「それって間接的にテレビを痛烈に皮肉っていませんか?」
『この10年間における最大の変化は「社会のネット化」』でも述べたとおり、東日本大震災からの10年間で、社会のインターネット化が進んだという点については、おそらく異論はないでしょう。ただし、それが良いことか、悪いことかについては、論じる人によって評価はさまざまです。こうしたなか、「テレビをだらだら見るのが知的生産には最高」、とする主張を発見しました。
社会のインターネット化をどう見るか
昨日、東日本大震災からちょうど10年という節目を迎えましたが、『この10年間における最大の変化は「社会のネット化」』でも述べたとおり、この10年間で社会全体のインターネット化が急速に進んだと思います。
ことに、昨年からのコロナ禍の影響もあり、いくつかの会社ではテレワークも進んだようですし、実際、著者自身もこのテレワークの恩恵を受けている人間のひとりでもあります(※ただし、このあたりの詳しい事情は割愛します)。
この点、著者自身が社会のインターネット化の恩恵を大きく受けている人間でもあるため、当ウェブサイトの論調は、どうしても「これは良いことだ」という暗黙の前提を勝手においてしまいますが、本来、それが「良いこと」、「悪いこと」、などと一概に決めつけることはできません。
その人が置かれている環境により、インターネット化が良いことだとは限らないからです。
また、多くの人に同時に情報を伝えるという意味では、テレビやラジオの効率が良いことは間違いありません。
実際、『大震災から10年:「テレビは何か役立ちましたか?」』に対しても、多くの方から「テレビは役に立ったこともある」というご指摘を頂きました。とくにハッとさせられたのは、「裏縦貫線」様というコメント主様から頂いた、こんな趣旨の指摘です(※ただし、コメントについては一部変更しています)。
「テレビなどの電波媒体はアクセスが殺到しても輻輳しないという長所があり、広範囲に情報伝達するのに適しているのに対し、ネットは市町村、町内、個人といった狭い範囲での行動に必要な情報のやり取りに強みを持っている」。
つまり、何らかの災害が発生し、ネット回線が断線したときに、テレビやラジオを点ければ、その事態が自身のコミュニティのみで発生しているのか、それとも市町村単位なのか、全国規模で生じた災害なのかを判断することができる(かもしれない)、ということです。
とりわけ、大規模災害が発生した直後であれば、全体的な情報を手に入れるという点ではテレビやラジオの効率が良いこともありますが、災害直後から少し状況が落ち着いてくれば、避難所や給水所、生活必需品のやり取りといった細かい情報については、インターネットに強みがあるのでしょう。
その意味では、災害の際の情報源は多ければ多いほど良いというのも、ひとつの考え方でしょう。
ただし、あくまでも個人的な事情で恐縮ですが、ウェブ主自身は職場にも自宅にもテレビを設置しておらず、また、新聞も購読していないため、何らかの事情でネット環境から完全に断絶された場合、本格的に情報から孤立するという言い方もできます。
もっとも、少なくとも東日本大震災の当日を含め、今のところ「完全にネットから排除された」という経験をしたことはありませんが、災害に備えるのであれば、「災害でもネット環境が寸断しないよう、プラチナバンドを含めた電波帯をオークションで開放すべきだ」、といった議論が本筋ではないかと思う次第です。
電波媒体の強みを生かしているのですか?
