今だから明かしますが、著者は今世紀初めごろ、明治生まれの親戚宅の片付けに関わったことがあります。60平米あまりの物件からモノ、モノ、モノ。壊れたステレオから有名メーカーのピアノからアンティーク家具から絵画からふとんから着物から、それこそ2トントラック何杯分かの荷物があふれ出てきたのを思い出します。なぜそんなことを思い出したのかといえば、東洋経済オンラインが1日付に配信した「とある記事」が契機です。
目次
ミニマリストという生き方
ミニマリストの生活に憧れますか?
俗に「ミニマリスト」と呼ばれる人がいます。
これは生活するうえで本当に最低限のモノしか持たないというライフスタイルを実践する人たちのことを指すようですが、最近はネットの発達のおかげか、調べたらいくらでも事例が出て来ます。
動画サイトYouTubeなどで「ミニマリスト・ルームツアー」などと検索すると色々出て来ますが、たとえば「大きな家具もなくガラーンとだだっ広い部屋に椅子がいくつかあり、押し入れに布団が入れられていて、衣類がほんの少し」―――、といった事例は、見ていて清々しいところがあります。
著者自身はさすがにミニマリストではありませんが、やはりモノが少ない暮らしというものには憧れがあります。
個人的事情をあまり詳(つまび)らかにすることは控えますが、衣類、書籍、引き出しの中の文房具などを眺めていると、ふだん滅多に使わないモノがたくさんあることに気づきます。気付いたら積極的に捨てるようにはしているものの、やはり、大物(おおもの)などについてはなかなか捨てられません。
その意味では、著者はミニマリストにはまだまだ程遠い生活を送っているのではないかと自認しています。
ミニマリストは腰を痛めません?
ただし、ミニマリスト的な生き方も、なかなかに大変です。
たとえば、とあるミニマリストの事例だとガラーンとした部屋に暮らし、PC作業は地べたで行い、寝るのは寝袋(!)、食器は皿が2~3枚(!!)とかいうツワモノもいるようであり、これはこれで腰が悪くなってしまわないか心配になります。
また、ミニマリストは非常に狭い部屋で暮らしているという事例も多いようです。
部屋が狭いのでモノを持つことができない、というべきでしょうか、ベッドと机を置いたらそれだけでもうほとんど足の踏み場もなくなるほどの本当に狭い部屋で、全自動洗濯乾燥機と日常で使用する衣類のみを部屋に置いていて、食事はほぼ100%近くが外食(かコンビニ弁当)という事例もあるようです。
(激狭物件なのに全自動洗濯乾燥機を持っている理由はよくわかりませんが、洗濯物の乾燥が終わったあとで洗濯機のなかに衣類をそのまま保管できるからでしょうか?違っていたら申し訳ありません。)
このあたり、さすがに「毎食が外食またはコンビニ弁当」というのも、長い人生で見ると結果的に健康を損ねることになったりしないか、ちょっと心配です。
モノで溢れる家庭
モノで溢れてしまうのは無意識
その一方、世の中は広いもので、ミニマリストとは対極の暮らしというものもあるようです。いわば、モノに溢れた暮らしを送っている人のことです(ミニマリストの反対語を無理やり作るなら、それはさしずめ「マキシマリスト」、でしょうか?)。
ただし、ミニマリストが「積極的にモノを持たない生活を選んでいる」のに対し、「マキシマリスト(?)」は「積極的にモノを持つ生活を選んでいる」とは限りません。むしろ話は逆で、「意識していないからいつの間にかモノが増えてしまった」というケースが多いのではないでしょうか。
すなわち、私たち現代人は、とくに意識していなければ、ともすればマキシマリストになりがちです。
昨今は物価高でさまざまなモノの値段が上がっているわけですが、それでもやはり便利な家電などが次々と発売されますし、とりわけ新しい物好きな人は、なにか便利なモノが発売されたとなれば、やはり試してみたくなることが多いでしょう(著者もそうした人間のひとりです)。
なにか新しいモノを買ったら古いモノを捨てれば良いではないか、などと思ってしまいがちですが、話はそこまで単純ではありません。古いモノも残してしまいがちだからです。そしてその結果、家の中がモノで溢れてしまう、というわけです。
家電などは生活を便利で豊かにするはずですが、(自省も込めて申し上げるならば)モノに囲まれた生活をしていると、どうしても家の中が狭くなりますし、モノがどこかに紛れてしまい、使おうと思ったときに見つからない、といった事態もしばしば発生するのでしょう。
