新聞記事が一般人からエビデンス付きで論破されることが増えてきたように思えます。こうしたなかで、大手全国紙の一角を占める朝日新聞に、「エビデンス重視の世の中」にあって、「数値がすくい取れない真理」に関する記事が掲載されたようです。「エビデンスを重視しない研究」をなさるのは自由ですが、非常に残念ながら、それらの「研究」が後日、科学的な検証に耐え得るかどうかについては、まったく別の論点でしょう。
科学とは検証可能性
科学とは、いったいなにか。
これにはさまざまな説明があろうかと思いますが、おそらく多くの人に受け入れてもらえるであろう説明をするならば、それは「検証可能性」にあります。とりわけわかりやすいのが、「誰が実験しても、同じ結果が出る」という、自然科学の分野でしょう。
たとえば「ニュートン力学」で知られる、アイザック・ニュートンが発見した「質量を持つ物質はすべてお互いに引き合う」とする「万有引力の法則」は有名ですが、それだけではありません。アルベルト・アインシュタインが構築した相対性理論は、現代社会ではGPSなどにも応用されています。
ただ、世の中は不思議なもので、「エネルギー保存の法則は間違っている」だの、「アインシュタインの相対性理論は間違っている」だのと主張する人たちは、後を絶ちません。
SF小説だと、何もない空間から無尽蔵にエネルギーが生み出され、エネルギー問題が解決している世界があるかもしれませんし、何万光年も離れた星に一瞬でワープできるのかもしれませんが、現在の人類の科学力では、残念ながらいずれも夢の世界の話です。
トンデモさんの思考回路
いずれにせよ、「理論的にはこうなる」、「実際にはこうなっている」という、2つの視点が整合していることは必要でしょう。
ただ、自然科学の世界だと、どう頑張ってもそのような実証結果が出ていないにも関わらず、「自分が唱えた理論こそが正しい」などと主張する人のことを、「と学会」の「トンデモ本の世界」などにちなんでか、「トンデモさん」と呼ぶこともあるようです。
このことから、「トンデモさん」とは、主に自然科学の世界で、エビデンスもないくせに自分の主張の正しさを押し通そうとする人のことだ、と定義づけることができるかもしれません。
ところが、こうした「トンデモさん」、すなわち「エビデンスなしに自分の主張を押し通そうとする人」は、自然科学の世界だけでなく、社会科学や人文科学の世界にもいるのではないか、というのが、著者自身の長年の仮説のひとつでもあります。
エビデンスを無視する人たち
わかりやすいのは、「悪い円安論」、「良い円安論」でしょう。
著者自身は「円高や円安は日本経済に一概に良い影響・悪い影響を与えるとは言い難いが、現在の日本経済の状況に照らすならば、円安の方が望ましい」という「理論」を持っており、この「理論」はGDPや国際与信統計、法人企業統計など、複数のエビデンスで裏付けられていると考えています。
しかし、「悪い円高」論を唱える人たちは、得てしてこうしたエビデンスを呈示しません。
というよりも、奇妙な屁理屈を述べて論点をずらしたり、マクロの話をしている最中にミクロの話を持ち出したり、はたまた縦軸の合っていないグラフを持ち出したりするなど、デタラメな主張を持ち出して自説を根拠づけたりする傾向があるようなのです。
そして、科学が社会問題の解決策として持ち出されるときに、それを否定する人たちも、たいていは科学的アプローチを無視します。
たとえば、東京電力福島第一原発に貯蔵されたALPS処理水の海洋放出が8月から始まっていますが、以前の『似たもの同士?中露両国の大使館が処理水を改めて批判』などでも紹介したとおり、これに対し科学的アプローチを正面から批判する記事を掲載したメディアがあります。
科学を隠れみのにするな
―――2023年8月23日 2:00付 日本経済新聞電子版より
日経新聞の記事では、「科学的知見で安全は保証できても、安心はうまれない」などとしたうえで、「その醸成のためには海洋放出の安全性と透明性を確保し、政府が国内外に粘り強く丁寧に説明していくしかない」、などと結論付けています。
しかし、そもそも論として、科学的アプローチを否定する態度自体が科学に対する軽視であり、説明責任を放棄した態度です。そして、社会的影響力が大きい日経新聞というメディアがこんな記事を大々的に配信すること自体、「政府による国内外に対する粘り強く丁寧な説明」を妨害する行為でもあります。
ただ、この「科学を隠れみのにするな」、あるいは「科学を振りかざすな」、といった言説は、新聞業界からはしばしば出てくるものです。
エビデンスがないとダメですか?
