を小生知らないのですが当時存在していた地下式鍛冶炉で鉄生産できるほどの量が賄えたのでしょうか
        >また、難波にはニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が降りた地とされる肩野を支配する物部一族の鉄生産を支えた肩野物部の森遺跡が有りますが高師小僧での鉄生産の引用があると考えていいのでしょうか。

        日本で青銅器が祭器化したのは、すでに実用的な鉄があったから、と説明するために、製鉄が古くからおこなわれていたことを示す文脈で、褐鉄鉱による製鉄に触れています。
        量的に賄えていたのかどうか、砂鉄製鉄への移行がいつごろか、移行があったのかへの言及はありません。高師小僧はこんなのもある、程度の言及ですね。森遺跡への言及もありません。
        大和の三輪山周辺から製鉄の痕跡が多く発見されていることで、古くから大和盆地でも製鉄が行われたことへの言及はありました。
        氏は出典からの引用で解説しますが、出典の妥当性をどの程度検討しているかはよくわかりませんので、読み手としては出典の確認まで必要かな、と思います。

        褐鉄鉱での製鉄が可能だったことを示す説明としては、昭和4~38まで蓼科で行われた製鉄の原料が、主に褐鉄鉱であったことと、以下のポイントでしょうか。イメージしやすいよう、ほんの一部引用します
        ---
        「褐鉄鉱石は、(中略)葦の根に付着する溶性鉄分がおよそ13年かけて成長する。従って水溶性鉄分が多い火山地帯では、早く成長するので早鈴という名がつく。(中略)鈴や筒などの褐鉄鉱石は、質は悪いが700度~1000度程度で還元でき、初期の比較的簡単なタタラ溶鉱炉で使われた。初期のタタラ溶鉱炉は、粘土で仕切の簡単な壁を造っただけのもので、自然の風を利用したという」(190)(史上最大級の遺跡―日向神話再発見の日録 文芸社 2003)

        わが国の「野ダタラ」は、褐鉄鉱や砂鉄と乾燥木材や炭を交互に積み上げ、谷から山に向かって吹き上がる季節風=自然踏鞴を利用した。云々・・・
        ---

        鉄の行に関する出典は、こちらです。
        ・古代の鉄と神々 真弓 常忠
        ・史上最大級の遺跡―日向神話再発見の日録 日高 祥
        ・金属と日本人の歴史 桶谷 繁雄

        実はこの書では褐鉄鉱による製鉄についてはほぼ、2番目の出典に根拠を頼っています。
        この書籍は以前から私も入手したいと思っているものの、手に入らないんです。(笑)
        なので、私的には謎な部分が残っています。

        これは自分の調べですが、人吉盆地・宮崎平野・出水平野の段丘上には古赤土層・テフラ層が広がっていますが、600g/kg前後のtFeが含まれるそうで、鉄分はかなり豊富なようです。褐鉄鉱成長の化学変化を抑えていませんが、河口の堆積平野では材料には事欠かなかったのではないかと思います。

        地理院地図で水位を上げると見えますが、縄文海進終了後の弥生時代、全国各地の今の平野は成長途上で、入り江・潟・湿地帯がかなりの割合で存在していたと推測しています。
        日本全国葦だらけで、米の産地の平野には葦原もセットで付いてくる状態。
        これを鉄の原料と認識していたとすると、歴史の解釈が大きく変わりうると思っています。

        阿蘇黄土のくだり(鉄を求めて東遷)はとても興味深いですね。
        阿蘇の遺跡で大量の鉄滓が発見されているそうで、阿蘇黄土が製鉄に使われていたことを知りませんでした。FeO3の含有量が73%という資料も見えました。
        お説に影響のある話があるといいですね。

        >理由は節句の考え方と春~夏(太陽の年)、秋~冬(月の年)として二元的に扱うのは論文を読み納得しています。
        該当の論文、差し支えなければ教えていただけませんか?