さて、先ほど紹介した「裏縦貫線」様のコメントには続きがあって、「別の議論だ」と釘を刺しつつも、「現在のテレビ局が電波の特性に会った報道をしているか、これはこれで大問題でしょう」、と指摘されています。
この指摘、まったくそのとおりでしょう。
すなわち、「紙媒体、電波媒体、ネット媒体など、媒体の特質に応じて社会全体でうまく役割分担をすべきだ」とする点と、現実に新聞やテレビなどのオールドメディアが「(とくに災害時に)どんな報道をしているのか」という点については、まったく別の論点です。
あくまでも一般論ですが、新規参入が難しいという業界というものは、健全な自由経済競争がなされないため、得てして腐敗するものです。そして、腐敗した業界が提供する製品・サービスもまた、酷いものとなるケースが多いようです。
ことに、昨年6月の『産経記者「共同通信は毒水を流すインフラ屋」と苦言か』でもお伝えしましたが、とある情報源によると、オールドメディアによっては「毒水を垂れ流すインフラ屋のようなものじゃないか」といった批判を受けているケースもあるのだとか。
当ウェブサイトでかなり以前から強調してきたとおり、世の中の「報道」と呼ばれるものの情報には、本来、「客観的事実」と「主観的意見」というものがあります。
「客観的事実」とは「どこの誰が報じてもだいたい同じ内容となるもの」のことであり、「主観的意見」とは「それを表明する人の立場に応じて、内容が大きく変わるもの(極端な話、真逆の内容となる可能性がある情報)」のことです。
たとえば、「2011年3月11日14時46分ごろ、三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近の深さ約24kmでマグニチュード9.0の地震が発生した」と記載すれば、それは「客観的事実」です。しかし、「この大震災が発生して悲しい」、などと表現すれば、それは「主観的意見」でしょう。
多くの方々は大震災に「悲しい」と感じたであろうと思いますが、実際、ごく一部の国では、そうではない意見もあったようです(あまり考えたくはありませんが)。
得てして、メディアはこの「客観的事実」と「主観的意見」の両者を混同することが多く、これについては平素から当ウェブサイトでも、オールドメディアの報道を「いかがなものか」と批判的に取り上げることが多いのは、読者の皆さまもご存知かと思います。
テレビをだらだら見ると「知的生産に最高」
さて、テレビについて取り上げたついでに、こんな話題も紹介しておきましょう。
「テレビをだらだら見る」のが実は知的生産に最高な理由
―――2021.3.11 2:25付 ダイヤモンドオンラインより
これは、ダイヤモンドオンラインに昨日付で掲載された記事で、このたび刊行された書籍の著者の方が、その新刊書の一部を紹介するというものです。そのなかで著者の方は、テレビを「ランダムな情報を次々くれる『魔法の箱』」と述べています。
「インターネットは自ら検索して情報を選別できますが、テレビやラジオなどはそれが難しいです。テレビをつけると、さまざまな情報が勝手に流れます。ネットは能動的に見れますが、テレビを見るとき、こちらは受動的になるしかないです」。(※「見れる」などの表現は原文ママ)
この著者の方がおっしゃるとおり、インターネットでは基本的に、自分自身で必要な情報を検索するのに強みがあるのに対し、テレビやラジオでは流れてくる情報を受動的に受け取るしかない、という特徴があります。もちろん、チャンネルを選択することはできますが、チャンネル数も限られています。
ただ、この「受動視聴」について、この著者の方は、次のように主張するのです。
「しかし、受動的だからこそ、興味の範囲外の情報を得ることができるとも考えられます。勝手に流れてくる情報を刺激にして、連想したり思い出を振り返ったりすれば、さまざまな感情や欲求が湧いてきて、思考を前に進めることができるのです」。
なるほど。
この著者の方が、テレビの受動性を逆手に取り、それをもとに湧き上がるであろう「さまざまな感情や欲求」をもとに、「思考を前に進めよう」とするのは、これはこれでひとつの考え方なのかもしれません。
もっとも、個人的には、『「長寿番組」打ち切り相次ぐ地上波テレビの将来性は?』でも紹介したとおり、「地上波テレビ」といえば例の「美味(びみ)しい」「岩倉具視(いわくらぐし)」の印象が強すぎるのですので、とてもマネすることはできないと思う次第ですが。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
さて、この著者の方は、テレビについて絶賛しているようなのですが、次のような記述を読むと、何やら微妙な気持ちになります。
「映像がどんどん移り変わるのも思考を刺激してくれてちょうどよく、とくにワイドショーはテーマが毎分変わっていきます。/また、テレビは広い視聴者層に向けて番組をつくっており、専門知識や前提となる情報を知らずとも楽しめるように工夫されていることがほとんどです。」
これって、果たしてテレビを褒めているのでしょうか?