こうしたなかで、ちょっと気になったのが、大手全国紙のひとつである朝日新聞が配信した、こんな記事です。
「エビデンス」がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは
―――2023年10月31日 17時30分付 朝日新聞デジタル日本語版より
有料会員でなければ途中までしか読めませんが、本稿ではその途中までの記述をもとに、この記事を考察してみたいと思います。
リンク先の記事は『客観性の落とし穴』という書籍の著者の方に、「エビデンス重視の世の中にどう向き合えばよいかを聞く」というものですが、記事にこんな記述が出てくるのです。
「SNSでも、データを持ち出してきて、自分の気に入らない投稿を批判するような書き込みが目につきます。エビデンスという道具を使って、他者をたたきたいという暗い欲望が蔓延しているように感じます」。
はて、そうでしょうか?
最近、X(旧ツイッター)などのSNS上で、データをもとに投稿を批判するという書き込みが目立つことは間違いないでしょうが、それは「他者を叩きたいから」なのでしょうか?それとも単純に、「データで見て何が正しいかを知りたいから」なのでしょうか?
実際のところ、この日本は民主主義社会ですから、言論の自由はとても大切です。
もちろん、誹謗中傷、あるいは限度を超えた批判は避けるべきですが、それと同時にある人の主張が妥当なものではないと感じたときに、その主張に科学的なエビデンスが欠落しているならば、それを指摘するのもまた自由であるはずです。
科学的検証に耐えられるかは別
この点、記事ではインタビューを受けている方が、このように話す場面も出てきます。
「僕の研究は、ヤングケアラーや看護師、困難を抱えている当事者たちの語りを分析する内容で、数値的な証拠は積み上げない」。
「しかし、個人のそれぞれの経験のなかにも、普遍的な事実はあるはずです。<中略>数値的なエビデンスや客観性がとる視点とは逆向きの視点の置き方ですね」。
このあたりの記述についても、結局、学問も言論も自由ですから、「数値的なエビデンスや客観性を敢えて軽視(あるいは無視)する」というアプローチを、当ウェブサイトとしては無碍に否定するつもりはありません。
しかし、非常に残念ながら、「エビデンスを重視しない研究」が後日、科学的な検証に耐え得るかどうかについては、まったく別の論点でしょう。
ただ、それ以上に考えておきたいのが、この手の記事が新聞(それも大手紙)に掲載されるようになったという事実が持つ意味です。
想像するに、新聞記者の皆さまは、インターネットが出現する以前であれば、自身が書いた記事についてさほど批判されることがなかったのかもしれません。
しかし、とくにここ数年、利用時間でも広告収入でも、インターネットが既存メディア(新聞、テレビ、ラジオなど)を上回るようになり、社会的影響力という観点からは、すでにネットがオールドメディアを完全に上回る状況が出現してしまいました。
もしかすると、このインターネット時代、私たち読者は知らず知らずのうちに、新聞記事を読みながら、「それってエビデンスはあるんですか?」、「それって新聞記者の方の感想じゃないんですか?」、などとツッコミを入れるようになってきたという事情でもあるのかもしれません。
新聞社が批判される時代
こうした状況のなか、おそらく新聞記者の方々は、自分が書いた記事が正面からエビデンス付きで批判されるという経験をしているのではないでしょうか。
単なる誹謗中傷であれば、無視するか、酷い場合には警察に告発するなどの方法がありますが、冷静かつ紳士的に事実関係を指摘した書き込みに対しては、誹謗中傷ではないので警察に告発するわけにもいかず、したがって再反論しなければ、自身の記事が間違いであったとみなされるリスクも出てきます。
これこそが、一部の新聞記者の方々が打ち明ける「息苦しさ」の正体ではないでしょうか。
裏を返せば、エビデンスもなしに「お気持ち」を記事にしてきた新聞業界が、インターネットの出現により発言の機会を得た一般人により、エビデンスによって大量論破される時代を迎えている、ということです。最近だとXの「コミュニティノート」は新聞社の公式アカウントが投稿した内容にも「着弾」するようになりました。
