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「妥協点を探ること」も政治家にとっての「実務能力」

実務社会では落としどころを探る実務能力こそが大切です。こうしたなか、X(旧ツイッター)では、とあるユーザーの方が「ゴミ処理場の建設」を例に、とある政党が住民運動に入ったところ、妥協点を探ろうとする動きが潰れてしまい、最終的には住民にとって最悪の結果に終わったとする事例を書き込んでいるのを発見しました。政治的な妥協点を導くには実務能力が必要だということがよくわかる事例でしょう。

「利害調整」、あるいは「妥協点を探ること」

実社会において非常に大切な考え方があるとしたら、そのひとつは、「利害調整」、あるいは「妥協点を探ること」だと思います。

私たち人間というものは、欲深い生き物です。

「同じサービスを受けるなら、払うおカネはできるだけ少なくしたい」。

「同じおカネを払うなら、できるだけ多くのサービスを受けたい」。

おそらく多くの人が、日々、そう思って生きていることでしょう。

ただ、たとえばサービスを提供する側は、どう思うでしょうか。

おそらくは上記とは逆の現象が生じます。

「同じサービスを提供するなら、もらうおカネはできるだけ多くしたい」。

「同じおカネをもらうなら、提供するサービスはできるだけ少なくしたい」。

日常生活でさえそうなのですから、人間社会は放っておけば、あちらこちらでもめ事が起こるはずです。

法律は利害調整の手段のひとつ

私たち人類は、そうならないように、もめ事ができるだけ起こらないようにするために、あるいはもめ事が発生したときに、できるだけ円滑にそれが解決するように、さまざまな工夫をしてきました。

「法律」は、その典型的なものでしょう。

私たち日本人が暮らすこの日本社会は、民主主義社会であり、日本国籍を持っている成人であれば、誰もが選挙での投票権を持ち、自分の意思で好きな候補者に票を投じることができます。そうやって選ばれた国会議員が多数決で法律を作り、この社会はそれらの法律で運営されていきます。

私たち日本人は、自分たちの手で選んだ代表者たる国会議員が作った法律をちゃんと守らなければなりませんが、もしも現在の法律や政治に不満があるならば選挙で意思表示し、野党に政権を交代させることも可能です(事実上、現時点で政権を担い得る野党があるかどうかは別として)。

そして、法律は多くの場合、対立する利害を調整するためにできており、とりわけ経済社会の実情にあわせ、社会的弱者に配慮することで、より社会正義を実現しやすくする、というものもあります。

たとえば民法の世界では、誰かの過失で他の誰かが損害をこうむった場合、損害をこうむった人が損害を与えた人を訴えることができると規定されています。

ただし、その場合には、損害をこうむった人が、損害を与えた人に過失があったことを証明しなければなりません。現代のように製品、サービスが高度に複雑化してくると、一般消費者が製造した人などに過失があると訴えたところで、その因果関係などを証明することが難しくなることもあるでしょう。

そこで、現代社会では「製造物責任法」(俗にいう「PL法」)という法律が制定されています。

製造物責任法第4条

前条の場合において、製造業者等は、次の各号に掲げる事項を証明したときは、同条に規定する賠償の責めに任じない。

一 当該製造物をその製造業者等が引き渡した時における科学又は技術に関する知見によっては、当該製造物にその欠陥があることを認識することができなかったこと。

二 当該製造物が他の製造物の部品又は原材料として使用された場合において、その欠陥が専ら当該他の製造物の製造業者が行った設計に関する指示に従ったことにより生じ、かつ、その欠陥が生じたことにつき過失がないこと。

法律の条文にある「前条の場合」とは、メーカーなどが自身の製造物で他人に損害を与えた場合には賠償しなければならない、という規定であり、この第4条では、わかりやすくいえば、そのメーカー自身が「我々には過失がない」と証明できなければ、自動的に賠償責任を負う、という仕組みです。

こうした法の在り方を、俗に「挙証責任(立証責任)の転換」、などと呼ぶこともあります。

(※なお、PL法に関連し、以前の『法的制裁受けないマスコミだが…経済的制裁は下るのか』には、読者コメント欄では「低レベルなコメントを規制せよ」などとして、ちょっとした「炎上」状態となっていましたが、当ウェブサイトでは「コメントのレベルが低い」というだけの理由で、コメントを排除したりはしませんのでご安心ください。)