捨てられない症候群
繰り返しですが、これはあくまでも著者の主観ではあるものの、ミニマリストとは「敢えてモノを減らして生きよう」と意識している人のことであり、大部分の人は日常生活において、とくにモノの量をコントロールしようとは意識していないのではないかと思います。
そして、これに「モノを捨てられない」という性格が加わると、なかなかに大変なことになります。
それこそ自宅がモノで溢れ返ってしまうのです。
この現象を、仮に「捨てられない症候群」とでも呼びたいと思います。
著者が最初にその現象に気づいたのは、たしか社会人になりたてのころ、とある親戚(※明治生まれ)の自宅の片付けを手伝ったときでした。
その親戚は「いつか使う」、「モノは大切に」、が口癖で、モノを捨てることを極端に嫌っていました。特に戦時中は物資不足を経験していたためか、着物・衣類のたぐいをことさらに大切にしていて、靴下や肌着なども、穴が開いても基本的には継当(つぎあて)をするなどして、徹底的に長く使い続けるという人だったのです。
ただ、時代が昭和後半からさらに平成に移ったあたりで、モノの値段が極端に下がってきたなどの事情もあってか、こうした「モノを捨てない」という性格が、仇をなすことになります。
タンスも押し入れもモノでパンパン
タンスの中身は着物や衣類がすでにパンパンに収納されており、したがって日常の衣類などはタンスだけでは足らず、押し入れにホームセンターで売っているようなプラスチック製の収納ケースがいくつも入っていて、それらの収納ケースもまた、衣類でいっぱいでした。
また、親戚・友人付き合いが多くなると、お中元やお歳暮のやり取りをすることも多かったのか、冠婚葬祭(結婚式や葬儀、法事など)に参列する機会が多く、それらの引き出物―――コップだの、タオルだの、缶詰だの、あるいは毛布だの―――が押し入れにギュッと圧縮されていたこともまた印象に残っています。
個人的には、21世紀を迎えて賞味期限が1990年代(=20世紀)の乾物などを発見したときにはそれなりに震えましたし、さすがにオープンしようとは思いませんでした。
さらには有名メーカーのピアノに加え、(きっと価値がわかる人にはわかる)アンティークな家具やカーペット、絵画などもたくさんあり、また、買ったときにはきっと最新式だったに違いないレコード・ステレオセット(※スピーカーが片方壊れていて音が出ない)なども、音楽マニアのなかには引き取ってくれる人もいたかもしれません。
もっとも、当時、その親戚宅の自治体では粗大ごみの回収が無料でしたので(※現在だと多くの自治体で粗大ごみの回収は有料化されています)、片付けに関わった一同が、主(あるじ)のいなくなった部屋から、(一部を除いて)粛々と多くの家具をゴミ置き場に運んだのです。
結局、60平米あまりの物件からは、ふとんだ、家具だといったさまざまな家財道具が運び出されたのですが、今になって思い出すと、その分量は2トントラック換算で数台分はあったのではないでしょうか。
ただ、この経験があったおかげで、「使われなかったモノは最後にはゴミ処分場に行く」という当たり前の事実に気づけたと思っている次第です。
東洋経済オンラインの興味深い記事
さて、こうした経験を急遽思い出すきっかけとなったのが、東洋経済オンラインが11月1日付で配信した、こんな記事です。
「二度と帰らない父」「どこかで踏ん切りをつけないと…」 ゴミ屋敷と化した“父不在の実家”を《勝手に断捨離》した結末
―――2025/11/01 07:00付 Yahoo!ニュースより【東洋経済オンライン配信】
記事はゴミ屋敷清掃・不用品回収の専門業者への取材をもとに構成しているものですが、タイトルにある「二度と帰らない父」とは施設に入居したお父様の事で、この記事の主人公はその息子である50代男性です。
かいつまんで紹介すると、お父様の口癖は「いつか使う」。
男性はお父様から、「いつかここに帰ってくるから、モノは置いといてくれ」と釘を刺されていたというのですが、その結果、3階建ての実家がモノで溢れ返り、階段が「通り道というよりは収納スペースと化し」ていたのだとか。
この記事はその実家がどんなモノで溢れ返っていたのか、なぜこんな状態になったのかについて、懇切丁寧に記述されているのですが、詳しくは記事を読んでいただくとして、その概要のほんの一部を抜粋しておくと、こんな具合です。
