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職場も選択される時代…「最近の若者は」思考の危険性

「俺たちの若いころは、そんなの、パワハラでもセクハラでもなかった」。「俺たちの若いころは、終電を逃すまで上司や先輩に飲みに付き合わされたものだ」。「最近の若者は、情けない」。職場でこんなことを述べている人はいませんか?社会の価値観はどんどんと変化しますし、あなたの記憶も美化されている可能性があります。社会人ならば、「働き手から選んでもらえるような職場づくり」が大切ではないでしょうか。

「最近の若者は」パターンAとB

まずは、次の文章AとBを読んでみてください。

  1. まったく、最近の若い男といったら、本当に情けない。体を鍛えるのも女の子にモテるためだとかいう、軟派な理由に基づくものだ。男というものは、女にモテるかどうかは関係なく、体を鍛えるのがストイックで格好良いというものだ」。
  2. まったく、最近の若い男といったら、本当に情けない。体も鍛えず部屋の中にいるから、マシュマロみたいに太ってブヨブヨだ。俺たちが若いころは、女の子にモテるために、体を鍛えまくったものだ。最近の若者は、女の子にモテたいとも思わないのだろうか」。

これらの文章A、Bは、複数の放送作家の方(どちらも故人)が昭和時代に執筆した文章を、著者自身が思い出しながら書いたものです。

「最近の若者は」、で始まる愚痴は、一説によると、古代ギリシャ時代から存在していたものだそうで、おもに中高年の人が、あるいは中高年に至らない人が自分より若い人に対し、つぶやくものとして知られていますが、大変失礼ながら、著者自身はこれについて「自分自身の体験の絶対化」の弊害だと考えています。

「あなたってゆとり世代ねぇ…」

人間、誰しも自分のことは棚に上げ、他人に対して厳しくなりがちです。こうしたなかで若い人の振る舞いを見かけたときに、それが自分自身の常識(あるいは思い込み)と異なっている際、それを批判的に眺める、というのが正体ではないでしょうか。

要するに、「自分のときはそうじゃなかったよ」、「今の若者は異常だよ」、といった発想です。

もちろん、人間というものは得てして、自分自身で体験できることには限界がありますし、自分自身が体験してきたことを絶対視するのは危険です。

ですが、「僕は若いころ、こうやって頑張ってきた」、「私は若いころ、こんな経験をしてきた」、といった自負がある人ほど、「最近の若い人たち」を見ていて、「なんだ、最近の若い人たちはそんなことも経験していないのか」といった具合に、相手を見下してしまうものなのかもしれません。

著者自身も長いことサラリーマンをやってきた人間のひとりですが、この手の「最近の若者は」、を、直接・間接に見聞きしてきました。

男性同士だけではありません。女性同士でも、20代後半の先輩が20代前半の後輩に対し、「あなたって『ゆとり』世代ねぇ」、などと愚痴を吐く、といった姿をよく目にしてきたものです(ちなみに「ゆとり」とは、「ゆとり教育を受けて来た世代の若者」という意味だと思われます)。

しかも興味深いのは、こうした愚痴を吐く人は、ときとして中高年に限られず、著者自身の目から見ても十分若者の範疇に入る人にもいる、という点かもしれません。

28歳の人が24歳の人に対し、「最近の若者は、使えねーな」、などと愚痴を吐いているのを見ると、得もいわれぬ違和感を覚えるのは、気のせいでしょうか。

若者に対する愚痴の多くは主観的

もっとも、この手の「今どきの若者は」、「最近の若者は」、などとする発言には、たいていの場合、客観的な根拠はありません。

「最近の若者」が何を意味するかはその人の主観にも依存しますが、たいていの場合はその発言者よりも若い人であり(たとえば発言者が40代であれば「最近の若者」は30代以下であることが多いようです)、また、「最近の若者は…」という愚痴を吐くのも、その発言者の主観によるものです。

冒頭に示した文章にしても、(A)の「女の子にモテたいがために体を鍛える」若い男性の何が問題なのかわかりませんし、(B)の発言者はそれとは逆に、「若い男性は女の子にモテるために体を鍛えるのが正常だ」、という意識でもあるのかもしれませんが、それもその人の価値観であり、一般化できるものではありません。

