例年この時期になると、そろそろ年賀状のことを考え始めるという方もいらっしゃるでしょう。ところが、来年、つまり2024年(令和6年)用の年賀はがきの当初発行枚数が、13年連続で減少した、とする話題が出てきました。前年と比べて2億枚減少し、14.4億枚となる予定なのだそうです。仮に年に1.5~2億枚のペースで発行枚数が減っていけば、2031年から33年ごろには、年賀状の発行枚数がゼロになるという計算です。
目次
年賀はがき、20年で3分の1に!
年賀はがき、13年連続で減少
例年、この時期になると、年賀状に関する話題を目にするようになります。
こうしたなか、産経ニュースが8月31日付で配信した次の記事によると、来年、つまり2024年(令和6年)用の年賀はがきは11月1日から来年1月10日までの期間、発売され、配達の受付開始は12月15日を予定しているのだそうです。
令和6年用年賀はがき、13年連続減 14億4千万枚
―――2023/8/31 21:50付 産経ニュースより
ただ、「当初発行枚数」は14.4億枚で、2023年(令和5年)用と比べ、当初発行枚数は2億枚減少しました。減少率に換算したら12%あまりです。
では、年賀はがきの発行枚数は、どう推移してきたのでしょうか。
日本郵政のウェブサイトなどから過年度の年賀はがきの「当初発行枚数」を調べてみると、図表1のとおり、データで遡れる2003年以降で見ると、過去最高だったのは2004年の44.5億枚でした。
図表1 年賀はがき発行枚数実績(当初発行枚数ベース)
(【出所】日本郵便ウェブサイト・過年度プレスリリース等を参考に著者作成)
つまり、2024年と2004年を比べると、発行枚数は30.1億枚減少年賀状の発行枚数は、この20年間でざっと3分に1にまで激減した格好です。
年賀はがき・当初発行枚数
- 2004年…44億4780万枚(A)
- 2024年…14億4000万枚(B)
- A-B…▲30億0780万枚(C)
- C÷A…▲67.62%
- 年平均…▲1億5039万枚=(A-B)÷20年
(【出所】日本郵便ウェブサイト・過年度プレスリリース等を参考に著者作成)
このままだと2030年代前半にはゼロになる
しかも興味深いことに、この20年間、年による多少の変動はあれ、傾向として見たら、ほぼきれいな右肩下がりです。2004年以降で見ると、2008年と2009年、2011年に関しては前年比で増えているのですが、これらを除くとすべての年において「前年割れ」を起こしています。
結果的に、2004年から2024年にかけて、年平均で約1.5億枚ずつ減少している、という計算です。
このままでいくと、年賀はがきは最終的にどうなってしまうのでしょうか。
仮に、①2023年と2024年の差分、すなわち2億枚ずつのペースで減っていった場合、②2004年と2024年の差分(30億枚)を20年で割った1.5億枚ずつのペースで減っていった場合、年賀はがきはあと何年で消滅するのでしょうか。
結論的にいえば、2030年代前半にはゼロになります。具体的には、予想①だと7年後の2031年、予想②だと9年後の2033年に、ほぼゼロに近くなる、という結果でした(図表2)。
図表2 年賀はがき発行枚数がゼロになるまでの予想年数
(【出所】日本郵便ウェブサイト・過年度プレスリリース等を参考に著者作成。ただし、予想①は2024年の枚数が毎年2億枚ずつ減少するとした場合、予想②は2024年の枚数が毎年1.5億枚ずつ減少するとした場合)
なぜ減ったのか?
社会のペーパーレス化とインターネット化
もちろん、この計算は、非常に乱雑なものです。
今後も同じペースで減り続けるとは限らないからであり、何らかの要因があって年賀状の「良さ」が見直され、今後、年賀状のやり取りが増えるという可能性だってゼロではないからです。
ただ、正直、年賀はがきの発行枚数が「増える要因」というのも、なかなか難しいところです。当ウェブサイトの勝手な仮説ではありますが、年賀はがきの発行枚数が減って来た理由は、少なくとも2つあるからです。
仮説のひとつは「社会のペーパーレス化とインターネット化」という月並みなものですが、もうひとつは2003年に施行された個人情報保護法にあります。これについて、順番に見ていきましょう。
このうち「社会のペーパーレス化とインターネット化」に関しては、理由としては非常にわかりやすいでしょう。
『新聞部数が急減するなかで地方紙も「値上げラッシュ」』などを含め、当ウェブサイトでもしばしば取り上げているとおり、同じ「紙媒体」でいえば、新聞の部数が急減していることもまた事実でだからです。
一般社団法人日本新聞協会が発表する『新聞の発行部数と世帯数の推移』のデータをもとに、2022年までの過去5年間における部数減の年平均値を求め、これが今後も続くと仮定した場合には、朝刊は2036年頃に、夕刊はそれより前の2030年に、それぞれ部数がゼロになるはずです(図表3)。
図表3 新聞部数の実績値と予測値
(【出所】一般社団法人日本新聞協会『新聞の発行部数と世帯数の推移』データをもとに著者作成。ただし、「朝刊部数」は「セット部数」+「朝刊単独部数」、「夕刊部数」は「セット部数」+「夕刊単独部数」を意味する)
これによると、新聞部数のうち、とくに夕刊部数がゼロになるタイミングが、年賀状がゼロになるタイミングとほぼ一致しているというのは、決して偶然であるとも思えません(※余談ですが、新聞朝刊に関しては2035年ごろまで残るとする予測も、やや楽観的すぎるかもしれません)。
個人情報保護法の影響は?
ただ、年賀状の場合はもうひとつ、当ウェブサイトの勝手な仮説ではありますが、「個人情報保護法」との関係についても触れておく必要があるかもしれません。
昭和時代や平成時代前半ごろまでの社会を知る人にとっては、出す年賀状の枚数は人によっても異なっていたと思われるものの、一般的な勤め人であれば、数十枚から数百枚(あるいはそれ以上)、といった事例もあったと考えられます(※個人的実体験などによります)。
ではなぜ、そんなにたくさんの年賀状をやり取りする必要があったのでしょうか?
これも仮説ですが、おそらくは親戚、友人だけでなく、「義理」での年賀状のやり取りが多かったのではないかと思います。学生ならば同級生や部活・サークルの先輩・後輩に、社会人ならば上司・同僚・部下・取引先などに、それぞれ年賀状を出していた、という仮説です。
これに関しては、会社や学校では一般的に、個人の住所や電話番号などを掲載した名簿が作られ、配布されていたことを思い出すかもしれません。勤め人の多くは自分の会社の上司や同僚などに年賀状を出していたのではないでしょうか。
ただ、こうした名簿の作成が、個人情報保護法の施行によって、難しくなっているようなのです。
名簿作成自体が難しくなっている
そもそも個人情報とは、いったい何なのか――。
政府広報オンライン『「個人情報保護法」をわかりやすく解説 個人情報の取扱いルールとは?』によると、個人情報とは「生存する個人に関する情報」のことで、具体的には氏名、生年月日、住所、顔写真など、「特定の個人を識別できる情報」のことをさします。
そして、現代社会では、個人情報などの機微な情報に関する管理には神経質になっているフシがあり、とくに大企業では役職員の自宅住所・電話番号などの管理には厳格であり、また、学校においても、在校生や卒業生の個人的連絡先を記した書面を全校生徒などに配布することは、あまり行われていないようです。
たとえば、『あしたの人事オンライン』というウェブサイトの『社員名簿とは?保存期間や個人情報取り扱いの注意点を解説』という記事によると、「社員名簿」(※)は「誰でも閲覧可能な状態では問題」があり、「アクセス権限は特定の社員(※)に限定すべき」、との見方が示されています。
(※どうでも良い話ですが、ここでいう「社員名簿」、「社員」とは、おそらくは「従業員」ないし「役職員」などの意味での誤用と考えられ、それぞれ、「従業員名簿」、「従業員」などと表記すべきでしょう。)
また、『リーガルチェック学校法務』というウェブサイトの『クラス名簿の作成・配布に関する法的問題について』という記事によると、たとえば私立学校で「氏名や連絡先を記載したクラス名簿を作成してクラスの保護者に配布すること」は、本人・保護者の同意を得なければ難しい、との見方が示されています。
ただ、それでも個人情報保護法から20年が経過しようとするなかで、「自身の住所を誰かに教える」という行為自体がハードルの高いものとなっていることは間違いなく、こうした年賀状の風習も、急速に廃れていく可能性は濃厚です。
ネットの活用で年賀状のやり取りは減っている
このため、現代社会に生きる私たちは、「通学先や勤務先からもらった名簿をもとに年賀状を送る」、といったことは、難しくなっているのが実情でしょう。必然的に、年賀状や暑中見舞い、寒中見舞いなどを取り交わす相手は親戚や仲の良い友人などに限られてくるのです。
しかも、スマートフォンなどの普及により、本当に仲が良い人同士ならば、年1回の年賀状のやり取りではなく、普段からLINEなどでメッセージを交換し合っているものでしょうし、最近だとウェブ会議ソフト(FaceTimeやZoom、WebEx、Microsoft Teamsなど)も充実しています。
たとえば都会で暮らす子供が田舎の両親にウェブ通話し、画面越しに孫の顔を見せながら近況を報告し合う、といったことも増えているようです。コロナ禍の影響もあり、日本全国で往来がほぼ途絶していた、といった事情もあるのですが、それ以上のウェブ技術の進歩は、やはり社会の在り方を変えたのでしょう。
それに、働き手不足などが指摘される昨今の社会情勢にあって、年賀状の販売ノルマや正月の配達などで、貴重な働き手である郵便配達員のリソースが浪費されるのは、社会的に見れば、無視できないほど大きな損失ではないでしょうか。
年1回くらいは書面を交換しても良い…かも?
もっとも、ここから先は個人的な感想ですが、著者自身、本当に大事な相手であれば、年1回くらい、はがきに近況をしたためて送り合うことは、決して悪い話ではないと思います。
『筆ぐるめ』の『意外と知らない年賀状の起源と意味を解説!』という記事の説明によると、もともと年賀状自体、新年の挨拶回り(いわゆる「年始回り」)に代替する、いわば一種の「略儀」として広まったものだそうですが、それでも普段滅多に会えない人から年1回くらい書面が来るのは、ちょっとした楽しみでもあります。
年賀状の風習がどうなるかについては、来年の正月、すっかり少なくなった年賀状を眺めながら思索を巡らせてみても良いかもしれません。
View Comments (33)
おはようございます。
年賀状は業務上、無いと困る郵便システム維持会費と考えて少数ですが購入、発送してます。
市民の署名活動をして、行政機関に陳情して出来た施設に閑古鳥が鳴いているのを見るに、署名した市民は定期的に入場料金払って利用すべし、と思う。
五輪を莫大な費用をかけて開催しても、新たに造られた施設が有効に利用されないなら、誘致活動もすべきではないと思います。
神事的、フェスティバル的なもので寄付金勘定なのかと一旦思いましたが通信費に該当するようですね。
元旦の朝、少し雪の被ったポストから大量の年賀状を取り出す瞬間は格別なものです。
SDなんとかには反しますがたまにはデジタルデトックスでアナログ的な習慣も良いのかもしれません。(デジタルを誇りアナログを貶す某国民には馬鹿にされそうですが)とはいえ新聞同様、廃れていく風習であると。
ところでその辺の人が63円で購入し100円で転売し差額を利益にしたら古物営業法違反になるのに郵便局員の自爆営業は認められていたことは役所の許認可の強さを感じさせるできごとです。
上納金的であり反社会的な臭いがプンプンするので最近は辞めたと聞きました。
昔話になりますが、元日になった瞬間に、「あけましておめでとう」メールを大量送付する個人が、結構な人数現れて、当時のプロバイダから「止めて」という声があがったのを、思い出しました。
死んだ人が、「私死にました:」と通知してくれる訳はなく、残された親族が通知する範囲は、必ずしも死んだ当人の交際範囲と一致しない為、ネット上にpingコマンドがある様に、実社会でも相応する機能が必要なのかも。
親族が、亡くなった人の年賀状を見て死亡の連絡をくれます。そういう時は、その人との関係や思い出を思い出して暫し感慨に耽ります。そういうことも、年賀状の果たす役割かもしれないですね。
年賀状は始めるのは容易いが、止めるのは少し難しい。知人に年賀状は、一切出さない人がいた。来ても返事は出さない。では、この年賀状の遣り取りをしない主義の人に、何故年賀状が来るのか?何某かの名簿に載っているからだろう。昔は、社員名簿があったので上司や先輩や同僚には出さなければならなかった。皆、そうしているから、自分だけしない訳にはいかない。上司は返事を遣すが、先輩の中の横着なのは、後輩に返事は遣さない。こんな、年賀状の物語りも、名簿の廃止と共に無くなるのだろう。年末年始の忙しい時に、年賀状は面倒くさい。住所が分からなければ、出す必要がない。個人情報保護がうるさくなったのは良かった。
ただ、仕事では年賀状は必要だ。年賀状で仕事か来るきっかけになる事がある。一旦切れた仕事が復活することもある。年賀メールではこの効果は薄いかもしれない。
案外、紙の年賀状の習慣がしぶとく残り続けるのは、ビジネスの世界かもしれない。
>年賀状で仕事か来るきっかけになる事がある。
>一旦切れた仕事が復活することもある。
寡聞にして知りませんが、こんな話聞いたことないわ。
裁量出来る立場だと、年賀状一通でも、そう考えるものです。
匿名さん
一般的に、平社員でも自分の裁量で仕事をしているものです。
仕事は、いろんな関係で成り立っているものです。
関係は、「きっかけ」で始まるものです。「こともある」という表現は、きっかけのことをいうのです。
こういう「きっかけ」の無い仕事や生活や人生って、どんな硬直的な生き方をされているのでしょうか?