- 推定50キロはあろうかという古い金庫
- カレンダー
- スーパーのチラシ
- 額に入れられた賞状
- 掛け軸
- 阪神タイガースの記念タオルや旗
- 衣服などの不用品が入った何十個ものビニール袋
- 年季の入った大きなぬいぐるみ
- 扇風機の入っていた箱
- バドミントンのラケット
- 日本人形
…。
ではどうすれば?
音が鳴らないステレオを後生大事に取っておく
何だか、記事を読んでいて、著者自身が何十年か前に体験したことを追体験している気分になってしまいました。
ただ、記事の中でも思わず深くうなずいてしまったのが、これです。
「男性が中学生のときに使っていた、埃をかぶった、音も鳴らない壊れたステレオ」。
音が鳴らないステレオを後生大事に取っておくなんて…。
まさにデジャブです(笑)
いずれにせよ、個人的にはこの記事には共感しかないのですが、さらに深く共感したのが、男性が話したというこんな内容です。
「よくある『いつか使うから置いておく』というパターンですね。私もときどき片付けに来ていたんですが、親父は『とりあえず置いといてくれ。いつかは使う』と。かれこれ20年近くになります」。
「結局ね、片付けてもまた買うんですよ。ただ、全然使っていない、開けてもいないモノもあると思うんですよ」。
この「とりあえず置いといてくれ」、「いつか使う」、は、大変大きな罠です。
そして、たいていの場合は、絶対に使いません。
自分が元気なうちに何とかするしかないのでは?
なお、この男性の実家がどうなったのか、男性がこれにどう感じたのか、などについては記事で直接ご確認いただきたいと思うのですが、個人的な実体験に基づき指摘しておくと、この「いつか使う」はあとに残された人に大きな負荷をかけることになると思います。
昨今は粗大ゴミの処分も無料ではありませんし、実家片付け専門の業者などに依頼するのも大変ですが、それだけではありません。おそらく労働力不足は今後数年でさらに深刻化し、こうした清掃コストも飛躍的に高まっていく可能性すらあります。
ただ、こうした「モノの氾濫」に対しては、現実的な選択肢として、「使わないモノは捨てる」という当たり前のものにくわえて「自分自身がまだ元気なうちに再利用する」、などが考えられます。
後講釈ですが、たとえば音が鳴らないステレオも、ケースによっては高値で買い取ってもらえることがあるようです。
メーカー側でも生産中止などにより、部品が手に入らなくなっているためです。
また、先ほど出て来た「有名メーカーのピアノ」に関していえば、親戚宅の片付けに関わったうちのひとりが知り合いに話したところ、運よく中古のピアノ業者につないでもらい、結果的にそのピアノ業者が買い取ってくれたのだとか(しかも結構な高値で)。
もしかしたら着物や書画骨董品、あるいはアンティーク家具なども同様に、運が良ければそれなりの価格で買い取ってもらえるかもしれません(二束三文となるケースの方が多い気がしますが)。
こうした事例を踏まえると、やはり、実家の片付け問題は、早く対処した者勝ちといえるかもしれません。
要するに高値で売れるモノは早く高値で売り抜けるべきだ、ということですし、また、昨今の少子高齢化を踏まえると、実家を片付けなければならないという需要は、今後、日本全国で急速に拡大する可能性があるからです。
なぜ都内マンション価格が上がっているのか
このあたり、ちょっとした余談ですが、個人的には昨今の東京都心部の中古マンション価格が上昇している現象については、やはりいまひとつ腑に落ちない論点でもあります。
先日の『都心ファミリー物件が億ションに:港区賃料は2割上昇』などを含め、当ウェブサイトではしばしば指摘している通り、中古マンション価格に関するデータを眺めていると、とりわけ東京都心部などでの不動産価格が暴騰しています。
もちろん、これは日本全国のなかでもどちらかといえば東京都心部など限られた地域の話でもあるのですが、その反面、人が住まない住宅などが急速に増えてくれば、自然に考えて不動産価格が右肩上がりで上昇していくというのも可能性としてはさほど高くありません。
ただ、逆にいえば、高齢の親御さんが施設に入るなどし、おそらくもう人が住む見込みがなくなった物件は、速やかに片づけたうえで、売れるうちに売ってしまう、というのが個々人の戦略としては大切になってくるのではないでしょうか。
書籍データ化を阻むのは著作権法?