だいいち、日本国憲法を読んでも、「若い男性は女性にモテるために体を鍛えなければならない」、あるいは「~鍛えてはならない」、などとする規定は設けられていませんし、著者自身が知る限り、そのような法律は(今のところは)存在しません。

さて、ここまで読んでくださった皆様のなかには、こう感じた方もいるかもしれません。

若い男性が女性にモテるために体を鍛えるかどうか、といった極端な事例を持ち出されても、困る」。

けれども、うまく言えないが、最近の若者は私たちが若いころと比べ、たしかに弛(たる)んでいる」。

そう感じるのは、ある意味で、自然な現象だと思います。

とりわけ、昭和生まれ以上の人にとっては、こんな価値観は、ごく自然なものだったのではないでしょうか。

会社で飲み会を開催するときは、若い人ほど率先してそうした飲み会に参加すべきだし、若い人は上司や先輩に対し、積極的にお酌をして回るべきだ」。

このような価値観を持っている人からすれば、せっかくの会社の飲み会なのに、上司や先輩と交流せず、同期で固まって飲んでいる若者たちは、まことに不思議な存在でしょう。

俺たちが若いころは、嫌な上司や先輩にも、自分から積極的に声をかけ、お酌をして回ったものだ。最近の若者は、そんな当たり前のこともできないのか」。

こうした愚痴は、著者自身もよく目撃したものです。

付き合いの悪い後輩のB君が1年後、後輩のC君について嘆く

実際のところ、人間の思い出というものは、得てして美化されるものでもあるため、「自分が若いころは上司や先輩に積極的にお酌をして回った」という「印象」が自身の記憶に残っているものではないでしょうか。

著者が最初の会社で新人として勤務していたころ、Aさんという先輩がいて、毎日のように飲みに連れていかれ、終電がなくなるまで飲むということも頻繁にありました。

その一方で、著者自身が先輩という立場になったとき、B君という後輩がいたのですが、このB君は、著者自身がA先輩と飲みに行っていた頻度と比べ、上司や先輩との飲み会には、あまり積極的に参加しているフシはありませんでした。

ちなみに著者自身は四半世紀以上にわたって家計簿をつけているのですが、この家計簿によると新人時代にA先輩と飲みに行った回数は14ヵ月間で128回、使用した金額は384,262円でした。一方、後輩のB君と飲みに行った回数は11ヵ月間で26回、金額は138,506円でした。

飲み会1回あたりの金額は、A先輩のときは約3,000円、B君のときは約5,000円ですが、これは「年長者がより多くの金額を出捐する」という日本の文化に沿った現象ではないかと思われます(今になって思えば、A先輩との飲み会の回数は異常です)。

そして面白いのは、そのB君にC君という後輩ができたときの話です。

B君はA先輩や著者に対し、「C君は飲みに誘っても全然飲み会に来てくれないんです」、と愚痴っていました。A先輩や著者は、「いやいや、B君も去年は、あまり飲みに来てなかったやん!」とツッコミを入れそうになったのはここだけの話ですが、これも、人間の記憶はたった1年でも容易に改竄されるという証拠でしょうか。

いずれにせよ、著者自身は「後輩というものは、上司や先輩などとの飲み会に積極的に参加し、ノミュニケーションをすべきだ」、などと言いたいわけではありません(というよりも、個人的には「ノミュニケーション」には否定的な立場です)。

しかし、ここで申し上げたいのは、「人間の記憶は容易に変化する」という事実であり、自分自身の記憶や印象に基づいて、「最近の若者は…」などと主張することが、ときとして非常に危険である、という教訓です。

セクハラとパワハラも時代とともに変化する

こうした文脈で考えておきたいのが、社会全体の「ハラスメント(嫌がらせ)」に対する認識も変化する、という点でしょう。

とくい怖いのは、会社や役所などで人々が働く際の嫌がらせについて、著者自身の主観も交えて報告すれば、セクハラやパワハラは、それをやっている側(加害者側)とされている側(被害者側)で感じ方が違う可能性がある、という点です。

昭和時代の感覚からすれば、セクハラとは男性の上司などが(おもに若い)女性に対し、体に触ったり、性的な言動を行ったりする行為が中心だとする考えが一般的だったのかもしれません(ちなみにケースによっては、現代の感覚からすれば、それは「セクハラ」というよりも「性犯罪」に近いのではないでしょうか)。

