衆院選の投開票まで、あと1週間を切りました。昨日私は『憲法改正をどう見ますか?』というコンテンツの中で、選挙について触れたばかりですが、あるメディアのコラムに「看過できない愚劣な主張」を発見したので、本日も選挙と民主主義、そして言論の自由について考えてみたいと思います。
目次
民主主義を否定するマスゴミ
終焉を迎える「マスゴミ」
新聞・テレビを中心とする大手マス・メディアが情報発信を独占していた時代が終了しつつあります。
その理由は、もちろん、インターネットの台頭です。若年層を中心に、新聞を読まない、テレビも見ない人たちが徐々に増加。これと軌を一にするように、インターネット上の情報発信拠点は、数年前と比べて間違いなく増えています。
私自身、このウェブサイトを、こうした「インターネット上の情報発信拠点」の1つでありたいと思いながら運営していますが、最近、また少しずつ読者数が増えています。やはり、衆院選をきっかけに、あらためて政治・経済に興味を持つ人が増えているためでしょうか?
その衆院選は、投開票まで、あと1週間を切りました。
北朝鮮情勢の緊迫化や中国の強引な海洋進出などのさまざまな安全保障問題、雇用情勢が改善しつつあるもののデフレ脱却には道半ばの「実感なき景気回復」、消費税の増税を巡る官邸と財務省の攻防など、日本の内外には諸懸案が山積みです。
それなのに、マス・メディアの報道は「もり・かけ問題」に終始していて、正直、日本のマス・メディアは、すでに報道機関としての役割を完全に放棄しているようにしか見えません。
事実、インターネット上では、マス・メディア(あるいはマスコミ)を揶揄して、「マスゴミ」と呼ぶことが、相当に一般化しています。確かに、慰安婦問題を捏造した朝日新聞社は、もはや反社会的組織であり、国民から石持て追われる存在です。
また、安倍晋三総理大臣の演説に、「パヨク」と呼ばれる勢力を連れて来て選挙妨害させているのがTBSではないかと噂されています。反社会的勢力と結託してウソばかり流すTBSやテレ朝、毎日新聞、沖縄タイムス、琉球新報などのメディアも、朝日新聞ほどではなくても、「マスゴミ」と呼ばれて蔑まれるのは仕方がないでしょう。
さらに、そんな「マスゴミ」の報道に悪乗りして、「安倍政権打倒」を連呼するしか能がない野党を見ていると、呆れるのを通り越して悲しくなってきます。これらの野党勢力には、「安倍政権打倒」ありきで、政策など一切ないからです。
つまり、TBSや朝日新聞に代表される「マスゴミ」は、共産党、小池百合子氏が率いる「希望の党」、枝野幸男氏が率いる「立憲民主党」などの野党勢力と結託し、国民の正常な判断を妨害しているのです。
余談ですが、私自身は自民党の支持者ではありません。しかし、内外の諸懸案に真摯に取り組む政党は、現時点において自民党以外に存在しないと判断しており、間違っても「立憲民主党」、「希望の党」、あるいは「民進党崩れの無所属」らに貴重な1票を投じるべきではないと思っています。
インターネット上の知的インフラ基盤
さて、「マスゴミ」と野党の悪行の指摘はそこそこにして、インターネットに話を戻しましょう。
私のこのウェブサイトには、有難いことに、日々、少しずつ読者数が増えています。しかし、現在のところ、私が1人で運営している「ワンオペ」ウェブサイトに過ぎません。その意味で、当ウェブサイトが「国民全体の言論プラットフォーム」として機能することは不可能です。
その点については、個々人のオピニオン・サイト、ブログ・サイトにしても、全く同じです。
しかし、知的好奇心を満たすことを求める人々の要請に応じ、世の中には、いくつかの興味深いインフラ基盤が出現し始めています。
たとえば、「掲示板」などがその典型例です。最近、アクセス用のURLが変更された某匿名掲示板もそうですが、インターネット上には多くの掲示板が存在し、さまざまなニュース・トピックについて、人々が自由に意見を交換し合っています。
また、「掲示板」までは行かなくても、ニュース・サイトでありながら、読者コメントを自由に投稿することができるサイトがいくつかあります。皮肉なことに、日本を侮辱する記事を頻繁に掲載して物議を醸す『中央日報』日本語版には、ツイッターなどのSNSアカウントと連携してコメントを投稿する機能が備わっており、日本人の間では貴重な意見交換の場となっています。