        • なんちゃん様

          >氏は出典からの引用で解説しますが、出典の妥当性をどの程度検討しているかはよくわかりませんので、読み手としては出典の確認まで必要かな、と思います。
          長浜浩明氏は一級建築士を生業とし、評論家の道に入られたかたですから出典確認は確かに必要ですね。

          >わが国の「野ダタラ」は、褐鉄鉱や砂鉄と乾燥木材や炭を交互に積み上げ、谷から山に向かって吹き上がる季節風=自然踏鞴を利用した。云々・・・
          なるほど、野ダタラの中身は葦と砂鉄…、これで稲荷の謎ともつながりました。つまり出雲、伊奈佐の浜(稲佐の浜)国譲りの舞台ですが砂鉄が豊富な浜を稲(鉄)の多い浜ですし、鞴祭りで全国の製鉄関係者が稲荷を詣でるか、スサノオの尊の妻の名、奇稲田姫の稲(鉄)を示し、スサノオ尊の子、宇迦之御魂神が稲荷神として祭られ穀物神である宇迦(ウケ)は稲(鉄)の子で植物の稲と重なり、稲荷神となる穀物神と鉄の神は同一であると判ってきました。そう考えるとイザナミ神が足の船でながした蛭子も鉄のケラ(不良品)を捨てる様とつながります。
          小生の追っている鉄の道は稲荷で説明できるかもしれません非常に感謝します。また新たな発想ができそうです。

          >該当の論文、差し支えなければ教えていただけませんか?
          少し時間をいただきたく。実は小生の普段使いのHDが壊れ、OracleDBの復旧とデータ調整している最中故、以前読んだ論文のタイトルが出てきません。
          すみませんがご納得していただきたく存じます。
          以上駄文申し訳ありません。

        • ご指摘の森遺跡を知りませんで、慌てて調べたところ古墳時代の製鉄跡(間違っていたらすみません)のようですが、氏の対象としている時代はもう少し前の弥生中・後期なので、時代があっていないかもしれません。

          阿蘇黄土も鉄バクテリア由来で、褐鉄鉱に分類されるようです。

          鉄滓や鉄製品の成分から、褐鉄鉱由来を調べる指標のようなものがないか、今一度当たってみましたが、そもそも国内では褐鉄鉱による製鉄の目線での研究が殆ど無いようでした。少し近いモノも見つけましたが、褐鉄鉱製鉄を否定はできない、程度でした。
          ---
          指標成分の動きからみた古代製鉄 新井 宏
          http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/metallurgy/indez1.doc
          ---

          また、褐鉄鉱から低温で鉄を作る実験をこちらでやってました。
          成功例は今回初めて見つけました。
          七輪を組み合わせた簡易な炉で、1200度以下で、炭とベンガラで海綿鉄や軟鉄を作っています。
          スウェーデンでの褐鉄鉱を使った古代製鉄実験にも触れています。
          ---
          古代・褐鉄鉱製錬の可能性
          http://ohmura-study.net/405.html
          ---

        • なんちゃん様 がぶりえる様

          褐鉄鉱の話が気になって、記事を読んでいたら、以前蓼科で入った”石遊の湯”が褐鉄鉱の諏訪鉄山であったことを思い出しました。

          http://www001.upp.so-net.ne.jp/ishiyasu/donna1.htm#name

          みすずかる信濃 信濃の鉄を象徴する褐鉄鉱 
          旧諏訪鉄山の痕跡を 南八ヶ岳山麓 蓼科中央高原に訪ねる 
          https://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/101101suwa00.htm
          蓼科山で拾った褐鉄鉱状の石を焼く
          https://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/10ironB1.pdf

          https://www.city.chino.lg.jp/uploaded/attachment/7903.pdf

          たたら製鉄関連のサイト
          https://www.infokkkna.com/ironroad/

          ひょっとして八ヶ岳山麓の縄文遺跡でも、野たたらとか出ていないかと思って検索してみたら
          皇室より古くて縄文時代から祭られていそうな諏訪大社の御祭神がたたらに関連している伝承があり、すでにご存じかも知れませんがコメントしてたくなりました。