ひと昔前なら、「新聞社が間違ったことを述べるなんてありえない」、といった「信頼感(?)」のようなものが、この社会には存在していたのかもしれませんが、おそらく現代社会では、「新聞社の主張は正しい」という「信頼感」など、とうの昔に崩壊しているのではないでしょうか。
いずれにせよ、もしも新聞業界が一般国民からの信頼を取り戻すには、「刑事告訴をチラつかせて一般人のポストを封じる」という、一部新聞社が行っているような対症療法ではなく、論破されないよう、最初からエビデンス付きで説得力のある記事を書けば良いのではないでしょうか。
それができないのならば、そのうち新聞は完全に社会的信頼を喪失し、下手をすればあと10年以内に廃刊に追い込まれる(『これは本当?「ホテルのロビーで無料提供される新聞」』等参照)のが関の山ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
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>最近だとXの「コミュニティノート」は新聞社の公式アカウントが投稿した内容にも「着弾」するようになりました。
「イーロン(良い論)が、フェイクの口に、X(ペケ)マスク」
「シン・雷管(シンライカン)、吐いたフェイクの、成れの果て」
・・ですね。
あいかわず、うまいですね。
眺めてて、立ち止まりました。
"感想文"と"論文"は違わぁナ
ただ読み手は感想文は感想文、論文は論文として読むから、感想文を論文と詐すがゴトキ姿勢は読み手に相手されんくなるわいな、うん
事実を伝える コトと、感想を述べる コトと、主張を発信する コトを意図的に混然とさせてきたじゃぱんますめでぃあのあしたは
全ての新聞社がそうではないと思うのですが、昨日の「安芸高田市の石丸市長…市議や記者との論戦が興味深い」の新聞記者とのやり取り動画を見て、如何に新聞社が傲慢で反省もしないクズみたいな会社なのかわかりました。
「エビデンスに基かずに理論を展開」という事は、その理論とやらは新聞社の感想か願望であり、そして「それを受け入れろ」という事は、無条件に『俺様の言う事を聞け』と言う事に他なりません。本当に傲慢でどうしようもないクズみたいな論旨だと思います。
(逆に新聞社はそこまで追い込まれているのかもしれないです)
中国新聞の件も含め、こういう事実が積み重なっていけば、会計士様が予測するよりも早く、新聞業界は衰退していくのかもしれないです。
興味を惹かれて動画を見ました。安芸高田市はまさに日本の縮図だと思いました。
日本国は 市と違って外交・安全保障もやらねばならないので もっと大変。日本の総理大臣は石丸市長の何倍もの能力、熱意が必要とされるのに・・・。
朝日が言いたいのは「俺の言う事にいちいち文句つけんな」「客観だとかエビデンスだとかうるせーんだよ」だと思う。
「科学を隠れ蓑にするな」
気の利いたタイトルを思いついて、悦に入ってる記者の顔が目に浮かびますが、
「アンタ論理的な文章を書くことすら出来ないのね」と、
ツッコミ入れられること、想像するアタマもないようですね。
誰が、どう隠れてるって言うのよ。
どう考えたって、「科学を錦の御旗に、偉そうにしゃしゃり出てくるな」の
負け犬の遠吠えでしょ。
何が事実か分からない人たちが報道しているんですよね。悲しい現実です。
GDP、新聞記事、エビデンスで思い出すのは、先月24日、日経新聞の「日本のGDP、ドイツに抜かれ世界4位に」という記事。
ドル立て名目GDPで、ということだが、逆にドイツ人は、高インフレでなっただけで、なりたくてなった訳じゃない。それよりもメルケル時代の弊害が酷くてそれどころじゃないわ。ってところでしょうね。
何でこういう時にはドル建てで日本オワタと騒ぐのかしらねぇ? 円建てで過去最高という報道だって可能なのにねぇ。
そのうちトヨタ自動車の純利益も自社に都合が悪いので、あえてドル建てで報道するようになるんでしょうかねぇ?