また、日本のメディアでは、『日経ビジネスオンライン(NBO)』も、こうした時代を支える知的インフラ基盤の1つとなりつつあります。
もちろん、日経BP社自体は日本経済新聞社の子会社であるため、本来ならばNBOも「既存メディア」の範疇に属すると考えることもできるかもしれません。しかし、日経本体のウェブサイトにはない特徴として、NBOの場合は読者コメントの投稿機能と、原始的ながらも記事の有用性などを評価する機能が備わっています。このため、実質的にNBOは、読者とメディアが相互に共鳴し合う、インターネット上の知的プラットフォームとして機能しているのです。
とくに、NBOには大人気シリーズとして、日本経済新聞社の鈴置高史編集委員による『早読み深読み朝鮮半島』や、ジャーナリストの福島香織氏による『中国新聞趣聞~チャイナ・ゴシップス』などの力作が掲載され、それらの多くは読者登録すれば(今のところは)無料で閲覧できるのです。
これを読まない手はありません。
何度読み返しても全く頭に入って来ない文章
ただし、NBOに優れた記事が掲載されていることは素直に称賛するものの、私はNBOを手放しで褒めそやすつもりはありません。
中には、本当に酷い悪文・駄文が掲載されるからです。その典型例が、次の記事です。
積極的棄権について考える(2017年10月13日付 日経ビジネスオンラインより)
記事を執筆したのは、「引きこもり系コラムニスト」の小田嶋隆氏です(※肩書はNBOに掲載されたものをそのまま引用しています)。
小田嶋氏の文章は、NBOの中でも毎回、かなりのアクセス数と閲覧数を誇っています。そして、私の持論は、「自分と全く違う考え方であっても、何か得るものがあるかもしれない」というものであり、できるだけ積極的に、(ときとして我慢しながら)小田嶋氏の文章を読んでいるのです。
ただ、本当に申し訳ないのですが、今回の小田嶋氏の文章については、何回読み返しても、小田嶋氏の主張内容が、全く頭に入って来ません。それが私の読解力の問題なのか、小田嶋氏のコラムの側の問題なのかはわかりません。しかし、小田嶋氏がどうやら「積極的棄権」という考え方を支持しているらしい、ということはおぼろげながら理解できました。
では、この記事のタイトルにある「積極的棄権」とは、いったい何なのでしょうか?
これはおそらく、出版社「ゲンロン」の経営者である東浩紀氏がインターネット上で呼びかけているキャンペーンのことを指しているのだと思います。
2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。(change.orgより)
東氏の主張内容は、正直、支離滅裂です。私の文責で要約すれば、
「総選挙には600億円という巨額の税金が投入されるが、今回の総選挙で国民には選択肢が限られているから、こんな選挙には投票するな」
と呼びかけるものです。
日本は言論の自由が保証されており、東氏のように民主主義を否定する自由だって、もちろん存在します。
ただ、私が衝撃を受けたのは、この東氏の主張を小田嶋氏が取り上げた瞬間、NBOでは多くの読者が小田嶋氏の文章を読み、そして、記事に対して「参考になった」と高い評価を与えている人が50%少々存在している、という事実です。
これは、非常にショッキングです。
小田嶋氏が東氏の思想に共鳴しているのかどうかは、正直、記事を読んでもよくわかりません。また、小田嶋氏自身、NBOの記事の中で
「私自身、50歳になるちょっと手前までは、一度も投票に出かけたことのない人間だった。」
と述べているくらいですから、私に言わせれば、小田嶋氏に政治を語る資格などありません。
しかし、この「引きこもり系コラムニスト」とやらが書いた文章がアクセスランキング上位に位置し、しかも50%を超える人々から非常に高い評価を得ているという事実は、人々がいかに民主主義を軽視しているかという証拠であるように思えてならないのです。
積極的棄権とは、責任の否定だ!