いずれにせよ、「いつか使う」の正体は、「いつになっても使わない」、だと思われます。
ミニマリストなみに極端に「モノを持たない生活」までする必要はないとは思いますが、やはり自戒を込めて申し上げるなら、処分できるうちにどんどんと処分する、という態度が大事ではないかと思います。
さしあたって、著者は今年、オフィスの電子化プロジェクトを開始しました。電子化できるものは極力電子化する、というもので、まず初めに紙媒体で購読していた専門紙・専門誌などの定期刊行物を電子化します(幸いながら最近だと多くの出版社がウェブ版を提供し始めています)。
ただし、プロジェクトはさっそくに壁にぶち当たっています。そのひとつが著作権法です。
たとえば、蔵書などをバラしてスキャンする行為は著作権法に触れる可能性があるため、それをそのまま進めて良いのかについてはまだ判断がついておらず、最悪、「あまりにも古い雑誌、利用価値がない専門書などはそのまま廃棄する」、などの選択肢も検討せざるを得ません。
また、捨てるに忍びない、蔵書のうち専門性が高いもの、希少価値が高いと思われるものについては、地元の図書館に対し寄贈を申し出たこともあるのですが、図書館側からはにべもなく断られてしまいました(収納力の制約もあるのでしょうか)?
このあたりは悩ましい論点です。
ですが、やはりいつかは処分しなければなりません。
あくまでも個人的な希望をいえば、個人利用、あるいは社内利用に限定する場合は、蔵書の電子化は問題ない、といった法制度を整えてほしいのですが、いかがでしょうか?
View Comments (19)
おおぅ、、まるで我が身を見ているような記事ですわw
老親と同居して介護しながらテレワークで仕事してましたが、介助や生活時間帯の都合でまとまった時間がなかなかとれず、自宅内の整理や掃除、廃棄物の処分もままなりませんでした。
(さすがに家庭のごみとかはきちんとごみ収集に出してます・・)
世話していた親は入院をきっかけに介護度が上がったため施設に入居してもらいました。
まとまった時間作れるぞー、と思い、ようやく長期計画(年単位)で整理をしようと手をつけ始めました。
親の自営業時代の事務所もあるため、商材の在庫や資材などとか、一般ごみでは出せない(産廃業者に依頼が必要)ものもあり、費用面でも悩ましいとこです。
あとは、自分の趣味で購入した大量の本(書籍や雑誌類、25年分ぐらい)も処分せねば・・・少なくとも数千冊はあろうかと・・(爆)
さてさて、せっかくの連休ですので、自宅の整理、頑張りますわ。
頑張ってください。
Googleで「自炊 著作権」で検索すると、『自分で行う「自炊」(書籍をデジタル化すること)は、自分で読む目的で、スキャナーなどで書籍を電子化する行為は、「私的使用のための複製」にあたるため違法ではありません。』と出てきます。絶対大丈夫とは言い切れませんが、自家利用ならたぶん問題ないかと。
なお、スキャンの委託を受ける=自炊代行は、著作権侵害にあたると裁判で判断されているそうです。
話がややそれますが、個人的に、小説は紙で買い続けていましたが、これは紙へのこだわりではなく単に習慣のせいです。でも最近は電子書籍に切り替えました。重くて嵩張る書籍がこれ以上増えないのは、なかなか快適です。
当サイトコメント欄の人気者で「アノニマス(本来は当て字の漢字)」というかたがいらっしゃいました。読書好きでらしたようです。戻って来てほしいなあ、あの歪み方が当方は好きでしたが(石つぶて、飛んで来そう)