そして、こうしたPL法も含め、現代社会のさまざまな法制度は、対立する利害をうまく調整し、国全体としてより発展していけるようなことを意図しているのです。

このPL法の場合も、メーカー等にとってはコスト負担要因ですが、消費者の側にとっては「安心してモノを買うことができるようになる」という意味では多大な恩恵をもたらすものですので、経済学的には、PL法が立法として正しいかどうかは、メーカーにとってのコストと消費者の利便の天秤で測られるべきでしょう。

あちら立てればこちら立たず:

いずれにせよ、現代社会においてはさまざまな利害対立が生じていて、それらの利害は「あちら立てればこちら立たず」、といったものでもあります。こうした利害対立においては通常、「すべての当事者を完璧に納得させるような解決策」というものはありません。

したがって、立法にせよ、労働運動にせよ、当事者にとって必要なことは「こちらの要求がすべて通らなかったとしても、どこまでであれば納得ができるのか」、といった「落としどころ」を、常に持っておくことです。

たとえば賃上げでいえば、労働者側が経営者側に要求するときは満額を伝えておきつつも、労働者側としては、「いくらの上昇ならば納得できるのか」のイメージを持っておくことは必要でしょう。

ただ、一部の政党や勢力は、非常に残念なことに、こうした「妥協を探る」ということができないようです。

これについてX(旧ツイッター)でちょっと興味深い話題を発見しました。当ウェブサイトではとある理由があって、該当するポスト自体を埋め込むことはできませんが、ポストした内容自体は至極真っ当なもので、文体を整えて箇条書きで引用すると、それはこんな趣旨のものです。

私がむかし住んでいた場所で、ゴミ処理場の建設計画が持ち上がったことがあった

住民からは反対運動が起きたが、その反対運動の初期には「ゴミ処理施設も生活には必要なものだから、住民側としても処理場周囲の環境など、運営に意見を申し立てることができるようにするうことを条件に、建設を認めるべきではないか」、といった意見もあった

しかし、反対運動に外部から●●党が入り込んできて、「徹底抗戦」が至上命題化してしまい、運動は敗北に終わり、結局、地域住民はゴミ処理場の運営にいっさい関与できない状態で決着がついてしまった

●●党(など)が(運動に)入ってくると、「妥協点を探る」という選択肢がなくなってしまうため、結果的に住民側が損をする。これは沖縄の基地問題でも同じようなことが起きているのではないだろうか

じつは、この「オール・オア・ナッシング」式の解決策は、多くの場合、交渉当事者にとって最悪の結果をもたらすことがあります。

ゴミ処理場云々の件については、その時点の社会情勢なり、他所のゴミ処理施設の稼働状況なり、あるいはその時点の法律・条例なり、といった条件にも依存するのでしょうが、あくまでも法的には要件を満たせば建設が可能でしょう。

だからこそ、住民運動のなかでも「ゴミ処理場を建設するならば、ゴミ運搬車の往来による交通安全の確保、ゴミによる悪臭対策などにはちゃんとコストをかけること」「運営時間などに配慮すること」、といった「条件」を付けて建設を認めるべきだ、といった意見が出てきたわけです。

もしも住民側と行政側が、こうした妥協点をしっかりと探ることに成功していれば、もう少し住民の利益にも配慮した運営形態が実現していたかもしれません。

政治家に求められる実務能力とは?