私が常々、不思議に思っていることがあります。
それは、日本国内で護憲を主張する人々が、ときとして、民主主義を正面から否定するような発言をすることです。
「護憲」といっても、守るのは憲法第9条だけであり、それ以外の条文については、彼らは興味がありません。いや、日本国憲法の中にある、民主主義、法治主義、自由主義といった、日本の「根源的な価値」を規定する部分については、むしろ否定的ですらあります。
慰安婦捏造新聞である朝日新聞も、有権者を愚弄するような記事を掲載しています。
自民支持根強い若年層 目立つ消極的選択 衆院調査概況(2017年10月12日05時02分付 慰安婦捏造新聞・日本語版より)
この記事は、朝日新聞社の調査の結果、若年層を中心に自民党の支持が根強いことが判明したという事実をもって、それを「消極的選択」だと決めつけるという代物です。
選挙情勢が、朝日新聞の願望通りに進展していないからといって、それを「消極的選択」などと断言することは、明らかに有権者に対する愚弄でしょう。
もちろん、朝日新聞を初めとする反日メディアや反日言論人らにも言論の自由はあります。しかし、自分の意に沿わない結果になりそうだからといって、「積極的に棄権すべき」だとか、「自民党に投票するのは消極的選択だ」だとか、そのように決めつけるのは、愚劣というほかありません。
もちろん、私自身だって、自分のウェブサイトで有権者を「愚かだ」と批判することはあります。
例えば、今年7月に行われた東京都議選では、私が「詐欺師」だと考えている小池百合子氏が率いる「都民ファーストの会」が都議会で第1党に躍進しました。私は東京都民のこの選択が明らかにおかしいと考えています。
また、2009年8月の衆院選で、民主党が地滑り的な圧勝を収め、政権を奪取したことについて、『有権者よ、反省せよ!』と申し上げたこともあります。
しかし、だからといって、「その選挙戦の結果は私にとって納得が行かないから、これを否定すべきだ」と主張したことは、ただの1度もありません。なぜなら、民意とは、時として、あきらかに誤った選択をしてしまうことがあるからです。
もっといえば、民主主義とは、ある候補者を選び、それで失敗し、またほかの候補者を選び、失敗し、…ということを繰り返すプロセスだからです。当然、コストも時間もかかります。
さきほど紹介した、東氏の「600億円という税金がかかるからおかしい」という議論についても、ナンセンスというほかありません。コストと時間をかけてでも、選挙を実施しなければ、民主主義は成り立たないからです。
「コストがかかるから選挙をすべきでない」とおっしゃるのであれば、その思想を突き詰めていけば、選挙のない政治体制、すなわち共産主義や絶対王政につながります。民主主義と共産主義、あるいは民主主義と絶対王政を比べて、どちらが優れていて、どちらが劣っているか。賢明な読者の皆様であれば、議論するまでもないと思います。
言論の自由とは?
右翼・左翼論争の不毛
ここで、唐突ですが、「右翼」と「左翼」について考えてみたいと思います。
「右翼」と「左翼」には明確な定義はありませんが、たとえば政治的には「改革派」、経済学的には「大きな政府」を信奉する人々を、「左翼」と定義することが多いようです。
私の持論ですが、「左翼」と呼ばれる勢力には3種類の人がいます。
1つ目は、何らかの理論を自分なりに突き詰めた結果、左翼的な政治思想を持つに至る人です。丸山真男、大塚久雄などの思想家については、さまざまな評価が存在することは事実です。しかし、彼らがさまざまな理論を研究し、議論を深めたことは、純粋に評価に値すると思います。
2つ目は、左翼的思想と「反日」(あるいは反社会)が結託してしまったような人たちです。俗に「パヨク」と呼ばれることもありますが、これは、単に左翼的思想のなかから、日本社会を破壊するのに役立つ部分を取り出して、そこを信奉しているだけの連中であり、正直言えば不勉強です。
そして3つ目は、現実主義的な視点から左翼、左派的な政治・経済理論を学び取る人です。たとえば、政治的には日本が大好きな「右派」であるものの、経済学的には財政出動の必要性を主張する「左派」である、というパターンが考えられます。
これに対し、日本社会において、「右翼」にはさまざまな主張が存在しており、少なくとも「左翼」よりも主張は豊富です(※ただし、これは私の主観です)。
ただし、こうした「右翼」「左翼」というレッテル張り自体、あまり適切ではないことも事実です。
たとえば、日本社会を破壊しようとする勢力には、「右翼」の面をかぶっているケースもあるからです。日の丸と旭日旗を掲げ、大音量で軍歌を流しながら、街中を街宣車で走り回る政治結社などは、その典型例でしょう。
また、自分のことを「愛国者」だと感じていながらも、意図せずに日本社会の足を引っ張ってしまうケースもあります。たとえば、「日本国憲法はGHQに押し付けられたから無効を宣言すべきだ」などの極論を主張する人は、結果的に、日本国憲法の改正を妨害しているからです。
つまり、私は「左翼だから間違っている」、「右翼だから正しい」、などと盲目的に考えるべきではないと思います。もっといえば、日本社会は「右翼」「左翼」と思考停止せず、さまざまな角度から、さまざまな問題を議論しなければならないのです。
どうしてこういう愚劣な主張が出て来るのか?
