新聞というアンシャン・レジームが崩壊に向かい、テレビもそのすぐ後を追うとみられます。こうしたなかで個人的に大いに期待したいのが、「本物の国民世論」の力です。改憲に強い意欲を示してきた岸田文雄首相が14日、いわゆる「裏金」事件の責任を取り、自民党総裁選に出馬しない意向を示しました。岸田首相が道筋をつけた改憲。マスコミという最大の抵抗勢力が弱ったなか、自民党は改憲発議に漕ぎ着けることができるのでしょうか。
目次
終戦から、そろそろ「平均寿命」を超える
本日、私たちは79回目の終戦記念日を迎えました。
厚生労働省『令和4年簡易生命表の概況』によると、「平均寿命」―――ゼロ歳の平均余命―――は、令和4年(=2022年)時点で男81.05年、女87.09年だったそうですので、終戦からすでに男性の平均寿命とほぼ同じ年数が経過した計算です。
また、厚生労働省・2024年12月13日付報道発表によると、日本で最高齢の方は明治41年(1908年)5月23日生まれの方だそうですが、終戦時にこの方は37歳だったという計算であり、逆にいえば、終戦時にそれ以上の年齢だった方は、現時点で生存されていない、ということです。
悲惨な戦争の記憶を語り継ぐことはもちろん必要ですが、それ以上に私たちがしなければならないことは、大東亜戦争(または「太平洋戦争」)についても、客観的な歴史として、きちんと分析・研究することではないでしょうか?
要するに、「戦争の体験は悲惨だった」、で終わらせるのではなく、同じような戦争の惨禍が生じることがないように、戦争に至るまでのプロセスを組織論としてしっかりと研究し、客観的に「いつ、なにが発生したのか」を積み上げることが必要なのです。
この点、大東亜戦争―――とりわけ対米開戦―――をさんざん煽ったのは、軍部ではなく、新聞だったとの研究もあるようですが、もしそうだとしたら、一部の新聞が終戦後、「一億総反省」などと騙り、憲法議論なども封殺するかの論陣を張っていることとも整合します。
この8年を特徴づける、新聞という権威の凋落
さて、先般よりお伝えしている通り、当ウェブサイトを開設したのは2016年7月のことですので、早いもので、ウェブサイト運営から8年が経過しています。
この8年という短い期間でも、世の中にはずいぶんとさまざまな動きがありました。
ただ、そのなかでも個人的に最も印象深いのは、新聞という権威の凋落です。
2016年当時といえば、2014年8月の朝日新聞による「吉田証言撤回」騒動(『「記事取消」から十年で変わったネットと新聞の力関係』等参照)の余韻が冷めやらない時期であり、ネット上で生じていた新聞報道に対する疑念が一般社会に浸透し始めていた時期ではありました。
ただ、それでも現代と比べて―――あくまでも著者自身の主観でもありますが―――まだまだ新聞という権威の存在は、大きかったのではないでしょうか。
「新聞に掲載されていた」というだけの理由で、人々はいとも簡単にその意見を信頼していたフシがあるからです。
その典型例が、憲法の記述です。
私たち一般人は、多くの場合、法学者ではありません。
それでも、日本国憲法第9条第1項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」を読むと、こう思うのではないでしょうか。
「日本国憲法、なにか変じゃない」?
「外国から攻められたら、どうするの」?