あるいは、「『専門知識や前提となる情報を知らない』のは視聴者の側ではなく製作者の側ではないか」という疑問を持っている人がこの文章を読むと、あくまでも結果論ですが、どうもテレビに対する強烈な皮肉であるような気がしてならないのです。
View Comments (22)
>ワイドショーはテーマが毎分変わっていきます。
モーニングショーはコロナばっかりだよ。
例えば、ラムザイヤー論文とか売春婦のICJ付託依頼の話ってどれだけやってる?
国益のためにも、もっと取り上げるべきなのに過度にスルーしている印象があるよね。
この論者、テレビ見てないんじゃ無い?というか印象操作の一環でしょう。
ワイドショーほど害悪なテレビ番組はないと考えています。ワイドショーを見るくらいなら寝るべきです。寝るのがマシというように書きましたが時間の有効活用だと思います。寝付きの悪い人は隙間時間に昼寝というのは難しいでしょうが。私は寝るのが好きで三度の飯より睡眠が好きというくらいです。
人それぞれ好みがありますが、ワイドショーだけは見るべきじゃない。そう強く思います。サイトにはその辺りのことを書いた記事を貼っておきます。
ぬくぬく様へ
>ワイドショーほど害悪なテレビ番組はないと考えています。
それでもワイドショーが放送されるには、テレビ局が、これに代わるコストパフォーマンスが高い番組を見つけ出していないからではないでしょうか。また、ワイドショーに必ずチャンネルを合わせる視聴者がいるということでもあります。
駄文にて失礼しました。
返信ありがとうございます。
「存在するものは合理的である」。ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉です。
民放東京キー局が地上波で朝から晩までワイドショーを流すのはコストパフォーマンスが良いからでしょう。ワイドショー番組の制作費用がいくらかはよく知りませんが、そこそこ高い視聴率が見込めて、スポンサーウケが悪くなく、広告料の範囲内に収まるのでしょう。視聴者もワイドショーを好む人は決して少なくないでしょう。
テレビ局にとってワイドショーは合理的なのです。
しかしワイドショーが日本という国家と国民に良い影響を与えているとは私には思えないのです。政治と世論をワイドショーが歪めている_そう考えています。だから自分のブログにも新宿会計士さんのコメント欄でもワイドショーを見ないよう呼び掛けています。
私の考えはあるいは的外れかもしれません。しかし今のところはそのように考えています。
読んだけどブログのレイアウトが見辛くて脱落。
返信ありがとうございます。
うーん。レイアウトが見辛いですか。ブログの文章に対する評価以前の問題ですね。ちょっと考えてみます。変更後に見やすくなるかはわかりませんが。
このブログ、日本ブログ村ランキングでPVで5位らしいから、いっそのことここのブログ主に聞いてみたら?
ライブドアブログとgooブログは様式が違いますし、いきなり助言しろと厚顔にはなれません。新宿会計士さんも困るでしょう。
まあ色々と試してみます。
カウチポテトで書籍まで錬成できるクリエイティブ()サイコー、ということでしょうね。
卑下してる訳じゃなく、空気でアンモニア生成並みの偉業ですよ。
私が、テレビをダラダラ見てる(付けてる)時は、興味がある話題になる時を待ってるだけです。
更新ありがとうございます。
ワイドショーは見る価値ないでしょう。電気代、視能に悪い、頭脳がおかしくなる。間違った方向に誘導される。テレビを「ランダムな情報を次々くれる『魔法の箱』」と呼ぶのは、全然理解出来ません。ランダムな情報って何ですか?ガラクタ?