ところが、得てして日本の場合、左翼には私の類型でいう2番目の勢力が勢力を張っています。
彼らには一貫した特徴があります。それは、「民主主義の否定」です。
たとえば、先ほど紹介した、「積極的棄権」とは、民主主義の根本の破壊にほかなりません。昨日の記事『憲法改正をどう見ますか?』の末尾で触れたとおり、民主主義とは、結局のところ「よりマシな候補者」を選ぶプロセスです。もっといえば、「①嫌いな候補者」と「②もっと嫌いな候補者」が立候補している時に、②よりもマシな①を選ぶことです。
「積極的棄権」を呼び掛けている東氏、それをNBOで紹介した小田嶋氏、東氏の文章を喜んで紹介する朝日新聞などの反社会的メディアに共通しているのは、「今回の選挙には大義がない」から、「それを否定しなければならない」とする決めつけであり、「異論は認めない」とする愚劣な主張です。
実は、こうした愚劣な主張が出てくる理由は、1つしかありません。それは、彼らが根底の所で、「選民思想」を信奉しているからです。もっといえば、自分たちの理想を実現するためには、手段を選ばないというのも、彼らの思想の特徴です。
それが行きつく先は、ナチズムや毛沢東思想、あるいはスターリニズムです。
「革命という目標を達成するためであれば、数万人、あるいは数百万人の人名など惜しくはない。」
そういう思想が、裏側に流れているのです。
危険思想に対抗するのは健全な自由主義社会
もちろん、日本は思想・信条の自由が認められている国です。
たとえ「日本を暴力的な手段で破壊してやる」といった主張であっても、主張する分には自由です。だからこそ、日本共産党のような暴力的・反社会的団体が、国会に議席を送り込んでいるのです。
私自身は、言論の自由は最大限、保証されるべきではあるものの、「日本社会を暴力で破壊するような思想」はむしろ取り締まるべきだと考えています。それが行き過ぎれば、日本共産党、TBS、朝日新聞社、そしてオウム真理教のようになってしまうからです。
ただ、こうした危険思想に対抗する手段が存在することも事実です。
それは、「言論の自由を徹底すること」にあります。
「マスゴミ」が日本社会を破壊するような偏向報道を続けていることは事実ですが、インターネットのおかげで、いまや誰でも自由に情報発信業に参入することができるようになりました。事実、私もささやかながら、情報発信が事業として成立しつつあります(もちろん、いまのところはレンタルサーバ代を稼ぐのが精一杯であり、ウェブサイトだけで家族を養っていくだけの収入など、まだまだ望めませんが…)。
私自身はマス・メディアに一切取り上げられたことがありませんし、その予定もありません。つまり、私は無名人です。しかし、その「無名の論客」が、文章だけで人々に主張を訴えかけ、そのことにより支持を得るのだとしたら、それは非常に素晴らしいことです。
インターネットでの情報発信も、いまや立派な言論活動に該当します。
私は、インターネットを通じて、日本共産党の危険性について訴え続けるつもりですし、朝日新聞の報道犯罪を指摘し続けるつもりですし、なにより、選挙に投票することの大切さを主張し続けるつもりです。
愚劣な主張に対抗するのは、健全な自由言論空間です。そして、当ウェブサイトでは、コメントを完全自由制としています。自己責任で、どうぞご自由にコメントをお書きください。
View Comments (10)
各紙の世論調査では若年層、特に10才代から30才代は自民党支持者が多いという調査結果が出ていますね。
左翼系野党支持層は高齢者になるほど逆に高くなっています。
こうした傾向は安倍政権が長期化するに従い一層顕著に表れてきています。
安倍政権叩きするマスコミ&パヨク知識者は、こうした傾向に強い危機感を持っていて、若年層に選挙を棄権するよう盛んに訴えています。
読んではいませんが、たぶん小田嶋隆氏の主張もその類ではないでしょう。
どんな人かは知りませんが、森達也氏という映画監督も露骨に若年層(お前ら)は棄権していいとこんな記事を寄稿しています。
>映画監督・森達也が新有権者へメッセージ「棄権していい。へたに投票しないでくれ」
http://wpb.shueisha.co.jp/2016/07/06/67558/
安倍叩きしている人たちって、自分たちの主張に沿わない者は徹底して排除しようとしますね。
日本のマスコミ&パヨク知識者は、その意味でも民主主義に最も遠い存在の人たちです。
