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言論慣習法について考える

インターネット時代に必要な考え方は、「言論慣習法」です。これは、「インターネットを通じて誰もが自由に意見発信できる時代」に必要な考え方であり、具体的には、「民主主義社会を健全に機能させるための、権力者を批判する際のルール」のことです。本日は、日本のマス・メディアの状況や問題点について触れながら、普段から私が持論としている「言論慣習法」の考え方の一端を紹介したいと思います。

言論慣習法の必要性

私は、インターネット社会において、「言論慣習法」を作っていくことが大事だと考えています。

これは大勢の人々にとって「耳慣れない」言葉ですが、誰もが自由に意見を発信することができるインターネット時代において、これから必要になる考え方です。

日本国憲法第21条第1項には、次の規定が設けられています。

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

この条文は、いわば、一般の有権者に対し、「権力者を批判すること」を含めた自由を与えることで、民主主義を機能させるための条文です(著者私見)。私は、この日本国憲法第21条第1項こそが、民主主義社会の基本だと考えています。

ところで、「言論慣習法」とは何でしょうか?

これは、「誰が」「誰を」「どのように」批判する権利があるかに関する考え方です。今までの日本では、新聞社やテレビ局などの「マス・メディア」が、「言論の自由を守れ!」と声高に主張していますが、そのマス・メディア自身が一種の権力者です。

それどころか、「言論の自由を守れ!」などと主張している人たち(つまり、マス・メディア)こそが、実際には「言論の自由」を妨害しているのではないかと思われる事件が相次いでいます。

その一例が、「毎日新聞社言論弾圧事件」です。

以前、『先鋭化したメディア人らが暴走する!』でも取り上げたとおり、毎日新聞社は「真相深入り虎ノ門ニュース」というウェブ番組と、それに出演した石平氏、百田尚樹氏らに対し、毎日新聞社を侮辱したことに対する謝罪と番組の削除などを求める文書を「配達証明」で送りつけたそうです。

(余談ですが、本来、この番組の公表期間は2週間だそうです。ということは、2016年12月27日以降はリンクの閲覧ができなくなる、ということだったはずですが、新年を迎えて現在、まだこの動画の閲覧は可能です。この動画をインターネット空間に残してくださっている「虎ノ門ニュース」には、心から感謝申し上げたいと思います。)

毎日新聞社が「言論機関」でありながら、「言論弾圧」側に回ったという事実は、日本のマス・メディア史上に残る「汚点」として語り継いでいかなければなりません。そして、この事件は、「マス・メディアを批判したら、マス・メディア側から恐喝された」という典型的な事例ですが、毎日新聞社が「言論機関」として憲法第21条第1項の恩恵を受けておきながら、自分たちが批判されると「逆切れ」するという姿勢を示していることは、非常に情けない話でもあります。

その意味でも、本日は少し「時事ネタ」から離れ、「私たち一般人は、マス・メディア自身を含めた権力者を自由に批判しても良いはずだ」とする論拠を説明しておきたいと思います。

事実と意見―二種類の情報

「客観的事実」と「主観的意見」は違う!

私は「ブログ」時代から一貫して、「客観的事実」と「主観的意見」を分けることの重要性について主張して来ました。例として、次の「お天気ニュース」を読んでみてください。

「本日の石狩地方の天候は雪となり、日中最高気温は0度と非常に暖かい一日でした。」

「本日の首里地方の天候は雨となり、日中最高気温は20度と非常に寒い一日でした。」

どちらも私が冬場に、実際に目にしたことのある報道です。

冬の北海道・石狩地方は東京と比べて非常に寒いそうですが、「日中最高気温が0度」という状態は、石狩地方の人からすれば「非常に暖かい」と感じるようです。一方、同じ冬でも沖縄・首里地方は東京と比べて非常に暖かく、「日中最高気温が20度」という状態は、首里地方の人からすれば「非常に寒い」のだそうです。

ここで、

  • 「本日の石狩地方の天候は雪、日中最高気温は0度」
  • 「本日の首里地方の天候は雨、日中最高気温は20度」

は、いずれも「客観的事実」です。

しかし、「石狩地方は暖かかった」「首里地方は寒かった」という部分については、「客観的事実」ではありません。このニュースを伝えた人の「主観的意見」です。

もちろん、「お天気ニュース」を聴く人は、多くの場合は地元の人でしょう。私は、「冬場の北海道で日中最高気温が0度に上昇するのは異例の暖かさだ」、「冬場とはいえ沖縄で日中最高気温が20度にまでしか上がらないのは異例の寒さだ」、といった、「ニュースを聴く人の気持ち」に寄り添う姿勢自体は、別に否定するものではありません。

ただ、これが「政治的な話題」となると、話ががらりと変わって来ます。

「事実」と「意見」、どちらが大事なのか?