仕事も人生もドラマチックなものなんですけどね。
そして、ドラマは「きっかけ」で出来ているんですよね。
そして、年賀状は、「きっかけ」になり得る一つの機会だということです。
詰まらぬ仕事をし、詰まらぬ人生を送っておられるんですか?お気の毒さま。
それから、これは自分の経験を書いているのです。
実際に、仕事を貰ったこともあるし、出したこともあります。
仕事は、いろんなことが「きっかけ」になるから、面白いですよ。
まあ、年賀状一つでも、実際の仕事の成果に繋げるぞ、という気合をもってやっているか、ということです。
そのような気合を持っていれば、道を歩いていても仕事を掴むことが出来ます。
年賀状という「虚礼」は廃止しておりますので。
悪しからず。
最後の一文に貴方の性格のすべてが現れておりますなァ
くわばらくわばら・・・
>寡聞にして知りませんが、こんな話聞いたことないわ。
自分の見た事聞いた事しか、この世に存在しないと思うあなたには、教育の成果は期待出来ないのかな?
>最後の一文に貴方の性格のすべてが現れておりますなァ
くわばらくわばら・・・
>そっくりお返ししますよ。wwwww
正に盛大なブーメランを体現してますね。
そもそも自分が聞いたこと無いから、という理由で人の発言をケンカ越しに否定するのは如何なものかと。
世の中自分の知らない事の方が圧倒的に多いと思いますよ。
本文の趣旨とは違いますがちょっと面白かったので。
寡聞にして知らない、という言葉は「聞いたことない」という意味ですよ。
>自分の見た事聞いた事しか、この世に存在しないと思うあなたには、教育の成果は期待出来ないのかな?
そっくりお返ししますよ。wwwww
人が真面目に書いている事に、茶化した言葉でしか返せないのは、ちゃんとした教育の成果があるのかな?と。
マトモな人は、
寡聞にして知りませんが、本当の話ですか?
と聞く。
最近、このサイトでは、変な言葉遣いで書き込みする人がいなかったので良かったと思っていたので、残念ですね。
人格の話に転化されてしまった時点で、実りのある議論にはなりませんね。
ちなみに話を戻しますと、
・近隣の市場ではある作物の値段が暴落
・年賀状だけ程度の付き合いになってしまった地方の市場では値が付くらしい
・久々に取引再開
という事例は近所でありました。ビジネスなんて、大企業が行う億単位の商取引に限りません。「なんだそんなショボイの」と言われるかもしれませんし、別にビジネス書で成功事例として紹介されるような話ではありませんが、個人事業においては数千円だって立派なビジネス、上手くすればそこから拡大もありうる、てところですね。
「こんな話聞いたことないわ」は匿名様にとっては事実かもしれませんが、わざわざ返信コメントで否定するほど強く反応する意味はちとわかりません。
御節料理も物流の発達によってか、本来の必要性は失われつつあります。しかし「年明けにはやっぱりおせちが食べたい」という需要はまだしばらく根強そうですし、同様に年賀状も風物詩としての価値がどこまで認められ続けるかが、減少が止まるラインになるかな。ウチのような田舎ではまだまだ「餅つき」も残っています。
ジャパネットのおせち料理の注文が始まりましたね。
我が家では「誰があんなもん注文してるんだろう」と言っています。
うちで正月らしいことと言えば元日と2日の朝のお雑煮くらいかな。
夜は元日からやってる居酒屋があるので夕食はそこに行きますが、混んでる。入り口にあるリストに名前と人数を書いて待つことが多い。
かく言う私も、個人では御節は全く買わず、実家に集まるのに惰性で注文しているようなもの、沢山ある品数もさらっと味わったらもういいよ、という感じではあります。慣習、お付き合い、雰囲気……と、年賀状と同様に、不要でも購入・利用する人が多いということは、根付いているとも取れますし、消滅したらしたで寂しい感はあります。まぁ無駄な慣習や迷信、縁起担ぎを愛でる程度の余裕があるのは良いことですしね。
しかし御節は許容しても、恵方巻きは忌避感があります。個人的には伝統でも慣習でもなく雰囲気も感じませんから。たけぇし。
農民 様
恵方巻は1970年代から80年代にかけて大阪で発生した習慣だと聞いたことがありますが、これについては真偽のほどはわかりません。
ただ、少なくとも怪しい某自称会計士の場合、節分に巻き寿司を食べていた記憶もあるものの、80年代の神戸に限定していえば、「恵方を向いて巻き寿司を食べる」という習慣はありませんでした。
クラスで大阪から転校してきた同級生が「大阪では節分に南南東を向いて巻きずしをかじるんやで」、などと述べていた記憶ならありますが、記憶は非常にあいまいです。
あるいは関西のローカル情報番組が恵方巻を取り上げたのをきっかけに、神戸でも恵方巻が広まった、ということなのかもしれません。
といってもこの怪しい自称会計士はハンバーガー評論家であって巻き寿司評論家ではないため、詳しい事情については存じ上げませんが…。
関西の情報ありがとうございます。某コンビニチェーンの販売戦略だった等の噂は聞きますが、自分が長野で過ごしていた分には、初めて認識したのは2000年代以降だったように思います。
恵方バーガーだったら神代からの伝統だろうが昨日造ったキャンペーンだろうが、喜んで乗っかったのですが。バーガー無言で一気食いは死者が出そうな気もするのでアレで良かったのでしょう……
おせち料理はここ数年注文するようになりました
年末年始くらいしか会えない遠方の姻族を訪問する際手をかけさせないがため、という側面が多分にアリマスる
まーコンナ奴も居るとゆーコトで
ナニワの三津の中心地にサホドトオカラジ地域にてワリカシ長く生育いたしましたが、恵方巻きはカナリ歳かさなってから「コンナン有るらしいで」「今年はやってみるか」てな導入で何年か経つとやや定番そのうちにまあまあ定番となりおおせたかに思われマス
勿論スーパー小売店寿司屋etc.の商売上の展開も強かろうとは思いますが、今にして思えば「イベントにカコツケテ夕食の準備が多少楽になる」的なエサ係の実利的期待にリンクして拡がった側面も有るやに思われマスる
まー白い日みて~なモンでもありやしょうざ
「都合が良いから」は、商業では立派な存在理由ですね。昭和の頃は、まさに正月の手抜きと休店対策であったと思いますし。ただ恵方巻の方は、廃棄があまりに多いとかの側面がどうにも。
バードカフェおせちがもう10年以上前……だと……
大量廃棄は大量消費社会における売り手側の機会損失回避指向の裏返しでしょうね。
核家族共働き家庭の割合推移とリンクさせられるような資料無いかしら?
恵方巻きについては、大量廃棄や自爆営業といった情報から正直あまり良いイメージを持てない点は有ります。
出自が怪しいことと、ブラックな販売方法については何となく相関性を感じられます。
部活が一緒というだけで、さほど仲良いわけでもない異性からイラスト入り直筆メッセージが貰えたなんて、今後の人生で有り得ないでしょうね。ちょっと大袈裟ですが、一生の思い出です。
これは、心が揺れました。
素敵な思い出をありがとうございます。
敬称が抜け、大変申し訳ありません。
へちま→裏縦貫線様の詩情に寄せて 様
思い出を共有いただき、ありがとうございますm(_ _)m
(隣国大統領の年賀)
文:北に宛てた「金(キム)が信念」
尹:日に宛てた「金(カネ)が信念」
・・。
年賀状は
1年にたった1回 どんなに疎遠でも関係を維持できる可能性があるツールですよね
普通に、無茶苦茶コスパが良いビジネスツールじゃないですか
逆に
年賀メールはスパムと変わらんから やるべきじゃないね
むしろヤメロ
わたしにとって年賀状は、今や生存確認の意味合いが大きくなりましたw
時折届く喪中葉書に衝撃を受け、狼狽えます。