わたしも選挙拒否(というより消極的否定派)の側です。
「たった一枚の票がこの日本を変えるなんて、できっこない」、という事実を知っていながら、それを主張する人を愚劣だと攻撃するのは、真摯ではない姿勢です。愚劣などと切り捨てるのは民主主義に反する共産党などと同じ傾向でしかありません。その問題を真摯に受け取り、それに真摯に解答すべきです。わたしはわたしなりに、たった一票ではなく、この日本を変える方法を追求し、結論に至っています。そして、その方向で、わたしは全力で努力しています。
田舎の年寄りが何か言ってるよ、と思って聞いて下さい。
”「たった一枚の票がこの日本を変えるなんて、できっこない」
と言う事実 ”
塵も積もれば山となるとい言う言葉があります、
もし、たった一枚の票が 3000万枚もあったら、どれだけ
の力を発揮するでしょうか。
若い皆さん選挙には行って、「できっこない」を”できる”
に変えましょう。
>それを主張する人を愚劣だと攻撃するのは、真摯ではない姿勢です。愚劣などと切り捨てるのは民主主義に反する共産党などと同じ傾向でしかありません。
はて、そうですかね?私はここのブログ主さんとは思想的に相入れないですが、一点一致している点は、民主主義は票を行使しないと死んでしまうというものです。理由はここ数日のブログ主さんの主張にちゃんと書いてありますよ?
むしろ選挙権を放棄しろって主張はパヨクと同じかそれより舐めた主張ですよ?棄権しろって主張をブログ主は愚劣と言ってますが、それでも言葉は足りないくらい愚かなことだと思います。
左翼の癖に民主主義を肯定するのは変だと言われるかもしれませんが、今日の主張に関しては百パーセント、ブログ主さんに賛成します。
>「たった一枚の票がこの日本を変えるなんて、できっこない」、という事実を知っていながら、それを主張する人を愚劣だと攻撃するのは、真摯ではない姿勢です
もっかいブログ主さんの記事をちゃんと読んでからコメントしなおしたら?
更新ありがとうございます。
憲法のGHQ押し付け説に対しては、戦後左翼が唱えた八月革命説というものがあります。古い話なのでご存じない方はWikiでも見ていただくとして、要は日本国憲法は日本国が民自ら勝ち取ったものだという考え方で、GHQから押し付けられたという言説へのカウンターでした。
その是非はともかくとして。・・・・・・・
憲法は、国民が勝ち取ったものだから変えてはいけないのでしょうか?
あるいは、GHQに押し付けられたものだから変えるべきなのでしょうか?
と、こうやって改めて書き並べてみると、これが極めておかしな問いかけであることは小学生でもわかるでしょう。
変えるかどうかは、「憲法の出自」ではなく、「内容に問題があるか否か」で決めるべきなのです。それが現実主義というものです。日本国憲法には主権在民の原則があって、憲法はまさに国民が「変える権利」を有しているのです。もし、問題がないなら、70年も使ってきたものを今さら敢えて変える必要はないわけですが、そのためには、護憲派は改憲派が掲げる問題点を論駁しなければなりません。
残念ながら、私は寡聞にしてそのような現実な議論を目にしたことがありません。
もちろん、GHQ押し付け説にせよ八月革命説にせよ、憲法制定後すぐのころには意味があったでしょう。吉田内閣のときに、軍備と憲法改正のチャンスはありましたし、日本人が韓国人のように「虚栄心充足を最優先する民族」なら、復興や経済発展の芽を摘んでも、独自憲法や再軍備を優先したかもしれません。結局、吉田首相はそうしなかったし、我々の父母や祖父母たちはそれを支持したわけです。まあ、いろいろ意見はあるでしょうが、あのときは、それでよかったのではないでしょうか。
今の若い人たちの多くは、右翼・左翼の深層が何かなんてことは知らないし興味もないでしょう。政治にもあまり興味はないと思います。これは若者批判ではありません。人間なんてそんなもんだろうという現実認識です。まだ学生運動の熱かった私の青春時代でさえ、ノンポリのほうが圧倒的に多かった。それでよい、それが正常だと私は思うのです。
そして──そういう「正常な状態」からすると、イデオロギーなんてものはどうでもよくて、現実問題として、「どうして不都合があるのに変えないのだろう(憲法)」「どうして危険があるのに安全策をとらないのだろう(安保)」という疑問を抱くのが自然ではないでしょうか?