この点、おもに左派系(や一部自称保守系)の政党を眺めていると、「交渉の進め方」ないしは「仕事の進め方」に稚拙さがある、といったケースは、ほかにも数多く見られます。

当ウェブサイトでは常々、政治家には「人々のために仕事をするぞ」という熱い志もさることながら、冷徹に物事を進めていけるだけの実務能力が必要だ、と指摘してきました。

ここでいう「実務能力」には、たとえば法律、経済、金融、会計、税法などの専門知識であったり、語学力であったり、人脈・人間関係の構築力であったり、と、さまざまなスキルが含まれます。

定期的に芸能人や作家、作曲家などが「著名人である」というだけをウリに新党を作ったり、選挙(国会議員選挙や都道府県知事選挙など)に出たりするケースもよく見かけますが、現実問題として、それで当選したとしても、こうした実務能力がネックとなるケースは多いでしょう。

いずれにせよ、選挙では「知名度」などではなく、「実務能力」のある人物を確実に選び出せるようになるかどうかは、私たちの社会の成熟度を測るうえでのメルクマールのひとつなのかもしれない、などと思う次第です。

新宿会計士:

View Comments (14)

  • このごみ処理場反対運動に外部から入ってきた○○党は、自分たちの支持者向けの運動、あるいは党内向けの運動をしているのであって、ごみ処理場自体には興味がなかったのでは、ないでしょうか。

  • >じつは、この「オール・オア・ナッシング」式の解決策は、多くの場合、交渉当事者にとって最悪の結果をもたらすことがあります。

    但し、対韓国を除く。

    擦り合わせて得られた妥協点を繰り返し台無しにしており、
    擦り合わせし直して新たな妥協点を見出したところで、
    再び台無しにするであろうと合理的論理的に導き出されるので。

    なお、眺めていると「正義」を抱き締めている連中には妥協が出来ない人が多いですね。

    • 追記です。

      結局、妥協点を見出せない相手には「丁寧な無視」最善なんでしょうね。

  • リベラル野党は如何にして日本の足を引っ張るかを考えて行動しています。
    そして支持者も日本が落ちぶれていく様を見て喜んでいます。

    岩盤支持層だけを見ているので与党と妥協などしよう物なら全力で叩かれます。
    だから全力反対しか選択肢がありません。
    そしてその様を見ている最大派閥の無党派層はドン引きします。

    日本には数多くの解決しなかればいけない問題が山積していますし
    与党自民党は腐敗し解決できません。
    ですが妥協を許せないリベラル野党が勢力を握り続ける限り政権交代はやってこないでしょう。
    お先真っ暗です。

  • > 政治家に求められる実務能力とは?
    私は最近、岸田はこの「調整能力」の天才ではないかと思うようになってきた。
    (天才は言い過ぎかな)

    政治を前に進めるために、左派・右派のそれぞれの意見を取り入れて政策を実現していると思う。そして、左派・右派、両方の意見を取り入れるために、左派からも右派からも嫌われる。それが支持率低下の原因の1つじゃないかと思う。

    ただ、実際、彼がやってきたことを振り返ってみると、左右バランスよく、やることはやっているように思う。そう言う意味だとちょっと可哀そうな首相なのかもしれない。もう一期くらいやらせてもいいように思う。

    • それって単なる八方美人では?

      マキャヴェッリが君主論で「ダメなリーダー」の例に挙げてますよね?

      • 無能なくせに国民大多数の反対意見を無視して推進する暴走機関車よりも
        八方美人の方が害が少ないかも

  • 非科学的な政治闘争化したので交渉を打ち切ったゴミ処理場側の判断は、ある意味正しいのかも。

  • 「私は間違っていない。間違っているのはあなたです。」
    現実を直視しない人や国に共通していますね。
    怖い相手にはおとなしいのも共通しています。

  • まさにその通り。
    日本はいつまでも意固地にならず、韓国に対して歩み寄りを見せなければなりません。

    • 溺れている韓国を棒で叩ける距離まで近付くんですか?

      そんな非人間的な韓国仕草は、人間たる日本には出来ないですねぇ。

    • あなたの文章で、「日本」と「韓国」の場所を入れ替えてみると良いですよ。

  • *妥協は打算に非ず。

    政治における調整能力。これ即ち、「打算力」だと思っています。
    かつての安倍総理が得意とした「三方良しの提言」のことですね。

    双方が納得のうえでの決着に導く打算。
    渋々と不本意ながらの決着とする妥協。

    岸田総理においては、「任期の長期化に伴い存在感を示しつつある」外交然りですね。

    但し、対韓外交においては解釈の余地なく後者でしかないんですよね。
    「ドロー試合?」の起点を与えるだけの愚行であり、意味がありません。