阿野煮鱒さんでしたっけ。博識な方でいらしたなぁと当方も注目させていただいていました。本当に戻ってきてほしいなぁ。あと、龍さんも。
先日少し顔を出されていたような気がします。
ハンドルは違いますけど。
立花隆(NHKじゃない方)によれば、
「人間の脳はモノをインデックスとして記憶を引っ張り出す」
らしいから、記憶が増えるのとモノが増えるのは比例する要素はありますよね。
例えて言うなら、モノを捨てるのはロボトミー手術みたいなものかも。
孤独死した叔母の後片付けをしたことがありますが、ほんとトラック数台分を捨てましたね。
なんでこんなに鞄類があるのか?
あんたはイメルダ・マルコスか?
とかブツブツ言いながらえっほえっほと搬出。
実家の母も同様なのでいつかは同じ作業をするのですが、ロボトミーしてボケても困るから、ボケ防止として放置しています。
そもそも、実家には僕のガラクタが山ほどあって、捨てるな!と言ってあったのに松本零士や高橋葉介の初版本やSPI社ボードゲームを捨てられた時には大喧嘩しましたので、他人のガラクタには寛容ですわ。はい。
ネットに新サービス登場『あなたの思い出、永久保存します』
捨ててしまったら永遠に戻ってこないガラクタでも、所有者個人にあっては、ある時代を生きある空気を呼吸して来たという物的な記録です。
この新ネットサービスは、あなたが思い出の品を捨てる前に撮影した映像情報を、思い出を綴る文章とともにアップロードしていただきネット空間に永久保存するものです。同じ思い出を共有するご家族ご親戚、あるいは友人たちにだけ見てもらうための公開範囲設定機能が作り付けになっております。
時代時代の社会背景、思い出の品が販売流通していたころの各種情報を自由検索できる機能を同時提供いたします。どうか思い出を心置きなく綴ってください。不特定多数の一般読者に公開することもできます。一般公開を通じて同じ時代同じ空気を共有していた同世代のかたがたからの反応が返って来ます。新しい交友を育てるきっかけともなるでしょう。ぜひともご愛顧ください。
『あなたの思い出、永久保存します』に新規有料サービス登場
思い出の品、どこでいつ手に入れたのか思い出せない。捨てる前に詳細を知りたい。そんな所有者の願いをかなえる調査を代行いたします。
思い出の写真に写っている場所を特定もいたします。タイムスクープ社との提携を通じて時空調査員を現地に特派、今現在その場所がどうなっているかを、ストリートビューを超える解像度と精度でお客さまに提供いたします。どうかたっぷり思い出に浸ってください。
『あなたの思い出、永久保存します』に法人営業部門誕生 「社史編纂のお手伝いをします」
今日は、思い出ネット社の土師はにわ主幹に、新サービスを語っていただきます。
「企業は社員の人生ともにある社会的な存在です。長く事業を続けるにつれて時代時代に変化進化してきた製品やサービスが自然に蓄積されて来ます
「社史編纂はこれまで総務部門の閑職とみなされてきました。企業は社会活動の一翼を担ってこそ優劣を評価されるものであり、未来永劫に会社が存続するとしても、あるいは整理統廃合を通じて無念にも廃業としても、人の人生と同じく、会社の生きざま、操業の経歴は尊重され記録されなくなりません
「お客さまあってのご商売、脱腸の思いで郵送した廃業通知を目にして涙する退職者、お取引先もありましょう。退職された従業員やお取引相手を満足させる社史の編纂サービスを弊社は提供いたします。タイムスクープ社との提携を通じて時空調査員をあなたの職場に特派いたします。高解像度と精度に溢れる抜群の調査力にご期待ください」