          信濃の鉄ものがたり
          http://www.weekly-ueda.co.jp/tethu/
          2009年3月28日号~2009年7月25日号
          http://www.weekly-ueda.co.jp/tethu/back/main25.html

          2009年5月2日号
          177  諏訪の神さま おはなしの解説④ 

           洩矢(もりや)神が求めていた鉄材は褐鉄鉱である。褐鉄鉱のFe(鉄)の品質は花崗岩やかんらん岩に比べれば劣るが、諏訪社に伝わる鉄鐸は6世紀代にもなお行われていたというのである。
          建御名方(たけみなかた)神は「藤の枝」をもって鉄輪を伏せしめたというのだが「藤の枝」とは何を意味するのだろうか。
          『信濃の鉄』の著者、今井泰男先生は筆者の師である。先生のいうには「左巻きの藤蔓は褐鉄鉱よりも強い(丈夫)」という。
          富士見町の井戸尻考古館の樋口さんも、すぐさま「その通りです」と目を輝かせて、尚も続けた。
          強くて丈夫なので、昔は諏訪の御柱を引くのに藤蔓を供出したそうである。『古代の鉄と神々』では「藤の枝」とは「鉄穴(かんな)流し」による砂鉄採取の技術を象徴しているという。
          つまり、土砂を急流に入れて洗い底っこに溜った鉄砂をザルで採る。そのザルが藤蔓で編んだものを良とするそうである。

        • 諏訪の鉄鐸程度までは存じてましたが詳しくは知らず、諏訪の神さまの話などは面白かったです。

          皆さまへ>

          土曜日から続くこのスレッドも明日で旧版化しますが、いろいろ皆様とお話する中で触発され、いい調べ物と考察ができました。お付き合いをありがとうございました。

          頭の中がかなり散らかったままですので少し整理します。

          また何か石を投げた時には、お相手いただけると幸いです。

        • 埼玉県民様

          前コメでも示したように出雲の鉄の道も調べている関連上、当然出雲国譲り説話で伊奈佐の浜で武御雷命に敗北して諏訪に祭られる建御名方神も当然調査対象であります。ここで建御名方神の別名に御名方富命神(御名方刀美命神)と有るように、より良い刀を制作するための出雲から諏訪への進出した製鉄集団(特に刀制作集団)と認識してました。
          そして、砂鉄技術で諏訪にテリトリーを作って行ったと思ってましたがしかし、認識の甘さを実感しました。

          >洩矢(もりや)神が求めていた鉄材は褐鉄鉱である。褐鉄鉱のFe(鉄)の品質は花崗岩やかんらん岩に比べれば劣るが、諏訪社に伝わる鉄鐸は6世紀代にもなお行われていたというのである。
          花崗岩やかんらん岩が風化し沈殿したのが砂鉄で出雲地方では花崗岩から沈殿した真砂砂鉄、岡山側のかんらん岩から赤目砂鉄と言いますが、建御名方神を象徴する出雲集団が洩矢神を象徴する諏訪現地集団を褐鉄鉱採鉄集団を吸収したのが正しいようです。
          また洩矢神との絡みで甲賀三郎伝説がありますが、これは小生学生時代、佐久には何度も行っており現地の古老に聞いた話ではありますが、甲賀三郎が求めたのは褐鉄鉱床であったのは今の今まで知りませんでした。甲賀三郎伝説で蛇に変化するのですがこれは金鉱探しを示す逸話と思ってました。まだまだ不見識に恥じ入るばかりです。

          ホントにこのサイト「信濃の鉄ものがたり」凄いです。
          小生の研究に非常に有効なサイトご教授いただき感謝の極みにございます。
          ありがとうございます。

        • 先ほど頭が散らかっていると言ったのですが、褐鉄鉱でちょっと思考停止になっている資料があります。少し古いですが。

          県別に見た鉄器の出土数(2000寺沢)
          http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

          褐鉄鉱を以前から気にしていたのも、もっと広い地域で古くから製鉄をしていた可能性を考えてのことだったのですが、弥生期の鉄器出土は北部九州・中国周辺出土に集中していて、どちらかと言うとちょっと残念な事実と思っています。