「放送法遵守を求める視聴者の会」という組織があります。

これは、評論家の小川榮太郎さんが事務局長となり、ケント・ギルバートさんや上念司さんなどの有識者が自発的に組織したもので、いわば、日本のテレビ報道が極端に偏っているという実例を集めるなどの活動をされています。

たとえば一昨年の「安保関連法制」に関し、同会が「意見」を報道した時間数を調べたところ、少なくとも日本テレビ、テレビ朝日、TBSのテレビ局は、「賛否両論」を放送した放送時間のうち、実に9割以上が「反対意見」に充てられた、と主張しています(ただし、現時点では同会のウェブサイトがリニューアル工事中らしく、該当する記事の閲覧はできないようです)。

そして、新聞やテレビが「スクラム」を組んで、一斉に政権を叩くような偏向報道・印象操作を行えば、瞬間風速的に政権支持率を10~20%程度、下げることができました(少なくとも今までは、ですが…)。

つまり、日本の問題点とは、「新聞・テレビが寡占体制にあり、有権者にとっては代替的な情報源が限られている」という点にあるのです。

「事実報道」の過ち

そして、あろうことか、日本のメディアは「事実報道」すら捻じ曲げることがあります。その典型的な事例は、朝日新聞による「従軍慰安婦問題捏造事件」でしょう。

この「慰安婦捏造事件」については、私は普段から詳細に記載しているため、ここでは説明を繰り返しません(興味がある方は『慰安婦問題を巡る本当の闘いは始まったばかりだ!』などもご参照ください)。

日本のメディアは、「客観的事実」と「主観的意見」を混ぜ込んで報道する。

目的を達成するためならば、「客観的事実」すら捏造することを厭わない。

朝日新聞、毎日新聞、TBSなどのマス・メディアの報道姿勢を見ていると、そう痛感せざるを得ないのです。

メディアによる情報独占体制

同一資本による系列支配

私が考える日本の「言論空間」における最大の問題点とは、「情報の独占」にあります。

ここで、「全国紙」と呼ばれる新聞は、日本経済新聞、読売新聞、慰安婦捏造新聞、毎日新聞、産経新聞の5紙です(ただし、これに中日新聞・東京新聞グループを含めて6紙とする考え方もあります)。そして、この5紙の系列グループと、テレビ局の「在京キー局」「在阪準キー局」とが、同一の企業集団に属しています。さらに、テレビ局グループでは、NHKという、国民から十分な監視を受けていない組織が、「受信料」という名目の、事実上の「国民からの強制的に巻き上げられる血税」によって運営されています(図表1)。

図表1 少数寡占されるマス・メディア
グループ 新聞社 在京 在阪
朝日 朝日新聞社 テレビ朝日 朝日放送
毎日 毎日新聞社 TBS 毎日放送
読売 読売新聞社 日本テレビ 読売テレビ
フジサンケイ 産経新聞社 フジテレビ 関西テレビ
日経 日本経済新聞 テレビ東京 テレビ大阪
NHK NHK総合、NHK教育

では、この構図は、いったいいつから始まったのでしょうか?