『あなたの思い出、永久保存します』に学校法人営業部門誕生「閉校記念誌編纂代行します」
今日は、思い出ネット社の土師はにわ主幹に、新サービスを語っていただきます。
「学校は生徒学生、教諭陣たちの人生ともにある社会的な存在です。長く教育事業を続けるにつれて時代時代の社会背景・社会要請に合わせて学校事業形態は自然に変化する一方、卒業者を毎年社会に送り出して国家安寧の基礎を築いてきました
「誰もが昔は生徒でした。こんぱん少子化の流れを受けて全国で学校が閉校になっています。我が社はかつて生徒だったひと、学生だったひとたちのために、熱意を込めて教育に携わってきた教諭陣のために、学校記念誌の編纂を代行する新サービスを開始しました
「タイムスクープ社との提携を通じて時空調査員をあなたの学校に特派いたします。高解像度と精度に溢れる抜群の調査力にご期待ください」
「きっと使う!ってもの」は、要るもの
「いつか使う”かも”?」は、要らぬもの
捨てられる者にとっての「いつか使うかも?」な物は、捨てられぬ者にとっては「きっと使う!」物と映っているのです。ソースは俺。
「捨てられる者」? ああ、あいつか。捨てちゃえばいいんじゃね?
「いつか使うかも?」「きっと使う!」 いや、そりゃ本人は使えると思ってるだろーけど。取っといてもいいことなさそうだから断捨離が吉。
とか頭を巡ってました。
このニュースを思い出しながら。
https://x.com/tweet_tokyo_web/status/1983165707413271018
マジメにそう読み取っていた自分の頭が相当イカれていたことに、今さっき気がつきました。
通りすがりで絡んですみませんでした。m(__)m
「捨てられる」が可否のハナシか受動態のハナシか判然とせん表現やなとは思いながら書きましたが、敢えてそのままにしたので、正常かと思います(笑)
その捨てられる御仁はなんというか……変わりませんね。ここまでコテンパンで降ろされたらもう恥ずかしくて表を歩けないレベルかと思うのですが、まだ総理に返り咲く目がある(上に重要な局面で任せられる)と思っているとは。
早速高市方針を遥か後方射程距離外から必死の乱射をしていますし。高支持率に喧嘩を売るのは意味がわからない、と思いましたが……多分対立相手の支持率が高ければ高いほど「民草は騙されている。今こそ絶対正義無謬の俺様が正さねばねば」と燃えるんでしょーね。無敵。
ほんと、「無適(=適合しない)の人」ですね。
捨てられないモノが家の中にどんどん増えてゆくのは、「官僚は増大する」と言ったイギリスの歴史学者パーキンソンが提唱したパーキンソンの法則に似てますね。
国という家の中にどんどん増えてゆく官僚機構や外郭団体は、なかなか整理がつかないで家の中が足の踏み場がなくなるまで増えてしまうモノと同じです。
モノ屋敷は整理業者に頼めますが、増えてしまった官僚機構はトランプ大統領のように、どんなに非難されても数万人規模の公務員をバッサリと解雇するアクの強い人が出てこない限り増え続けるそうで、全力で改革の足を引っ張る官僚と官僚出身の政治家はこれからも増えてゆきそうです。
この話題の時は、のび太くんの「動かない扇風機は暑く無い日に、欠けたコップは飲みたく無い時に役立つ。」を思い出す。
この気持ちはよくわかります。
これを脱する方法は、
「困ったら、本当に必要だったらまた買えばいい」ことに気づくことです。
捨てることによるスペース確保のメリット>>>万一の買い直しに伴うコスト
に「必ずなる」ことに気づくことだと思います。
現在実行中です