現在、そういう疑問に対して、現実的な解答を用意している政党がはたしてどれだけあるのかというのが問題なのです。
ところで。
選挙「権」という言葉があるように、投票するのは権利であって義務ではありません。ですから、投票しない権利を行使するのも自由だと私は思います。棄権によって何か意思表示ができたと思う人がいてもよいでしょう。また、例えば、恋人や友人と楽しく過ごしたいのに、わざわざ投票で時間を取られるのは面倒だと思う人も多いでしょう。そういう人が異常だとは思いません。私もそう思ったことが何度もありますし、実際に棄権してしまったこともあります。
問題は、現在の選挙制度においては、そういう「非異常な棄権者」がいる一方で、組織的圧力に弱い「非正常な投票者」がかなり多いという点です。前者は若者に多く、後者は高齢者に多い。そして、この両者の投票率の差には圧倒的な開きがあるというのが現実です。人口も後者のほうが多かったりする。・・・・・・・
これは何を意味するでしょうか。
・
・
・
──このような現実を覆すためにはネット投票の実現が必要です。
しかし、ネット選挙については課題も多く、単にインフラ整備を進めればよいという問題でもありません。いずれにせよ、当面は「非異常な棄権者」が一人でも多く行動を変えて投票に行くことでしか、このような「選挙の歪率」を緩和する方法はないということを銘記しておくべきでしょう。
いつも楽しく拝見しています。
私は主様と違い、オダジマ氏の文章を結構楽しんで読んでいます。
今回のも、それなりに面白い論点だと感じました。
確かに我々は日常的に(例えば商売上のお客さんと)政治の話はしません。
私は、家庭で日常的に政治論議をしますが、そんな家庭は少数派でしょう。
でも、それは日本人が政治に興味がないことを示すとは思いません。
場の空気を読んで公の場では話題にしないだけでしょう。
皆、自分の手の届く範囲で情報を集めて分析し判断しているわけです。
だから、多くの大人が「選挙は大事だ」という発言になるのだと私は思います。
(新聞やテレビの偏向が問題になる理由はソコにあるわけですが)
現に、これだけ多くの政治ブログがあり、それぞれに賑っていることが何よりの証拠です。
というわけで、今回のオダジマ氏の議論は最初から前提を踏み違えているわけで、ムダな論になっていると思います。
ただ、オダジマ氏を弁護しておくと、彼は「積極的棄権」は、明解に否定されていると私には読めました。
愚考を申します。
私は小田島氏の記事を読んでないのでその論評は控えます。ただ、投票の棄権を呼びかけるなら、多くの人が棄権すれば、良い結果につながることを説明しなければならない。私には棄権する人ばかりになることが、良い結果になるとはとても思えない。イギリスで議会政治が始まり投票制度が出来たとき、金持ちしか投票権がなかった。ある選挙区では投票権を持つ人が数人しかなく、そのほとんの人が投票所に現れず、唯一議員に立候補した人だけが自らに投票して議員に当選したことがある。棄権した人ばかりになった場合、一部の人だけの思惑で当選者が決まり、その結果一部の意見だけがまかり通る政治になりかねない。そんな政治がはたして良い社会を築けるのだろうか。棄権を呼びかける人はこのような事態もあり得ることを承知の上のことなのか。私にははなはだ幼稚な考えにしか思えない。
spaceman さんのご意見に賛同します。
>「憲法の出自」ではなく、「内容に問題があるか否か」で決めるべきなのです。
憲法が押し付けられたかどうかではなく、内容がどうかです。無学の私には現行憲法の表現は難解すぎ、どうして日常の言葉を使わないかと嘆いている。以前にテレビ討論で憲法の語句は古すぎて分かりにくいという意見に、福島瑞穂は「格調がある」と反論した。やっぱり彼女は誰もが分かる文章よりも一部の者しか理解できないほうが都合がよいのだろう。かつて論語を教えた学者は、一字一句について解釈することで生計を成りたてていて、難解な孔子の言葉はまことに都合が良かった。今の憲法学者にもそれが言え難解な語句を不自然とは思わず、国民が理解できなくても問題ないと考えている。憲法の一字一句に拘り合憲か違憲かばかり考え、憲法自体が時代にそぐわないことに危機感を持たない。おかしな憲法論ばかりが通用して、憲法9条の箇所など、北のミサイルには矛盾だらけになってしまった。
