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メディア「エビデンスない報道をエビデンスで殴るな」

「エビデンスがないのに報じちゃだめですか」。「私たちが報じた内容をエビデンスで殴らないで!」。これは、いままでエビデンスなしにものごとを報じてきたオールドメディア業界からの、「悲鳴」のようなものなのかもしれません。当たり前ですが、メディアが「第四の権力」を自任するなか、エビデンスがない報道は、裁判所が証拠もなしに有罪判決をくだすようなものだったのかもしれません。

エビデンス?ねーよ、そんなもん!

少し前からネット上で話題となっているのが、「エビデンスがないのに新聞記事を書くのは良いことか」、「エビデンスがないのにテレビ番組を作るのは良いことか」、という思考実験です。

エビデンス、などと英語表現を使っているので、ちょっとわかり辛いかもしれません(ちなみに約20年前の公認会計士業界・会計監査の現場では、「エビデンス」という用語を「監査証拠」という意味で多用していたのを思い出します)が、端的にいえば「証拠」のことです。

つまり、「新聞記事・テレビ番組にエビデンスがない」、あるいはメディア業界から聞こえてくる「エビデンス?ねーよ、そんなもん」、といった表現は、わかりやすくいえば、「証拠もなしに新聞記事を書いています/テレビ番組を作っています」、ということではないでしょうか。

国民に選ばれた三権

冷静に考えたら、そういった設問が出てくること自体が、凄いことです。

ちょっとまえまでマスコミ業界(とくに新聞・テレビ)は、自分たちのことを「第四の権力」と認識しているフシがありましたが、これは、「報道の力を使って権力のを監視している」を自負していたからでしょう。ここで「第四の」、というのは、「報道」が三権(立法、行政、司法)に続く権力だった、という意味でもあったのです。

この世にインターネットが存在しなかった時代、あるいは現在ほどは普及していなかったころ、メディアが持つ社会的影響力は、ときとして、絶大でした。某自称「クオリティ・ペーパー」が社説あたりで「首相はもう辞めるべきだ」などと書こうものなら、現実に首相下ろしの動きが出かねないほどの勢いがあったこともあります。

ただ、これも冷静に考えたら、なにやらおかしな話です。

立法(国会)の場合、日本国民が国会議員を直接選挙で選んでいますし、少なくとも現代の日本には、「勅撰議員」のように、日本国民が選んだわけではない議員は存在しません。

また、行政(内閣)は国民が直接選挙で選ぶわけではありませんが、内閣総理大臣は国会議員(通常は衆議院議員)から多数決で選ばれますし、組閣後も内閣は国会に対して説明責任を負い、衆議院の内閣不信任案に対し、総理大臣は衆院解散で応じることができます。

さらに、司法(裁判所)の裁判官は司法試験で選ばれていますが、最高裁長官は内閣総理大臣が指名しますし、裁判官は国会による弾劾裁判の対象となりますし、最高裁判事は定期的に国民による審査が実施されています。

メディアは国民から選ばれていない!

三権分立のしくみ
  • 立法(国会議員)→国民からの直接選挙で選ばれ、勅撰議員はいない
  • 行政(内閣)→内閣総理大臣は国会議員から互選されている
  • 司法(裁判所)→最高裁長官は内閣が指名し、最高裁判事は国民審査を受ける

もちろん、著者自身は個人的意見として、「司法府に対する国民の監視の仕組みは不十分だ」と考えてはいますが、それでもいちおう、体裁としては、国家権力は三権が分立したうえで、究極的にはすべて主権者である私たち国民が直接・間接に選んでいる(または審査している)のです。

これに対し、新聞、テレビといったマスメディア(オールドメディア)は、どうでしょう。

新聞社もテレビ局も、基本的には営利法人であり、ただの民間企業です。新聞記者、テレビ局員は、私たち日本国民からの直接選挙で選ばれた人たちではありませんので、間違っても彼らは「国民の代表」では断じてありません。

この点、NHKを「国営企業のようなものだ」と位置付ける論者もいるようですが、NHK職員にしても私たち国民が直接選んでいるわけではありませんので、これを「民主的に選ばれた人たち」に位置付けるには、若干の無理がありそうです。

「エビデンスで殴らないで!」

このように考えていくと、どこの馬の骨ともわからない人たちが「国民の代表」面をして、社説やワイドショーなどを通じて偉そうにご高説を垂れるというのも、恐ろしい話です。

国会議員は私たち有権者が直接選挙で選ぶわけですが、その際に参考となる情報を、オールドメディアが歪めまくっていたとしたら、2009年8月の衆議院議員総選挙のときのように、私たち有権者の意思決定が歪められてしまうからです。

事実上の「権力」を握っていながら、私たち国民の監視の目が十分に行き届かない組織というものは、私たちが暮らす社会にとって、大変に有害な影響をもたらしかねません。

ただ、これについてはテクノロジーの進歩が問題を解決してくれるようになったようです。

インターネットが発達したことで、新聞社、テレビ局の取材手法から情報の加工の手口、情報がいかに歪められているか、といった論点も、白日の下にさらされ始めました。オールドメディアの報道には、じつはエビデンスがないものが多いということが、エビデンス付きで示されるようになったからです。

これがいま話題の、「エビデンスで殴る」、の正体なのでしょう。

つまり、「エビデンスがない報道をしちゃだめですか?」というのは、「私たちオールドメディア業界はこれまでエビデンスなしに報道することを続けて来たけれども、これからもそれを続けたいし、そのことに文句を付けないでね」、というメッセージのようなものかもしれません。