しかし、現代では男女を問わず、セクハラの加害者にも被害者にもなり得ます。

たとえば上司が部下の男性に対し、「▼好きな女性のタイプ(容姿など)を尋ねる、▼彼女の有無や女性との交際歴を尋ねる、▼性風俗店に誘う、▼本人の容姿や性格をからかう」―――などしたら、ケースによってはセクハラに該当するかもしれません(パワハラ、という可能性もありますが)。

また、変わった事例があるとしたら、部下の女性が上司の男性(※既婚者)に好意を抱き、不倫を持ちかけるべく、積極的に接触する、といったものもあったようですが、ここまでくると、その部下の女性には上司の家庭を破壊するという点において、立派な不法行為も成り立ちそうなものです。

いずれにせよ、会社であれ役場であれ、そこで働いている人は、上司・部下、先輩・後輩という関係はあるかもしれませんが、社会人同士であれば対等である、という点に関しては注意が必要です。その職場内では「上司・部下」、「先輩・後輩」という関係にあるかもしれませんが、職場を離れたら対等な社会人同士です。

いずれにせよ、「相手が嫌がることをしない」というのは、セクハラ、パワハラなどの概念と関係なく、社会人にとってはまったくもって当たり前の常識だと思うのですが、いかがでしょうか?

セクハラやパワハラは採用難とも直結しかねない問題に!?

さて、こうしたなかで最近、X(旧ツイッター)を眺めていると、非常に興味深い意見をいくつか目にするようになりましたが、そのなかでも感心するのが、こんな趣旨のポストです。

少子化が進み、会社にとっても働き手の奪い合いが生じる時代がやってきた。こうした時代にセクハラやパワハラが罷り通っていれば、そのような会社は新卒市場で就活中の学生の間で噂になり、嫌われて忌避される可能性がある」。

この手のポストは最近になって増えてきたものですが、なるほど、興味深いところです。

先日の『雇用を無視しアベノミクスを失敗と決めつけて良いのか』でも触れたとおり、安倍晋三総理大臣(故人)が2012年12月に再登板して以降、雇用市場では「売り手市場」となり、就活生にとっても就職活動が大変にやりやすい時代が到来したといえます。

たとえば有効求人倍率は2014年6月以降、1倍を下回ったことはありませんし(図表1)、完全失業率はコロナ禍の2020年代の一時期を除き、だいたい2%で推移していて(図表2)、さらに新卒就職率もコロナ禍直後の2021年を除いてほぼ90%台です(図表3)。

図表1 有効求人倍率

(【出所】『政府統計の総合窓口』の『一般職業紹介状況』データをもとに作成)

図表2 完全失業率

(【出所】『政府統計の総合窓口』の『労働力調査』データをもとに作成)

図表3 新卒就職率

(【出所】『政府統計の総合窓口』の『大学・短期大学・高等専門学校及び専修学校卒業予定者の就職内定状況等調査』データをもとに作成)

もちろん、こうした雇用情勢の改善は、たんに日銀の金融緩和による成果と見るべきなのか、それともそもそもわが国において、働き手が不足し始めている証拠と見るべきかは、議論が必要な分野ではあります。

「俺たちの若いころは」…は厳に慎むべき

ただ、私たちが認識しなければならないことがあるとしたら、職場がギスギスしてくると、それによって働き手が逃げる可能性がある、ということです。

現在の雇用情勢、働き手にとっては「仕事は選ばなければいくらでもある」という状況から、場合によっては「選り好みできる」という状況に変わりつつある可能性もあり、旧態依然としたセクハラ、パワハラが罷り通る職場が、とりわけ若者から忌避されるようになるリスクがある、ということです。

その際、厳に慎むべきは、「俺たちの若いころはこうだった」、といった発想でしょう。

俺たちの若いころは、そんなの、パワハラでもセクハラでもなかった」。

俺たちの若いころは、終電を逃すまで上司や先輩に飲みに付き合わされたものだ」。

最近の若者は、情けない」。

いずれにせよ、この手の「最近の若者は」、で始まる愚痴は、同じ年代の人同士で飲んだ時に留めた方が良いでしょう。

そのうえで、「社会の価値観はどんどんと変化している」こと、「あなたの記憶は美化されている可能性がある」こと、そしてなにより、「働き手から選んでもらえるような職場にしていくこと」が大切であり、そのためには社会人は人間として対等であることを理解することが何よりも重要ではないか、などと思う次第です。