憲法について無責任だった新聞や野党
これに関するいくつかの新聞の社説、それから社会党を筆頭とする野党の主張は、無責任極まりないものでした。
「日本が平和を唱え、非武装を貫けば、あちらから日本に攻めてくることはない」。
「軍事基地を作れば、むしろその基地が狙われることとなり、戦争のリスクが高まる」。
「外国から攻められたときの話はしていません。戦争を禁止するのは正しいです」。
これらの一部は、現在でも一部のメディア、あるいは一部の政治思想を持つ人たちによって主張され続けています(たとえば『「もし攻め込まれたら?」という疑問に答えない人たち』などもご参照ください)。
多くの国民はこの憲法の規定にモヤモヤを感じながらも、大新聞に対しては反論するすべを持たず、こうしたモヤモヤを払拭する手段がなかったのではないでしょうか。
なお、いちおうこの憲法の規定について、それっぽい解釈を示しておきましょう。
じつは、この第9条第1項の文言自体、今から約100年前の締結された、いわゆる「不戦条約」を下敷きにしたものだと言われていて、この条約には当時の主要国(米国、英国だけでなく、大日本帝国やフランス、ドイツ、イタリア)などが参加しています。
したがって、第9条第1項自体は、この不戦条約の考えを憲法に書き込んだものだ、などと考えれば、何となく説明はつきます。そして、この不戦条約にも関わらず、自衛のための戦争は禁じられないとするのが、どうやら国際法学者の通説であるようです。
問題は、「第2項」
こうした理解が正しければ、第9条第1項の文言は、存在していたとしても、日本の安全保障にあまり実害を及ぼさない、という考え方も成り立ちます(といっても、「日本が自ら外国に侵略戦争を仕掛けるというつもりがないのであれば」、という前提条件はありますが)。
問題は、同第2項です。
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。
この条文、日本語として自然に読んだら、「第1項の戦争放棄という目的を達成するために、日本は陸海空軍その他の戦力を保持しないし、交戦権も認めない」、すなわち「戦争を行うこと自体を禁止するとともに、戦争をするための軍隊を持つこと自体も許さない」、とする規定に見えます。
もちろん、法学者や政府などの間では、この第2項の規定は「自衛のための戦争を禁止するものではない」、などとする解釈が一般的であるようですが、私たち一般国民のレベルで日本語として読むと、やはりそのような解釈は難しいのではないでしょうか。
当然、自衛隊を「軍隊」と見る人からすれば、自衛隊の存在自体が違憲ですし、外国が日本に攻め込んできたとしても、自衛隊や私たち一般国民が武器を取って戦うのも「ケンポーイハンだ」、となる可能性が高い、ということになりそうです。
こんな馬鹿げた話、あり得ません。
当たり前の話ですが、憲法は日本国民の暮らしを守るために存在するわけであって、私たち日本国民が憲法を守るために存在するわけではありません。もしも憲法が自衛のための戦争をも禁じているのだとしたら、そのような憲法の規定自体が違法ではないでしょうか。
大新聞の意見は国民の意見を代弁していない
ただ、非常に残念なことに、これまでの一部の新聞などの論調は、こうした一般国民の疑問に答えるものではありませんでした。
それどころか、国際情勢やわが国の安全保障環境が厳しさを増すなか、彼らの多くは「ケンポーマモレ」などと唱えるだけで、国防に向けた具体的な備えをすることを妨害してきます。沖縄の反米軍基地活動家らがその典型例でしょう。
あるいは、「反米軍基地」は「反原発」、「反ワクチン」、「特定秘密保護法反対」、「財政再建」などの主張をする人たちと結託している(というか同一人物がそのような主張を繰り広げている)フシが見られます。
どうして彼らは日本の防衛力を削ぎ、電力供給を不安定化させ、日本経済を低迷させようとしているのかはよくわかりませんが、うがった見方をすれば、彼らの共通の目的は「日本の弱体化」という、一種の革命思想にあるのかもしれません。
しかし、著者自身、8年あまりのウェブサイト運営を通じて気付いたことがあるとしたら、それは、「いくつかの大新聞は国民の意見を明らかに代弁していない」ということが、ネットの発展を通じて可視化されてきた、ということではないかと思います。
その証拠がいくつかあるとしたら、大新聞のX(旧ツイッター)へのポストが、最近、容赦なく「炎上」し始めている、という事実ではないかと思います。