          今お話に上がっている諏訪の褐鉄鉱でいうと、お二人からの情報と解釈を拝見すると、諏訪においては古墳時代のずっと以前から製鉄が行われていた可能性を感じざるを得ません。
          ところが、長野県の鉄器出土は古墳時代以降に集中しています。
          諏訪の褐鉄鉱主体の古代製鉄は細々と行われていただけ、と言うことかもしれませんが。

          自分が思考停止していながら伺うのもなんですが、何かお感じになることがあれば、お聞かせいただけると幸いです。

        • なんちゃん様

          >今お話に上がっている諏訪の褐鉄鉱でいうと、お二人からの情報と解釈を拝見すると、諏訪においては古墳時代のずっと以前から製鉄が行われていた可能性を感じざるを得ません。
          ところが、長野県の鉄器出土は古墳時代以降に集中しています。

          小生の中ではこの問題は既に解決済みです。
          内容は糸魚川の翡翠が例を示してます。即ち生産地が消費地とは限らないとの認識です。
          とりわけ鉄製品は武具及び武器にとして生産されるのが多く現代でも戦略物資として鉄は力なりとの考えは今も昔も変わりがありません。
          故に諏訪のケースは弥生中期には鉄生産拠点であるが消費拠点にはなりず出雲または一大消費地(元邪馬台国等人口集中地域)へと運ばれていったが古墳期になり地元勢力が拡大すると鉄生産拠点=消費拠点となって自国消費へと変わり、ついには鉄生産拠点=輸出拠点となり代わりに諏訪には無いものを物々交換する商品化にいたるのが歴史の常です。
          つまりは無数にある鉄の道を知る事は即ち当時の先進国特定作業の側面も兼ねるとの認識です。
          此の為、製鉄所跡の発展は重要な要素で製品は動きますが設備は動きませんので
          以上駄文失礼しました。

        • 誤記です。すいません
          ×:製鉄所跡の発展
          〇:製鉄所跡の発見

        • がぶりえる様

          >内容は糸魚川の翡翠が例を示してます。即ち生産地が消費地とは限らないとの認識です。

          なるほど、思いつかなかった観点です。
          お聞きしてよかったです。ありがとうございました。

      • >神武天皇の東征=邪馬台国(ヤマト国)となったと考えております。(東遷説)

        質問をし忘れていました。差し支えなければ。

        春秋歴を採用されているとすると、東征時期はBC70前後でしょうか?
        ということは、魏志倭人伝の卑弥呼は、神功皇后、ということになりますか?

        阿蘇→美々津は、今の高千穂・五ケ瀬を経由する道がありますね。なるほど。

        • なんちゃん様

          >春秋歴を採用されているとすると、東征時期はBC70前後でしょうか?
          小生としては記紀で在位した事になっている天皇の中には死後贈位で応神天皇が存在すると考えています。ゆえにBC50前後と思っており、魏志倭人伝のトヨ=神功皇后と考えています。
          理由は豊前・豊後=トヨ(豊)の国であり宇佐神宮との繋がりが強い事とは自明です。
          魏志倭人伝の卑弥呼は倭姫命の可能性が高いと考えています。これは天皇諡号に神付きは結構注意が必要と考えています。
          また宇佐神宮は不思議な神社で、八幡神の総社でありながら祭る順序は二之御殿の比売大神を中心に両脇に一之御殿の応神天皇(八幡神)、三之御殿の神功皇后と中央に比売大神を祭り神社での拝礼も二礼・二拍・一礼に対し、宇佐神宮二礼・四拍・一礼と全国でみても出雲大社と弥彦神社だけです。比売大神こそ卑弥呼であり九州の邪馬台国の故地であるトヨの国にまつられる姿だと考えています。

        • つまり比売大神=倭姫命=卑弥呼です。
          九州の邪馬台国の故地であるトヨの国→大和へ東遷した姿です。
          宇佐神宮、特に政治上の事件にて特別視される理由が上記と考えてます。