テレビは勝手に流れてるだけ。見たくも無いものは、遮りたいですね。興味の範囲外の情報を得て、どうするんでしょう?頭に入りませんけど(笑)。私ならボーッと眺めてるだけなら、他の事します。または休息に充てます。
テレビをながら見してて、「連想したり思い出を振り返ったりする」。コレは凄いわ(爆笑)。テレビに集中してて他の事を別枠で考えれるなんて!(笑)。「更に思考を前に進めることができるのです」。器用すぎるやろ!マルチの頭脳をお持ちなんだ。で、他人の話、聞いてる?(笑)
空気を読まない投稿です。
興味のある、テレビ番組はしっかり目を開けてみます。
特に、木、金のプライムニュースはしっかり見るように開いています。
ある日の木曜日、プライムニュースを楽しみにしていました。
カンナオト氏が出ていたので、ワタシは泣く泣くチャンネルを変えました。
私にもチャンネルの選択権が有るのを……、以下、テン、テン、テン。
いつもお世話になっております。
「テレビは知的生産に最高」の文章はアサヒ用語的には、正しい表現になります。
正確には、「テレビは白痴呆生産に最高に適している」を表します。
古い話ですが、ある評論家が「テレビは視聴者を白痴化する」といった事があります。
当時はそんなバナナと聞き流しておりました。 アリエ~ル、有り得ない。
その結果、自民党が大敗し民主党に政権移行するという日本の歴史に燦然と輝く
欠史三代を重ねたことがあり、その間に悲惨な地震による大津波が発生しました。
ふと歴史を振り返ると、前に社会党が政権を取った時は、阪神淡路大震災がありました。
この痛ましい過去から学べる事は、他国の指揮下にある政党が政権を取った場合
日本に巨大災害が起こるという事です。
地震予知はかなり難しい技術であり、来る東海・南海トラフによる地震予知が21世紀中に
完成できるとは思いません。 しかし、又マスコミに踊らされて再度他国指揮下の政党に
政権が移った時が東海・南海トラフ又は東京直下地震の起きる時だとは確信しています。
日本に巨大災害が起きる時期は、みなさんも簡単に判断する事ができます。
子供の頃はテレビばかり見ているとアホになる、勉強しなさいと言われたものなんだけど、最近は賢くなるんですか。
しかし、家内はテレビをかなり長時間ダラダラ見ますが、それほど知性が向上したようには思えませんがねー
自分はあまりテレビを見ませんが、やっぱり知性は低空飛行状態です。
結局、どちらでも同じということでしょ。
大宅壮一が「一億総白痴化」と評したのは何年前でしたかねぇ。
いや、どうせなら、徹底的に無意味で、お下品で、格調の欠片もない激烈おバカ番組が放送されるようならば、見てみたいと思いますが、今は深夜帯ですらそんな番組はなさそうですし。
結局のところ、テレビをダラダラと見て有益そうな職業って、〆切が迫っているのにネタを思いつかない売文業者くらいしか思いつきません。あとは、せいぜいコント/漫才作家くらいですね。それ以外の人にとっては、思考能力破壊装置にしかならないでしょう。
独断と偏見かもしれないと、お断りしてコメントさせていただきます。
(そう自分に言い聞かせないと、朝日新聞と同じく、自分は間違えない存在と自惚れそうなので)
本日の朝日新聞に、社外の人間に書いてもらった記事があり、(その人が最後ということもあってか)「日本のジャーナリストに対して、調査報道を社を越えて協力することで希望を見出した(意訳)」と書いてありました。しかし、調査報道は、「時間と金と人手をかけて取材しても、事実であるという確証が得られなかった」という危険(?)が伴うものです。(メディアだけでは限りませんが)朝日新聞は、(一定以上の)時間と金と人手をかけて取材してきたことを、発表せずにボツにすることが出来るのでしょうか。
駄文にて失礼しました。
最初から結論は確定しているのだから、何も問題はありません。彼らの言う「調査」は、予め決められた結論を補強するためだけのものですから、ボツなどという非効率的で非経済的なことは起こりようがないのです。そのためにこそ、「白を黒と言い繕う技術」を磨いてきたのですから。