1940年体制とメディア

日本の「メディアの独占体制」の起源は、意外なことに、戦時中の「国家総動員法」にあるとする仮説を、経済学者の野口悠紀雄氏が提唱しています。同氏が執筆した「1940年体制」には、次のような記述があります。

読売、朝日、毎日の三大紙の起源は19世紀に遡れるものの、発行数と影響力を格段と増したのは戦時期の現象であるという。

実際、大新聞の現在の状況は、戦後期の統合による影響が大きい。(中略)1939年に848紙を数えた日刊新聞は、42年には54紙にまで減少したのである」。(同P5~6。なお、引用に当たっては漢数字をアラビア半角数字に置き換えている)

※私の手元にあるのは2002年12月28日発行の「新版1940年体制」ですが、現在市販されているものは『1940年体制(増補版) ―さらば戦時経済』だそうです。興味がある方はご一読ください。

野口氏の説明によれば、今日も残る大新聞は、次のような経緯で成立したのだそうです(図表2)。

図表2 新聞再編の年表
時点 状況
1939年 日刊新聞の数は848紙
1941年 「国家総動員法」に基づく「新聞事業令」の制定
1942年 「日本新聞会」が発足し、新聞統合を推進
内務省が中心になって「1県1紙主義」を推進
日刊新聞の数は54紙に減少

野口氏によると、1942年の大規模な新聞統合では、たとえば

①『読売』『報知』両紙の統合による『読売報知』、②『都新聞』を中心とした『東京新聞』、③『中外商業新報』の『日刊工業』『経済時事』両紙の統合による『日本産業経済』、④『大阪毎日』『東京日々』両紙(毎日新聞社)の題名を『毎日新聞』に統合、⑤『北海タイムス』を中心とした『北海道新聞』、⑥『新愛知』を中心とした『中部日本新聞』、⑦『福岡日日新聞』を中心とした『西日本新聞』

といった具合に、主要全国紙・地方紙の源流が形作られたとしています。それにしても、1939年時点で848紙もあった日刊新聞が、1942年時点で一気に54紙にまで減少したとは、凄い話です。

新聞は独禁法の例外

新聞が「暴利」をむさぼる構造は、もう一つあります。それが「独占禁止法(独禁法)」の例外規定です。

独占禁止法には大きく分けて、次の二つの規定があります。

  • 再販売価格の適用除外指定(独禁法第23条各項)
  • 不公正な取引方法の指定(独禁法第2条第9項)

このうち「再販売価格指定」とは、小売業者に自社商品の販売価格を強制的に守らせる不公正取引のことです。いわば、「自分の会社にとって利益が出る水準」に価格を設定すれば、販売店や消費者にその価格を「押し付ける」ことになり、経済の公正競争が損なわれます。

しかし、公正取引委員会は「書籍、雑誌、新聞、音楽用CD、音楽テープ、レコード盤」の6品目については、この独禁法の規定を除外する指定を行っています(これを「著作物再販適用除外制度」と呼びます)。

また、「不公正な取引方法の指定」とは、「このような取引を行うことは禁止する」と公正取引委員会が指定することです。新聞については公正取引委員会が「新聞業における特定の不公正な取引方法」を告示しており、新聞を定価の割引で販売することなどを禁止しています。

つまり、新聞社は「業界で談合して自分たちの会社にとって利益が出る水準に小売価格を設定する」という、非常に不公正な方法で新聞を販売し続けているのです。

そして、公正取引委員会は新聞などの著作物再販制度を廃止しない理由について、ウェブサイト上、

同制度が廃止されると、書籍・雑誌及び音楽用CD等の発行企画の多様性が失われ、また、新聞の戸別配達制度が衰退し、国民の知る権利を阻害する可能性があるなど、文化・公共面での影響が生じるおそれがあるとし、同制度の廃止に反対する意見も多く、なお同制度の廃止について国民的合意が形成されるに至っていない

とする文章を公表していますが、むしろ「再販価格維持制度を維持して自由競争を阻害することの方が、文化・公共面で悪影響を及ぼしている」という方が実態に近いのではないでしょうか?

テレビ放送の開始と系列化

戦時中の新聞社の「少数寡占体制」も大きな問題ですが、戦後、「民主化」されたはずなのに、マス・メディアだけは「少数寡占体制」を守られています。

そして、あろうことか、日本ではテレビ放送が始まって以来、大きく新聞社と同一資本の「系列局」が全国ネットを支配する、という構図が出来上がっています(上記図表1参照)。

米国などの外国で、テレビ局の「多チャンネル化」が進んでいるのと対照的に、日本ではむしろ、少数の民放テレビ局が地上波を専有しており、視聴者としては、限られたチャンネルから偏った意見を押し付けられているのが現状なのです。