        • 宇佐神宮の存在は私の中では異物で(まあ、他も異物だらけなんですが)、大和勢力とはかなり以前から仲良し関係だったのだろう以上の理解ができていません。
          とても興味深いお説をご披露ありがとうございます。

          過去に宇佐神宮に卑弥呼の墓がある、とした小説を読んだことがあるのを思い出しました。

        • なんちゃん様、がぶりえる様
          壮大な歴史ロマン 感動致しました(笑) 不勉強な私でも「あの本」を欲しくなりました(笑) 基本的学習が不足している私には全く話に着いて行けませんでしたが、知っている地名が多数登場した事には興味深深です。宇佐神社とか、豊前・豊後とか。 これを言うと福井県では嶺北 嶺南、富山県では呉東 呉西。石川県では加賀 能登。 芦原にはカニを食べに行ったのですか? うまいですよね、ズワイガニは!(金沢で8年生活してましたが 個人的にこれが最高と思っています ただし ちゃんとしたもの。 ちゃんとしたものではなくても観光客は感動するらしいです)。金沢を離れてしまった私もちゃんとしたもの以外で 感動するのか楽しみです。(近く普通のネットで購入予定です )

        • 福岡在住者様

          >芦原にはカニを食べに行ったのですか? うまいですよね、ズワイガニは!

          越前ガニなるものを食しました。(笑)
          美味しかったですよ。土地も平和でいいところでした。

          嶺北、嶺南など、現地に行くまで知らない地名でした。
          これが無かったら陸の孤島だったんだろうなと思いながら、長い長い北陸トンネルを通過しました。

          嶺南の敦賀は嶺北と同じ越前国なんだそうですね。言葉も嶺北と近いそうで。
          山に囲まれた敦賀は、北陸新幹線の駅を地上7階の高さに建設中でした。どうせまた山だから、と下におろさず貫通させたんでしょうかね。
          新幹線の橋げたで串刺しになってるイメージでした。

        • なんちゃん様
          敦賀市まで行かれたのですね。まさにそこが原発銀座です(笑) 相当補助金とかも落ちていると思います。 原発に反対する人々もいますが、好き好んで原発を選択した訳でなく 苦渋の選択だったと思います。雇用の面からも相当貢献しているようです。その昔は 北前船で北海道から運んできた昆布を薄く削って「おぼろ昆布」として関西へ出荷していたらしいですが、現在は観光として存在しているのみです。 個人的感想として、原発が無かったら敦賀町・敦賀村になっていたのではないかと思いました。
          ここは「へしこ」という鯖の額漬けが名物です。 私は浅めに漬けた「へしこ」が好きでした(笑)   

    • なんちゃん様
      IPADを会社に忘れて週末拝読することができず、レスが遅れまして誠に恐縮です。
      詳細な考察ありがとうございます。 長浜先生の論拠と春秋年については、おおむね賛同できるのですが、
      神武天皇即位は紀元後であるのかと、ぼんやり考えております。 以前に書きましたが、欠史八代を松平家初代親氏が三河の国松平郷に定着(1380頃)したのと、家康の征夷大将軍叙任(1603)に比すると神武即位~崇神即位も200~250年くらいのできごと考えるのがリアリティーがあるかと思います。 崇神即位を300年頃とすると、神武即位は単純計算で AD50~100年くらいかなと想像します。 この神武即位年は文献名を忘れて恐縮ですが、倍年・4倍年で計算した即位年に近いです。 今後とも古代史論よろしくお願いします。

      AMAZONの同書のレビュー欄トップのhiraさんのコメントが弱点を指摘しています。

      以下引用
      ○1章への反論
       筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Ⅰの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。
       「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。
       よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。
       余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。
       そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

       
      ▲本松山高月院(こうげついん)
      浄土宗鎮西派白旗流。境内の「松平氏遺跡」は国指定文化財で、収蔵展示室には市指定文化財の高月院文書、弁財天の図、野風呂等が展示されている。
      貞治6年(1367)7月に松平郷主在原信重が亡父信盛のために、足助次郎重宗の次男、見誉寛立上人(重政)を開山として「寂静寺」を号して創建、
      永和3年(1377)信重の婿養子の松平親氏(ちかうじ)が寛立に帰依して本尊の阿弥陀如来像(安阿弥定朝の作という)や山門堂塔全て寄進し「高月院」と改め、菩提寺としたとされる。
      天文年間に松平4代親忠(ちかただ)の5男(4子とも)超誉存牛上人(ちょうよぞんぎゅうしょうにん。京都の知恩院25代住職をつとめた)が隠居の形で7代住職となり、3男の長親(松平5代)が土地を寄付して廟を改装した。
      慶長7年(1602)寺領100石を松平9代徳川家康より下賜され、以後幕末まで厚遇された。
      寛永3年(1626)12月廟所・本堂修復料として1500両下賜され石垣等が新規積立られる。
      寛永18年(1641)に江戸幕府3代将軍徳川家光により山門や本堂が建てられたという。

      • 自己レス恐縮ですが、
        >そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、

        生國魂神社の伝承忘れていました。

        難波大社 生國魂神社(生玉神社・いくたまさん)
        神武東征に際し天皇みずから石山碕(現在の大阪城を含む一帯)に日本国土の御神霊、すなわち八十島神である生島大神・足島大神を祀られ、国土平安を祈請された事に始まる大阪最古にして日本総鎮守の神社。八十島祭に代表される宮中祭祀の神社として、延喜の御代には難波大社とも尊称された。
        https://guide.jr-odekake.net/spot/400

      • 即位年関連の情報、ありがとうございます。後ほど読ませていただきます。
        なかなか楽しめる本の紹介をありがとうございました。

        Amazonレビューの反論も説得力がありますね。
        ただ、気づいてしまったのでコメントしますが・・・

        >瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

        原文の解釈が分かれるところだと思います。その可能性もあると思いました。
        氏は底本に現代語訳版を上げていましたので、その訳を引用しているかもしれません。その訳が適切でない可能性はあるでしょう。

        >余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

        私の手元に、氏が底本とした岩波文庫の日本書紀があり、「遡流而上」に「かはよりさかのぼりて」ルビがふってあります。凡例に、以下の但し書きがあります。
        --
        訓み下し文は、各巻の訓点を付した現存最古の写本の傍訓、ヲコト点を基礎として、いわゆる日本書紀の古訓をなるべく忠実に再現しようと努め、かつ、おおむね平安時代の中頃の漢文訓読の文体によって統一することをはかったが、いわゆる古訓が、今日の古代史研究による歴史的事実と相違する場合には、訓読を改めた。
        --
        ということなので、現存最古の日本書紀に記されたルビが誤訳であるなら、指摘は正しいかもしれません・・・

        >そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、

        出典のペーパーにもありますが今の大和川は1704年に掘削されたとあり、河内湾当時は柏原から北に向かって河内湾に流れ込んで、河内湾の出口から海に達していたそうです。鴻池新田・深野薪田は掘削後に埋め立てられた後だそうです。
        仮に今の位置に大和川があっても、河内湖とかすらなそうなので、草香の白肩津に到着できなかったと思います。

        生國魂神社の伝承は・・・大和側との関係がちょっとわかりません。

      • 埼玉県民様

        追伸です。
        そういえば、邪馬壱国の場所比定で、ちょっとと思うところがありました。(笑)

        伊都国は末盧国の南東500里ですが、南西の佐賀松浦を比定していました。唐津から南下して山に入ると、南東・南西に道が二股に分かれます。南東が佐賀松浦です。そこを歩いた人間なら、この方角の間違いはしないと思います。

        あと、最終的には「筑後川下流域」を邪馬壱国としていますが、佐賀松浦から見ると真東です。
        南水行20日投馬国、南水行10日をいくら何でも無視しすぎだと思います。
        その後の熊本邪馬壱国説の結論に合わせている、と思いました。(笑)

        私は投馬国が熊本あたりで、陸行1月の上陸地点が八代あたりと考えています。
        そこから人吉盆地経由で宮崎平野です。

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