『個人の情報が大手新聞社のそれを上回ることもある時代』でも触れましたが、トヨタ自動車の検査「不正」(?)を巡り朝日新聞が社説で舌鋒鋭く批判した直後、朝日新聞が別の記事を差し替えて謝罪した件で、山手線の駅名を冠した怪しい自称会計士のXポストが大盛況となっているというのです。
かつては大新聞に反論するすべを持っていなかった私たち一般人が、いまやXなどのネット上で、かつては大権力者だったはずの大新聞に敢然と反論することができる時代が、やっと到来したのです。
この流れはおそらく、不可逆なものでしょう。
ネット時代に大新聞の事業廃止は必然
もちろん、ネット時代になることが100%、素晴らしいことだと断定するつもりはありません。
社会のネット化が進めば、また違ったトラブルも生じて来る(かもしれない)からです。
たとえば誰もが気軽に情報発信できるSNSで、非常識な行為(回転寿司屋で醤油さしを舐める、など)の写真を投稿してしまい、それによって「炎上」し、人生が詰んでしまう、といった事例です。これなどは社会のネット化の負の側面といえるかもしれません。
ただ、ネットの進化により、私たち一般人はより気軽に政治家に意見を届けることもできるようになりましたし、より気軽に情報発信できるようになりました。マスコミが情報を統制していた時代に見えなかった「声なき声」が可視化されたのです。
実際、当ウェブサイトでも常々指摘している通り、新聞部数の落ち込みは激しいのですが、これは単純に「紙媒体」としての新聞の寿命が尽きつつあるだけでなく、これまでの新聞の報道姿勢が国民に呆れられ、見放されているという側面も強いのではないかと思います。
また、新聞購読者層は高齢化が激しく、総務省調査によれば、例えば10代の平日の新聞購読時間がゼロを記録する(『新聞は「価値がないから誰も読まないメディア」では?』等参照)など、若年層の新聞離れは不可逆的に進行中です。
こうしたデータからも、新聞は購読者数の若返りに失敗していることは明らかであり、現在のメイン購読者層である高齢層の多くがあと何年も経たないうちに購読を停止すれば、新聞事業自体が採算ラインに乗らなくなり、櫛の歯が欠けるように各社が休刊に追い込まれることでしょう。
著者自身の見立てでは、おそらく早ければ数年以内に、そこそこの規模の新聞が事業の廃止―――というか、端的に言えば「倒産」―――というイベントが発生するのではないかと思います(あるいは某実業家による新聞社買収でしょうか?)。
自民党は本気で改憲発議を!
そして、「新聞」というアンシャン・レジームが崩壊に向かい、テレビもかつてほどの社会的影響力を持たなくなっているという環境下では、「本物の国民世論」が力を持ってきます。
ここで憲法の話題に戻ります。
著者自身が政治家の皆さまに改めて求めたいのが、憲法を承認する機会を私たち国民に与えてほしい、という点です。
日本国憲法を巡って何より重要な点は、この憲法自体、私たち日本国民がただの1度も承認していない、という事実です。というのも、日本国憲法は大日本帝国憲法第73条に定める改憲手続に則って、帝国議会の賛同を経て成立したものでだからです。
大日本帝国憲法第73条
将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
もちろん、あくまでも日本国憲法は大日本帝国憲法と連続した存在であり、日本国憲法は大日本帝国憲法下で適法に成立したものであることは指摘しておきたいと思います。
ただ、大日本帝国憲法に国民投票という規定が存在しなかったがために、結果的に、私たち日本国民は憲法を直接投票で承認するという手続を行っていないのです。戦後80年近くになろうかというタイミングで、憲法改正を一度でも行う趣旨は、非常に大きいといえます。
国会が発議した改憲案を過半数の国民が認めれば、それは「日本国民が承認した条項」となります。
また、改憲案を国民が認めなかったとしたら、「現状の憲法を国民が追認した」という意味となります。
どのみち、国民が直接、憲法の一部について承認するというプロセスが踏まれるのですから、自民党は政権与党として、あるいは結党の理念に照らし、憲法改正を力強く推進していただかなければなりません。国会が発議してくれなければ、私たち国民としては、憲法にタッチできないわけですから。
そして、もし政治家が本気で政治と憲法を変えようとするならば、国民の側もきっとこれに呼応するはずです。
もちろん、日本国民にはさまざまな意見を持つ人がいますので、頑なに、「改憲には反対」という立場を貫く人もいるでしょうし、なかには「岸田文雄首相の元での改憲には反対」などと述べる人もいるかもしれません。
(※どうでも良いのですが、岸田首相は14日、自民党総裁選への不出馬を表明していますので、「岸田改憲に反対」などと抜かされていた方は、立場をどう変えるのでしょうか?気になるところです。)
しかし、まずは国会議員の「改憲勢力」が、衆参両院で3分の2以上を占めているという状況自体、国民が憲法を変えてほしいと思っているという間接的証拠です(「改憲勢力」に公明党を入れて良いのかどうか、という疑問点は脇に置くとして)。
そして、国会議員はまず、改憲案を私たち国民に提示していただきたいと思います。
個人的な希望を申し上げるなら、「戦後80年」の区切りを迎えるまでに、です。
自民党が長らく政権与党を務めたこと、そして岸田首相が改憲への道筋をつけたうえで、「裏金問題」の責任を取りいったん身を引くと決断したことを踏まえるならば、改憲発議を実現するのは現在の自民党の責任ではないでしょうか。
個人的に79回目の終戦記念日は、「改憲勢力」としての自民党の奮闘を期待したいと思う次第です。
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一般の法律を改廃出来るのは国会ですが、憲法の改正は国民投票でしか出来ません。国会議員はそれを発議することしかできません。
しかし憲法改正の国民投票は現手続きになって以降一度も行われていません。国民は70年以上その強い権限を一切行使させてもらってないのです。
選挙の棄権みたいに権利を放棄したのではありません。国会の怠慢により一度も権利行使したことないのです。これは民主主義の根幹に関わる重大な怠慢だと考えます。
私は憲法改正案件があれば改正を問う国民投票、なければ憲法への信任を問う国民投票、どちらかの発議を国会が定期的に行うことを義務付ける憲法改正が必要と考えます。定期的な発議の義務を怠った場合、自動的に信任国民投票が発議されるか、最高裁の判決により発議されるか、そんな手続きでいいと思います。法律の改廃は国会の権能のためそれを他の機関が義務付けるということは出来ませんが、憲法改正の権能は国民にあるため、怠慢があった時の手続き代行を他の機関が行っても三権分立の観点で問題になることはありません(憲法にそう書かれていれば)
まずは憲法改正の権利を権利者である国民が一切行使出来ない現状が異常と考えます。
日本って伊勢神宮の式年遷宮みたいに、新しいものにこそ力が宿るって思想を持っています。古いものを大切にするなんて段階から千数百年も前に脱した境地にいるのです。
そういう日本の思想から言えば、現在の憲法は70年間放置され、本文は質の悪い藁半紙、印字が潰れた活版印刷、国の最高法規としてはあり得ない見窄らしいシロモノです。(終戦直後という事情を汲んでも異様ともいうべき見窄らしさですよね。当時の人たちの考えは、早急な憲法全面改正だったのかと想像するくらいに)
さらに、そう言った憲法の見てくれと同様にその効果も非常に弱まっていて、解釈でなんでも出来てしまう。都合の良い時にだけ持ち出すような存在になっています。
護憲派が憲法を守ろうとするのは、そういう「弱い」憲法だからこそ好き勝手に出来るというところがまずメインなんだと思います。
もし定期的な憲法改正、信任の手続きが出来たなら、国民投票による可決があるたびに全文書き直して、日本の伝統に基づく光輝くパワーを持った憲法本文を持つのがいいでしょう。
体裁だけでなく、実質も直近の数千万人の有権者の信任を得た最強の法律。憧れます。
憲法9条を含む憲法改正はまずそう言った手続き改正の後にやれば良いのです。誰も侵略しようとは思わない強い自衛隊を持ちつつ、軍事力による紛争解決を強力に否定して、世界平和のために尽くす。そんな理想の憲法をもてるようになります。
私に言わせれば、
日本は、保守勢力が改憲(適宜変革)を目指し、革新勢力が護憲(現状維持)を目指すヘンテコな国。
「国の交戦権は”これ”を認めず」とは、侵略行為のことを指し「自衛権の行使は”これ”に非ず」です。
本来ならアメリカ依存からの脱却を主張している日本共産党こそが、自衛隊の正式な国軍化、徴兵制再導入(ひいては国民皆兵化)、軍事産業振興と武器輸出規制撤廃に一番前向きでなければおかしいんですよねえ。
彼らが共産主義を標榜しているだけのただの利権屋だということがよく分かります。
毎度、ばかばかしいお話を。
マスゴミ&野党:「終戦記念日は平和憲法を守る記念日のだから、この日に改憲を議論すること自体、けしからん」
蛇足ですが、護憲と平和を守ることは、イコールとは限らないと思うのですが。