インターネットの出現

ただ、こうした状況に風穴を開けつつあるのが、インターネットです。

ウェブ上には大量の無料ブログ・サービスが提供されており、今や「誰でも情報発信ができる時代」となったのです。また、私自身がやっているように、ちょっと勉強すれば、自分自身のウェブサイトを設置することで、完全に独立の「ネット・メディア」を開業することすら可能です。

じつは、この「ネット・メディア」には、開業する際に免許などは不要です。なぜなら、日本国憲法第21条第1項で、「表現の自由」は保証されているからです。

そして、ウェブの技術が発展したことに加え、ウェブ上の広告代理店業者も多数出現していることから、大した設備など整えなくても、誰でも簡単に情報発信を行うことができるようになりつつあります。

新聞とテレビが既得権益にアグラをかいているうちに、いつの間にかインターネットが出現し、新聞とテレビのビジネスモデルを脅かし始めているのです。

競争と言論慣習法

「競争」こそが「誤報」「偏向」を防ぐ唯一最大の仕組み

メディアによる誤報や偏向報道がなくならない最大の理由は、「寡占体質」にあります。つまり、情報を提供する主体が一部の業者に偏っており、業界内で「談合」をするなどの体質が根付いているからです。

朝日新聞の慰安婦捏造事件についても、事実上、業界内で「かばい合う」という体質により、朝日新聞社は守られてきました。その結果、何が発生したのでしょうか?

結果的に、「新聞もテレビも信じられない」と考える有権者が激増しただけのことです。

つまり、新聞社やテレビ局が「既得権益」を守ろうとすればするほど、自分たちで自分たちの首を絞めているのと同じ効果が出ているのです。

私は、「誤報」や「偏向報道」を防ぐための、最も有効かつ唯一の社会的な仕組みとは、「競争」だと考えています。新聞社やテレビ局が発信する情報を正すためには、有象無象のネット・メディアが、日々、新聞やテレビの捏造・偏向を記録し、糾弾し続けるしかないのです。

言論慣習法の必要性

私は、これからの時代、全ての個人が自分自身の主張を発信する機会を得る権利を持つべきだと思いますし、極端な話、日本国民すべてに、自分のウェブサイトを持ち、権力者を批判する権利があると考えています。

ただ、それと同時に、「誰を批判するか」、「どう批判するか」については、一定の社会的なルールが必要です。これが、私が冒頭で触れた「言論慣習法」の考え方です。

私は、権力者に対しては、(時として罵詈雑言も含めて)容赦ない批判をすることが許されると考えていますが、それと同時に、「権力者ではない人」に対しては、迂闊に批判すべきではありません。

ここでいう「権力者」とは、政治家が含まれることは当然ですが、政治家と同等か、それ以上の実質的な権力を持っている者も含まれるべきです。具体的には、

  • 総理大臣、国務大臣、国会議員、裁判官
  • 都道府県知事・市区町村長・地方議会議員
  • 霞ヶ関の有力官庁に勤務する官僚・国家公務員
  • 有力自治体に勤務する地方公務員
  • 社会的影響力の大きい上場大企業の経営者

らは、いずれも「権力者」です。さらに加えるならば、

  • マス・メディア(新聞社、テレビ局)

も、日本社会では立派な権力者です。これらの者に対しては、実名入りで批判するなどの自由が保障されなければなりません。

ただ、一般の個人に対しては、実名入りで批判をすると、「名誉棄損」となってしまいます。したがって、個人を批判することが許されるとしたら、その個人が言論空間で主張している内容に限って批判することができると考えるべきでしょう。

例えば、私(ペンネーム:「新宿会計士」)が執筆した文章に、理論的におかしな部分があると思うのならば、遠慮なく、当ウェブサイトのコメント欄にそのように書き込んでください。ただ、その文章の範囲から逸脱するような書き込み(例えば私の出自など)を差別するような書き込みには、名誉棄損が成立する余地があると思います。

そして、「言論慣習法」は、インターネット空間で議論をするときの一種の「常識」として、これから形作られていくものです。私は、公正で活発な議論の材料を提供することで、こうした「言論慣習法」の健全な発展に、微力ながら貢献していきたいと考えています。

新宿会計士: