日経の報道によると、信越化学工業が半導体素材の供給を目的に、国内に約56年ぶりに新工場を作るそうです。民主党政権時代の円高や無策でエルピーダメモリがみすみす経営破綻に追い込まれたことを覚えている身としては、なかなかに感慨深いものがあります。報道が事実だとして、同社の意思決定に円安が関わっているのかについてはよくわかりませんが、昨今の円安が同社の決断の背中を押した可能性はあります。
目次
悪い円安論
「悪い円安論」とでもいえばよいのでしょうか、最近、巷間で「円安が日本経済にとっては望ましくない」とする主張を見かけることが増えているように思えます。
この手の「悪い円安論」、主張はわりとシンプルで、「円安で日本が貧しくなっている」などとするものであり、たいていの場合は日銀の金融緩和を問題視する、「日銀が金融緩和を行ったから円安になり、日本人が貧しくなった」などとする論調とセットです。
調べてみると、今から約2年前に記事も発表されているようです。
円安はいいことずくめと思う人が気づかない視点/国民生活の圧迫だけでなく企業の為にもならない
―――2022/02/06 8:00付 東洋経済オンラインより
記事を執筆したのはさる高名な「経済学者」の方ですが、「「輸入価格上昇によって消費者物価の高騰が懸念される」などとしたうえで、「円安が国民生活を圧迫しているという声が強くなってきている」、などと主張するものです。
立論としてはずいぶんと雑な「悪い円安論」
この「経済学者」の方が執筆したこの手の論考が、世の中の「悪い円安論」のだいたいのスタンダードとなっているようであり、上記論考を読めば、「悪い円安論」に関する議論は尽くされていると思います。とても噛み砕いた言葉でいえば、こんな具合です。
- 現在の日本は輸出で儲かる国ではなくなっている
- 円安になっても輸出はさほど伸びない
- それどころか、輸入品物価が上昇し、国民生活は貧しくなる
…。
失礼を承知で申し上げるならば、立論としては、大変に雑です。
結論からいえば、この説明は、円安による効果を半分も説明していないからです。
当ウェブサイトでは先日の『【総論】円安が「現在の日本にとっては」望ましい理由』などを含め、これまでに繰り返し述べてきたとおり、円安には、少なくとも大きく見て次の5つの効果があります。カッコ内の「+」はプラス効果、「ー」はマイナス効果を意味します。
円安がもたらす効果
- 輸出(+)
- 輸入(ー)
- 輸入代替効果(+)
- 外貨建資産(+)
- 外貨建負債(ー)
資産効果を無視する「悪い円安」論者たち
円安になれば、円建てで見て同じ値段だったとしても外貨建てにすれば値段が下がるわけですし、外貨で見て同じ値段だったとしても円建てにすれば値段が上がるわけですから、から、「円安で輸出が伸びる」「円安で輸入がし辛くなる」、の部分については、何となく想像がつくところです。
これに加えて、「輸入代替効果」というものも無視できません。これは、「輸入品が高くなるため、国産品への需要が高まる」という効果であり、円安が長期化すれば製造拠点が日本国内に戻ってきて、日本の産業がさらに潤う要因となり得ます。
これに加えて「悪い円安論者」がなかば意図的に無視しているのが、「資産へのプラス影響」「負債へのマイナス影響」です。
1ドル=75円のときに取得した1万ドルの外貨建ての金融資産は、円建てで見た帳簿価額(取得原価)は750万円ですが、1ドル=150円の時代になると、外貨建ての帳簿価額を円換算したら1500万円に膨らみます。これが資産効果です。
しかも、この状態だと単なる「含み益」ですが、現実にはこの金融資産からは利息・配当収入がもたらされることが一般的です。利回りが3%(つまり毎年300ドル)の収入がもたらされ続けているとすると、1ドル=100円の時代の利配は3万円ですが、1ドル=150円になると利配は4.5万円に膨らみます。
この点、日本は国を挙げて外国に対し巨額の債権を積み上げていて、とくに外貨建ての資産(対外証券投資や対外直接投資)からは巨額の含み益が発生。これらの資産から上がる利息・配当収入も、日本経済を潤しています。
しかも、日本は国を挙げて、あまり外国から金融負債を調達していないという特徴もあるため、資産のプラス効果は非常に大きく出る一方、負債のマイナス効果は、ほとんど生じません。
大変失礼ながら、現在の「悪い円安論者」の皆さまから、こうした「資産効果」や「負債効果」に関する説明を聞くことは、ほとんどありません。単純にその論点を「知らない」のならば勉強不足であり、「理解していて無視している」のならば悪質です。
日本の産業構造的に円安メリットは「すぐには」生じ辛い
さて、「悪い円安論者」の皆さまが資産効果、負債効果を無視しているフシがある、という点については問題なのですが、その一方で、輸出入に関する効果に関していえば、必ずしもピント外れとはいえません。
この点、日本は最終製品の組立工程が海外流出してしまっており、ちょっとやそっと円安になったところで、輸出産業はあまり潤わない構造になっている、という点については事実だからです。
これに加えて日本は最近、労働力不足、電力不足などの問題もあって、輸入代替効果がそこまで発生するのかは疑問です。
とりわけ「電力不足」に関しては深刻で、製造拠点もそう簡単に外国から日本に戻って来られるという状況にはありません。民主党政権時代の「負の遺産」として、原発の多くが止まってしまっているためです。
これに加えてエネルギー(石油、石炭、LNGなど)については「輸入代替効果」が働かないため、円安はガソリン価格などの高騰をもたらし、物流コストなどを通じてストレートに日本経済に打撃を与えている、という側面があることも、間違いないところです。
ただ、上記の議論は、あくまでも「かつてとくらべて現在の日本には円安メリットが生じにくくなっている」、というだけの話に過ぎず、それらも結局は程度の問題ですし、最近だと中国、東南アジアなどにおいても人件費の高騰が生じているという事情は見逃せません。
また、幸いなことに岸田文雄政権下で日本は徐々に原発再稼働・新増設などの方向にエネルギー政策の舵を切り始めています。
もしも東京電力・柏崎刈羽原子力発電所の7つの原子炉が完全に運転再開すれば、稼働率70%と仮定しても年間で500億kWh(日本の発電量の5%弱)が生み出されるでしょう(これに加えて福島第二原発の廃炉についても、是非、撤回してほしいところです)。
こうした「正しい政策」が推進されるという前提下ではありますが、やはり日本が今後、モノづくり大国としての地位を取り戻していく可能性は間違いなくあります。
TSMCの新工場で熊本県は好景気
そもそもこの「失われた30年」を通じ、「川下産業」も日本から失われてきたことは間違いないのですが、その反面、「川上産業」――半導体製造装置や中間素材などを含めた、「モノを作るためのモノ」――については、比較的しっかりと現在の日本に残っていることを忘れてはなりません。
じつは、川下産業自体を復活させることは、あまり難しいものではありません。もともと大した産業がない国であっても、発電所と工場、労働力などさえあれば、製造拠点は比較的簡単に作ることができるからです。
しかし、川上産業は、そういうわけにはいきません。そもそも日本には金型を作る町工場を含め、産業の裾野が非常に広いのですが、こうした川上産業を、産業の蓄積がない国に「移植」するのは、なかなかに難しいからです。
こうしたなかで、川上産業がしっかりと残っている現在の日本に、川下産業が復活してくることは、悪い話ではありません。
最近だと台湾の半導体メーカーであるTSMCの工場が熊本に進出した、とする話題があります。もちろん、このTSMCの新工場については、「円安が原因で日本に進出を決めた」、というものではありません。日本企業などが工場進出を希望し、日本政府が補助金などを使って誘致した、という経緯もあるのです。
ただ、このTSMCの工場のおかげでしょうか、現在、熊本では時給が上昇するなど、さっそくにこうした「TSMC効果」が生じているとも耳にします。
ちなみにこのTSMC効果に関しては、『熊本「半導体工場」巡る支離滅裂で強烈な読者コメント』などでも紹介したとおり、当ウェブサイトでは(おそらくはTSMCの半導体が最新製品ではないことを)強く批判する支離滅裂な読者コメントがわいたこともあります。
半導体には「自動車用」などの需要がある、という事実を知らない、明らかに半導体産業に関する素人的なコメントで、思わず苦笑してしまいそうになります。
信越化学の新工場
それはともかくとして、日経電子版に8日夕方、こんな記事が掲載されていました。
信越化学、半導体素材で56年ぶり国内新工場 供給網強化
―――2024年4月8日 18:15付 日本経済新聞電子版より
日経の報道によると、信越化学工業が約56年ぶりに、群馬県に半導体素材の新たな製造拠点を建設することが、8日に判明したのだそうです。あわせて三井化学も山口県の拠点で増産体制を整える、などとしています。
日経はこれについて、もともと日本には半導体の製造装置、素材などで高いシェアを誇る企業が多い、などとしつつ、戦略物資として各国が半導体産業の集積を進めるなか、「日本でも素材まで含めたサプライチェーン(供給網)づくりが本格化する」、などとしています。
報道が事実であれば、何とも感慨深いものがあります。民主党政権時代の2012年、円高放置や民主党政権の無為無策などの影響もあって、エルピーダメモリが経営破綻したことが思い出されるからです。
当然、これらの企業による、「製造拠点を日本に設ける」とする決断に、円安がどの程度の影響を与えているかについては、現時点ではよくわかりませんが、想像するに、昨今の経済安全保障、セキュリティ・クリアランスなどの流れだけでなく、円安などの経済情勢もこれらの企業の背中を押した可能性はあります。
そうなってくると、次の課題は労働力とエネルギーの安定供給でしょう。
国策として、原発再稼働・新増設を進めよ
このように考えていくと、正直、日本政府は、インバウンド観光業などをいつまでも誘致・振興しているべきなのでしょうか。貴重な労働力は、本来ならば半導体産業や金融業などの「カネを稼げる産業」に振り向けるべきではないでしょうか。
また、せっかくの円安メリットをさらに生かすため、国策として、原発再稼働・新増設を進めるべきです。
原発についても、まずは東電・柏崎刈羽原子力発電所の再稼働を急ぐとともに、福島第二原発の廃炉撤回、次世代炉の新増設などを含め、エネルギー政策を大きく見直していくべきではないか、などと思う次第です。
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円安円高関係なく、有事に備えて日本国内で砲弾などの軍事消耗品を生産する必要がでてきたのではないでしょうか。(半導体も、このなかに含まれるのかもしれません)
蛇足ですが、今は軍製、民生部品の区別が困難になってきています。
海外生産させればなんだってそれが正解なんだ、それこそがスマート経営の証だという時代がかつてありました。でもそれは終焉を迎えつつある。コロナ禍でそうとう懲りたでしょう。国際分業が機能しなくなる瞬間、それは空理空論杞憂ではなかった。わが目で確かめた。考えを改めるひとがもっと増えるといいですね。
光栄の信長の野望や三国志をしてたら共感出来ると思うのですが、国内に投資して供給能力を上げる富国強兵こそが国家運営の基本だと思うのです。
戦後の国家運営は、すべての内製化でした。
戦略物資も工業製品も製作機械も食料もエネルギーもすべて内製化を目標に国家運営していました。
今みたいに、財政健全化などというものを目標になどしてませんでした。
バブル崩壊後の政策失敗とクソみたいな目標のせいで円高になり、企業は生産設備の国外逃亡を積極的に行いました。
簡単にいうと
“日本のお金で中国の設備投資をして国力増強した”
ということです。
しかし、今は円安でしかも人件費は相対的にやすくなりました。
今こそ国内に工場を建て生産設備を新規につくるのに国が補助金を出して国内回帰の流れをつくるべきです。
何故国が金出さなあかんねんと思うかも知れません。
しかし、工場の国外逃亡は国の政策失敗のせいです。
ならば、詫び石出してでも国内回帰してもらうのは国の責任ともいえます。
期間限定とか早い者勝ちとかするのもいいかも知れません。
台湾の経済 Youtube チャネルで登壇者がこんなことを言っていました。TSMC 進出にあって日本人の雇用水準を調査した。こんなに安い給料で働いているのかと分かってびっくりした。円安が進むとますますそんな発言が増えるでしょうね(ぐぬぬ)
これをして日本の経済新聞社は「安いニッポン」と読者を誹るんでしょう。いつものことです。
こんなに安い給料で、普通の生活が出来るなんて、ジャパンミラクルだ!という捉え方もある。
こういう観点から、記事を書けるようになれば、会社に頼らないジャーナリストになれるんだろう。
外資からすると少ないドルでより高い日本人を雇うことができる。日本進出がブームになるはずです。逆の側面は低賃金労務者を海外から仕入れてオペレーションコストを下げているブラック企業ブラック産業に今後人が寄り付かなくなることです。本国への送金額が細り続けますから。
バブル崩壊後の日本で。
企業は人件費の高騰を理由に人件費低価格化の政策を要求しました。
単に為替の結果だというのに。
運送業も規制緩和で、昔は高給取りが今は低賃金の過酷労働です。
今は人手不足となってますが、昔はこの人手不足をホワイトカラーとブルーカラーの賃金格差圧縮で乗り切りました。
しかし、今は外国人労働者受け入れなどと愚策をすすめています。
氷河期世代の労働者を見なかった事にしてます。
給料さえ上がれば新規加入労働者来ると思うのです。
>今こそ国内に工場を建て生産設備を新規につくるのに国が補助金を出して国内回帰の流れをつくるべきです。
経済産業省発行の「産業立地政策について」のp3に「令和2年度、令和3年度補正予算により動き出している主な国内投資案件」が紹介されています。
https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/chiiki_keizai/pdf/023_02_00.pdf
かなりの案件が国の補正予算で後押しされています。案件は全国各地に分散していますから、それぞれの地域経済に寄与すると思われます。
また、この資料のp4、p5は国内回帰、国産回帰に関するページです。海外調達または輸入品の利用がある企業の4割が、国内回帰または国産回帰を実施・検討しており、その理由の一位が「安定的な調達」、二位が「円安」とのこと。円安は国内/国産回帰を後押しする、と言えるでしょう。
興味深いのは、p13の民間企業等の要望・課題に「(高度)人材不足を嘆く声もある」こと。これから国内に出来る工場は、単に労働者の頭数を揃えれば良いものではないのでしょう。九州大学や熊本大学はTSMCとも連携して半導体分野の強化を図るようですが、他の分野でも、関係する大学、企業が連携して人材育成が強化されると良いですね。
ニセコの地価上昇率が6年連続全国1位。
ニセコのアルバイト時給が2000円超え。
これみんな円安と外国人のおかげじゃないの?
ネットニュースの知識なんで、話半分で聞いてください。
あれは、日本の銀行はあれはバブルだと金を貸さず、外国の銀行は商売のチャンスだと金を貸すので 狭い土地を外国企業が投資競争してるので値上がりしてるみたいです。
バブルか優良投資先かは時間が来ないと結果はでませんが。
>」しかし、川上産業は、そういうわけにはいきません。そもそも日本には金型を作る町工場を含め、産業の裾野が非常に広いのですが、こうした川上産業を、産業の蓄積がない国に「移植」するのは、なかなかに難しいからです。
町工場はこの手の企業の眼中外です。 この手の金型企業は強いて言えば自動車産業の●×九州では3次.4次企業相手です。 かつてテルモ相手の岡野さんとかがいましたが、品質維持・納期厳守が製造業です。
製造業と伝統工芸(家庭内)工業を混同している日本人がいることに違和感があります。 少し前、菅前首相が進めていた中小零細下請け企業の統廃合はここを打破するものだったと思います。
円高で輸入品が安くなる事での豊かさなんてのはまやかしですし、日本経済に円高が良いなら、90年代以降にもっと経済成長してます。
そもそも資源や食料の価格は日本だけ安い、高いも輸送費や税金以外はありません。我が国の付加価値の源泉は結局労働力だけなので、その競争力は結局円が安いか高いかだけの話。
単純に円高で我が国の高付加価値の製造業が儲からず、設備投資も増えず、更に雇用も不安定化し、賃金も増えないから、消費も盛り上がらなかった。
もし円高にすれば経済成長すると言う人は、アメリカみたいに日本の家計が借金してまで、ひたすら消費する様になるとでも思ってるのでしょうか?
ちょっとモノが高くなっただけで消費を減らす日本人には無理ですよ。
今起きてる輸入品の物価高など所詮は日本円の中での調節に過ぎないのに騒ぎ過ぎなのです。長期的に外貨不足や自由貿易が崩壊したりしない限りは中立的で損も得もありません。
なので素直に円安を受け入れて、労働力の安さ。武器に輸出主導の経済成長に回帰すればいいだけなのです。
追記
よくある反論として円高、円安関係なく儲かるモノを生産すれば良いと言う反論があります。
既に国内生産が残ってるモノはほぼ円高、円安関係ないモノしか残ってません。自動車ですらほぼそうです。
最近は各国がキャッチアップしてきて競争になり始めてるモノも増えてきてます。
この円安で安定したキャッシュが維持され、設備や研究開発に投資を続けられる事のメリットの方が次世代を考えるなら遥かに大きい。
競争が激しい時代になってるからこそ、今ここで円高にしてキャッシュを減らすのは自滅するだけなのです。