自国通貨建てのGDPでは、日本のGDP伸び率(2023年ですから未だ予想値ではありますが)はドイツのそれ(無論ユーロ建て)よりも大きいようです。
ドル建てでの比較に於けるマジック、あるいはジレンマのひとつといえるのではないでしょうか。
二言目には「エビデンスは?」と機械的にマウント質問するヤツも確かにいます。それへの批判はわかりますが、記事の出だしでは社会一般化していてその時点から違和感感じる記事です。曖昧なグダグダ感というか。
科学的事実って真実・真理ではなくて、あらゆる人が納得せざるを得ない「現時点の結論」ですよね。人間社会的真実というか。
それを支える根拠が変わったり否定する新たな根拠が出てくれば科学的事実はいつでも変わりうる。なので、結論に至ったプロセスこそが何より大事。
ある人がどれだけ正確に自身の経験に基づく主張をしていたとしても、普遍化するに足る根拠がないなら他人を納得させることはできない、というのは何も難しくない単純な話だと思います。
最近のコメントの傾向に思うところも多少あります。
「科学を隠れ蓑にするな。俺様はオカルト記事を書いているのだ」
「科学では隠れ蓑にならないではないか。俺様はエビデンス無しに好きなように叩きたいのだ」ではどうでしょうか。
攻撃型原潜さま
>俺様はオカルト記事を書いているのだ
「朝日新聞がムーになり、ムーが朝日新聞になる」ということでしょうか。
どこの新聞がとは申せませんが、第一線の記者達がまともな記事を書いても、上司であるデスクや更にその上の編集部等によってボツにされる、あるいは書き換えさせられる、といったことが一部の新聞社などでは行われている、というようなことを、以前風の噂で聴いたような記憶があります。
自分の定年ぐらいまでは、自社が潰れることなどないと信じ切っている左派崩れのロートル層が、新聞を始めとするオールドメディアに多すぎやしないかと、些か危惧しておる今日このごろです。
なぁ~んちゃって。
腕が良く大変に稼ぐ農家さんが居ます。彼らは意外にエビデンスを重視しません。土壌検査や成分分析は参考にとどめ勘と経験を重視して施肥設計をしたり。関係機関の指導員を逆に品定めしたり、「教科書通りにいくもんか」などと語ります。
その逆に、とても緻密に計画を立て検査や数値を追い求め常にネットで情報を集めて論理構築万端で挑んで、毎年失敗をする大企業勤めから転身してきた農家さんも居ます。
ではエビデンスなんて不要ではないか。……とはなりません。土と植物の関係は、膨大な研究をしても解明されきっておらず、多様な現場の環境全体のパラメータは、人間が認識も管理もしきれないほど多種にわたるためかと思います。現段階で持っているエビデンスや理論通りにいかないとしたら、未解明部分のエビデンスやらが不足しているためです。なので当然、検査値は経験則の補強になり、教科書の内容を応用できることは多々あります。
どこぞの新聞が言う所の人の気持ちにエビデンスなど云々というのは、そりゃそうでしょう。かなり解明が進んでいて最終的には脳の電気信号が云々というものではあるでしょうが、ある個人の気持ちにおいては、人体の問題だけでなく周囲の環境から何から、とてもエビデンスでどうこうしきれるものでは(現時点では)ありません。
しかし、エビデンスが重視されはじめたのは、全然違う話題ででしょう。原発の安全性だとか、経済のセオリーだとか。
そりゃ新聞社が大好きな"貧困にあえぐ個人"に「体を健康にして勉強して良い会社に就職して一日10時間働け」とド正論をぶつけたって、そんなことはできません現実と気持ちを考えてよ理屈を言うな、となるに決まってる。
前者でエビデンスが重視されているところに、都合が悪くなったら後者の話題をブチ混んであえて混同しているのは、単に頭が悪いからか、でなければすり替えの詭弁。それは言ってしまえば、もう論戦には勝てませんという白旗です。
リンク先
>「エビデンスに殴られている」 分断の道具に使われる客観性
とか言ってこうやって分断の道具にしているのは、どこのどちらさまだか。せっかく重視されるようになったエビデンスを封印して、新聞社のお気持ちで世の中をイジられる時代よもういちど、なんてもうご勘弁願いたい。