なお、まじめにツッコミを入れておくと、内閣総理大臣が、エビデンスもないのに政策を強行しようとすれば、新聞業界、テレビ業界はいっせいに批判するのではないでしょうか。あるいは、エビデンスもないのに裁判所が特定個人に対し有罪判決を下そうものなら、大問題になるでしょう。

「エビデンスなしに記事を書く」、「エビデンスなしに番組をつくる」のは、「証拠もなしに有罪判決を下している」のと同じように、大変罪深い行為なのです。

いずれにせよ、「エビデンスなしに報じちゃだめですか」、「エビデンスで殴らないで!」は、これまでにエビデンスなしに報じてきたオールドメディア業界から上がっている悲鳴、あるいは断末魔のようなものなのかもしれません。

新宿会計士:

View Comments (14)

  • 毎度、ばかばかしいお話しを。
    マスゴミ:「昔はエビデンスのない報道をしても、愚民はそれを信じたものだ。まったく、昔はよかった」
    蛇足ですが、サラリーマン記者は、先輩や上司が昔、書いた記事と矛盾する記事を書かなければならなくなることを、なにより恐れているのではないでしょうか。

  • オールドメディアの虚偽報道を多くの人が信じて、事実として定着してしまうと、歴史修正にもなります。「従軍慰安婦 強制連行 性奴隷」 なんて、まさに歴史修正でした。

    • 今後はネットでのオールドメディアへの発言が、(事実か、そうでないかは別にして)事実として定着することもあり得るようになるのでしょうか。

  • エビデンスがないこと(事実かどうか一般的には判別できない、出来事ですらないこと)は、もう報道ではなく、よく言えば小説・文学の世界、普通に作文レベルですね。
    報道機関を止めます。同人誌ですということです。

    • 匿名さま
      >同人誌ですということです。
      仲間内だけで、盛り上がればよい、ということでしょうか。
      蛇足ですが、今後、新聞社は作文がうまい人を、新規採用していくのでしょうか。

  • >「エビデンスがないのに報じちゃだめですか」

    例え、たったひとりの特定個人の発言であっても、実際にその発言がなされているのなら、「事実」として報じるのは構わないと思うのです♪
    また、その発言から、何らかの考察を行い、その内容を記者の意見として報じることも問題ないと思うのです♪

    報道機関の問題点は、安易な一般化とか事実から意見の導出が雑なこととか、意見を事実として報道することにあると思うのです♪

    だから「エビデンスは?」という問はそんなに難しいことを要求してるわけじゃないと思うのです♪

  • メディアのミナサマにおかれましては、"エビデンスが無い" コトを「読み手が極めて容易に誤解なく"エビデンスが無い"主張表現発信であることを特段の注意をハラワズとも認識できる」様にさえしておけばヨロシイのではナイでしょうか?
    いっそのこと「この記事は世論を誘導する目的で作成されております」とデカデカと前書きするとか??

  • 元記事は「こころのはなし」という連載で現代社会で心の在りようを識者に聞く記事
    おそらく心の問題は理詰めで迫られても解決しないからと柔らかくも科学的じゃない書籍の主張を
    しれっと言葉で他人をぶん殴る朝日新聞が自分も無根拠だが許される、いや許せと筋書き入れてくる
    人としてどうなの

  • 例えば、東スポには記事を面白おかしく誇張(?)して掲載されています。雑誌ムーには、オカルトや都市伝説をもっともらしく記事にしていると聞いています。
    (これらの媒体をバカにしているわけではないです。むしろ尊敬してます)

    何が言いたいかと言うと、朝日新聞は『そういうものだ』という事が広く一般に知れ渡れば、エビデンスに基かない感想文や陰謀論など、まぁ、好きに掲載すればいいと思います。
    ただし、軽減税率や「社会の公器」としての自任・自負は捨ててもらわねばなりませんが。

    いみじくも「ウソの新聞」で朝日新聞がサジェストされるのは、すでに「社会の公器」としての権威が失われつつある課程なのかもしれません。いいことです。

  • 反日メディアが存在している事が信じられない。そりゃ権力のチェックは必要だがチェックと反日は違うだろう?自らを含め妻や子、孫や親、大切な人が住み暮らして居る場所ではないか?例え反日だとしてもエビデンスは示すべきだ。それを放棄したなら信用、信頼はされない。

  • 往々にして、根拠と論理に基づいて語ればどうしても「現実的な妥協」に
    たどり着きがちだと感じます。つまり、理想や革新との相性が悪い。

    そうなると現状をある程度肯定しがちになるし、「世の中上手くいかない事だらけだけど、
    魔法の解決策なんかないんだから、少しずつやれる事をやっていこう」と言う
    玉虫色の結論に近づく。

    それじゃ新聞も雑誌も”ツマラン”と言う理由で売れなくなるんでしょう。

    既存のオールドメディアがつぶれて業界が大改革を迫られても、それでも”ニュース”と
    言う商品は”刺激的”でないと売れにくいのなら、いわゆるマス”ゴミ”が
    この世からなくなる事はないのでしょうね。
    マス”ゴミ”と同じ位無責任で刺激だけを追い求めるウェブサイトだって沢山あるし。

  • 以前新宿会計士様もとりあげていましたが
    朝日新聞の記者は
    「科学を振りかざしてこれが真実だと言われても」
    ともお考えの様ですね。

    >もはや、真実に目覚めたリベラル(自由主義・反自公・反ウヨ)な人々は、科学を信じていない。何故なら、科学はもはや墜落しているからだ。
    だそうです。
    https://fantasfic.fun/posts/74240

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