新宿会計士:

View Comments (14)

  • 「最近の若いやつは〜」は紀元前のエジプトの壁画にも書いてあるってネタを昔聞きました
    あと、その最近の若いヤツを育てたのは俺等の世代 というのもありますね
    事例の身体を鍛える話だと、明らかに最近の若い人の方が良い身体してますね それだけジムや各種スポーツをやる環境が整ったこと、より洗練されたトレーニング理論が普及したことによると思います
    自分も還暦間近ですが、自分らの世代は一昔前の50代後半の人とは比較にならないくらいに身体は若いです
    なので、動機はともかく貴方達世代より我々世代の方が良い身体してるぞって言われちゃいます

  • パリ五輪で日本の海外五輪での獲得メダル数が過去最多だった
    そうだが、スポーツを見てると今の若者はすごく優秀に感じる。
    団塊の世代とか団塊ジュニアは今の若者よりずっと分母が
    大きかったのに、彼らが若者の頃世界では本当に弱かった。

    • 団塊ジュニア世代です。私達が高校生の時、映画フラッシュダンスを見て文化祭でブレイクダンスを踊ったり、サーフボード担いて電車乗って海行ったり、大学生の時はスノーボードの板をゲレンデの人に見せて許可もらって端っこ滑ってた世代ですから、その子供達の世代でオリンピック種目にまでなったのは嬉しいですよ。当時はかなり白い目で見られましたからね。団塊ジュニア世代が始めたからの金メダルだと思いたいですね。ウェイクボードも白い目で見られながらやってますけど、なかなかオリンピック種目にならないのが残念。候補にはあがるのに。

  •  若いころは先輩や上司にたかりまくってました。今よりいいものを
    食べていたような気がします。わたくし、田舎者でパッパラなので妙に
    可愛がっていただきました。

     風呂無アパート、当然エアコン無。歯ブラシをポケットに複数の先輩の家に
    泊まり歩き。パンツと靴下とTシャツは会社で洗濯。

     そんな生活を続け1カ月ぶりにアパートに帰ったところ、大量のコバエが
    出迎えてくれました。速攻バルサン買って再び先輩宅に。

     先輩や上司には良い思い出しかありません。
    先輩、上司の方々。お世話になりました。有難うございました。m(_ _)m

     若者はーとか言いますけど、どの世代でも例の4っつの分類に変わりは
    無いと思います。

  •  逆レッテル貼りというか、「はえー若いのにすごいね」と言う機会は多々な私は恵まれているのでしょう。
     「モテるために◯◯」というのも、不純どころかむしろ実に純粋で力強い動機ですし、何かと逆に感じています。

  • そのうち最近のグエンさんや趙さんはけしからんとか言い始めるかもしれませんね。

  • 最近の若い世代に感じることは、スポーツを含めて各分野に大変優秀な人が目立っているのは事実なのですが、それはやはり育った環境に因るところが大きいのではないでしょうか?
    危惧される点は、このような環境に因る能力の優劣が固定化しつつあるのではないかという点です。
    若者を批判するばかりでは無く、若い人が希望を持てるような環境作りが大切なのではないかと思います。
    特に、最近の金をめぐる自民党の失態と相も変わらず頼りにならない野党が、若者も含めた国民のやる気を削いでいる大きな原因になっているのではと思っています。

  • 「最近の若者はたるんでいる」ではなく「まだまだ若い者には負けん!」と言う
    心持の方が前向きで建設的かも?とはいえ、「年寄りの冷や水」になるかも知れませんが。

  • 最近の若者は、、、は5000年前のバビロニアの記録にもあるそうで、それが真実なら人類はどんどん劣化し続けていることになります。
    まあ、言いたくなったときは何らかの認知の歪みが生じてると思って控えるのがいいですね。

    若者を新聞やネット記事でだけ捉えようとすると起こりがちな現象なことは最近感じました。
    新聞が伝統的な「最近の若者は・・・」製造機であることは自覚しましょう。

    そもそもなかなか機械のないことですが、リアルな若者と触れ合う機会があると、逆に若者の鋭さ、したたかさにハッとさせられます。そういうリアルなふれあいを意識するのが長生きの秘訣かなぁと思います。

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