話が変わりますが、東名の自動車事故で女性弁護士の「加害者に重罰を与えられない」という発言が話題になっている。彼女の発言は法律家として当然のことですが、国民感情からすれば舌が足りなかった。「法律はいつも事件の後追いです。事件が起きてからようやく法律の不備が見直される」と付け加えておけば批判は浴びなかったと思う。法律は時代の流れや人々の考えの変わり方で、見直され改正されてきた。東名事故の件でも今の法律では人々の考えと合わないのなら、法律を改正すべきなのです。
憲法も同じように時代が変わり人々の考えも変わるにつれ改正していくのが自然の流れです。ただ、どういうわけか法律を改正することには拒否しないのに、こと憲法については改正断固反対という人がいる。共産党の志位委員長の談話などを聞くたびに、憲法に不備があること、あらゆる物の進化は間違いを訂正しながら進むことなど絶対に理解できない人だと思う。もっと言えばそれを認めたら共産党の存在意義がなくなると固く信じている人だと思う。
ご無沙汰しています。
私事ですが東京で体調を崩したようで、戻って寝てましたがもう大丈夫です。やはり東風は私に合わないのか(笑)。単にトシを取っただけか。どちらもかな。
小田嶋隆、はあ。また拝見しましたが、あいも変わらずイミフの作文です。『積極的危険を呼びかけた哲学者に向けて、左右上下を問わない〜パターナリズムの臭気を感じ取る〜』。論点は何ですか?何を仰りたいのかな。コレが評価されているとは。二度ビックリです。貴方、北朝鮮のチュチェ思想を誦んじ得るでしょ。理解不能ですわ。私なら言うなれば、この小田嶋はナマケモノ(極度のモノグサ)か?とても何書いてるか分からない、近隣にいたら近寄らないです。全体的に今回も「読むに能わず」。
50歳まで選挙権使ってないーー行けよ!(笑)何で行かんのや。投票権ないんか?(笑)投票権は日本人の義務である(行けない時もある)。誰に投票するかは自由です。しかし、『積極的棄権』という日本語は存在しない。それは現選挙システムや政治、そしてそこに存在する貴方も否定することだ。ま、今更投票所に行っても名前ないかも。事前に連絡来てますか?小田嶋のことはもういいや。
さて衆議院選挙ですが、私の選挙区は同時に市長選挙、市議会議員選挙補選もあり、看板だらけです。特に市会地方選挙は、誰に(といっても特定の思い入れはありません)入れるか悩んでます。こうなるとやはり、所属ですね。偶然駅前で演説していた方が良い、しかし党派がな〜
と悩んでます。失礼します。
更新お疲れ様です。
選挙が近づいて来ました。私は期日前投票で一足早く自民党に入れて来ます。思想的には自民党と言うわけではないのですが、我が家の近所だと自民党か共産党か希望の党しかないので他に仕様がありません。私にとって共産党は論外ですが玉も置かずに将棋を始める希望の党はそれ以下なので。
何となく自民党に入れるくらいなら棄権せよ。
そうパヨクの方々は主張する戦法に切り替えたようですが、確かにこれほど人を馬鹿にした事もないと思います。ただ、この論法はそのまま私達にも跳ね返るのではないでしょうか?
「政治意識の高くない愚民はいっそ投票するな」
「その場の空気に流されて誤った側に愚民が投票した!日本もおしまいだ!」
上記の事は、民主党政権の成立の前後に私も思いました。しかし今や私も反省しました。政治意識が高い者が民主主義国家でそんなに偉いのか?否です。本当にそうなら真面目に自らの職務に精励する、政治に無関心な職場の同僚達は、親の金で大学に通わせてもらっているのに学業そっちのけで国会前でデモをした愚か者以下ということになります。
上手くは表現できませんが、何となく投票した人も、信念を持って投票した人も、雨が降ってるから棄権した人も、遊びに行きたいから投票した人も、信念を持って棄権した人も、決して否定すべきではないと思います。この国は民主主義国家です。政治に興味を持たない内心の自由があります。
真に邪悪なのは、政治的意図を持ってモリカケなど、悪意の扇動を行う者だと思います。