よく考えてみれば、改憲とは憲法9条を変えるとは限らないのではないでしょうか。(共産党は、中国に倣って「日本共産党が日本社会を主導する」というふうに改憲するのなら、改憲に賛成するのではないでしょうか)
黒船が来てあっという間に「開国」したように、ミサイルが国土に落ちればあっという間に「改憲」になるだろう。
まー“黒船”くれぇなら「蚊に刺された」程度で済むか知らん(マラリアにかからんとは云うてない)けど、現代の“ミサイル”は弾頭によっては『クリティカルヒット』でっからなぁ、物理的に
まー“黒船”でも“ミサイル(弾頭問わず)”でも政治的に『クリティカル』でっけど
新聞社やテレビ局がその被害を受けたときにどんな記事を出すか見ものですね。
「撃たれるような外交をした日本政府許すまじ!」って感じですかね。
「1発までは誤射」ですよ。きっと。
>もし政治家が本気で政治と憲法を変えようとするならば、国民の側もきっとこれに呼応する
そんな気がします。政治家が信念を見せれば国民は応える気がします。
いよいよ岸田氏の馬力が憲法改正に向かうのか、と思わせる兆候が見え始めていたと感じていたのですが、残念ながら岸田改憲の芽はなくなりましたね。
敷かれたレールを驀進する上ではよい結果が残り、レールのないところでは雑な悪しき前例を作りまくったのが岸田氏の馬力だと思います。そんな岸田氏から「9条改憲を外せない」の発言が報じられたときには「おお」と思ったものでしたが。
現在の日本のサイレントマジョリティーは非武装中立論はとっくに卒業しているのではと想像します。
75年も憲法を改正せずに放置しているのは日本ぐらいです。本来、憲法も時代の変遷に合わせて適時改正すべきなのです。憲法をまともに改正できないという現状は、先祖(注)の遺訓に基づいて統治されているようなものです。
(注)当時は男性25歳以上の普通選挙であり、当時の有権者は現在100歳以上の男性になります。当時の有権者で現在ご存命の方には失礼になりますが、誇張的な表現としてご容赦下さい。
もう『終戦記念日』云うの止めまへんか?
『終戦』してへんから連合国軍の一翼やった露助は南侵してきよったわけやし、ガメた領土まだ返しやがらんし
せいぜいが「日本国の政治的主導層が敗戦を公式に受け入れた日」ちゃいますん??
敗退を転進云うたり窃盗を万引き云うたり
売買春を援交やらパパ活ママ活云うたり、言の葉エエように使うてナンや直視避けるの、必要なトキもあるやろけど真面目に“コシカタフリカエリユクエヲウラナ”おうとするトキは言霊に振り回されよんちゃう???
知らんけど
新鮮な視点でニヤリとしたのですが、
日本の視点で終戦記念日、戦争が終わっているのに日ソ中立条約に違反してソビエトロシアが樺太千島列島へ侵略してきたことを鮮明に示すことができる『終戦記念日』にはそれなりの意義がありそうです。
露助への大意はヨーソローなんスけど、
時系列では
8/9にソ連が中立条約破棄対日参戦、日本側会議中に長崎被爆報告入る
8/14に日本が連合国へポツダム宣言受諾通知(ココまでの数日でアメリカ側と内容についてヤリトリ有り)
8/15日本で玉音放送
8/16日本が陸海軍に停戦命令
9/2降伏文書に署名
ナンで、国内的に象徴的に玉音放送の日を『終戦記念日』とするのは“気分”としてはワカランでも無いけども現実的には終戦しとった訳や無いし、ロシアが露助と貶されとるんは停戦仲介を打診してくる相手に対して一方的に中立条約を破棄して参戦したンとポツダム宣言受諾通知後も南侵止めんかったンが『ヒトとしてどないやねん(怒)』的感情を想起刺激したんちゃいますか?
「もうやめやめ負けやぁ」て両手挙げたて“即ノーサイド”やないから「合理的にヤラしい」ヤツらと相対するうえでも『終戦』ちう“言霊”にハマり過ぎんほうがエエんちゃうかなぁ…と
知らんけど
まずは危地田氏がいなくなりありがたい
米国の大統領選にわずかに先行する総裁選
しっかりと国益を守れる人物を選出してもらいたいと希望します
この期に及んで党内力学が優先されるのであれば
レンホー氏を笑ってる場合ではありません
九条だけを改憲しようとするから盲目の信者がガミガミと五月蠅いのであって、いっそのこと前世紀の憲法ぜぇ~んぶ見直しってことで如何でござんしょ。
岸田首相が改憲とは口では言っておりますが、実際には岸田氏本人は安倍元首相と違い改憲には否定的だと思います。
安倍さん暗殺後の政権運営で改憲を唱える議員への締め付けが行われ、第二次安倍内閣以前にまで改憲の気運は後退したと思っております。
外的要因なしでの改憲には早くて5年遅ければ10年くらいはかかるほどに、岸田首相は自民党を「左旋回させた」首相だと思っております。