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ネット時代の「エコーチェンバー現象」とその実例とは

新聞、テレビを中心とするマスコミ・オールドメディアの社会的影響力が低下したことで、私たち一般人は情報の多様性と情報の双方向性という大きな武器を手に入れました。特定メディアの囲い込みによる認知の歪みのリスクから解放されたのです。ただ、それと同時にインターネット言論空間においても、考え方が先鋭化するリスクは存在します。それが、エコーチェンバー現象です。

オールドメディアとともに暮らす風景

社会のインターネット化が進んだことの大きなメリットといえば、なんといっても、新聞やテレビといったオールドメディアなしで、世の中のさまざまな情報を知ることができるようになったことにあります。

わかりやすく、たとえば昭和末期から平成初期にかけての一般家庭の様子を振り返っておきましょう。

一般家庭ではたいていの場合、お茶の間ないしリビングルームにテレビが1台設置されており、日刊新聞を購読していたのではないかと思います。

つまり、たとえば「夜はテレビの報道番組などでその日の話題を速報的に知り、翌朝の朝刊でそれらの話題の詳細を読む」といった活用法により、速報性に優れたテレビと詳報性に優れた新聞の長所を両方に活用していたのです。

また、これらの情報について、より深く知りたいという人は、ラジオ放送を聴取したり、週刊誌・月刊誌などの雑誌を購読したりしていたかもしれません。ラジオだと映像がないかわりに運転中や料理中などに聞くことができますし、雑誌だと速報性はありませんが、ひとつの話題を深く知ることができる、という長所もあります。

こうしたテレビ、新聞、ラジオ、雑誌のマスコミ4媒体の長所と短所をおおざっぱに列挙すると、図表のようにまとめられるかもしれません。

図表 マスコミ4媒体の特徴(長所と短所)
メディア 長所 短所
テレビ 映像と音声で情報をいち早く知ることができる 放送時間の制約があるため詳しく知ることは難しい
新聞 文字と写真で情報を詳しく知ることができる 印刷時間の制約があるため速報性には欠ける
ラジオ 音声のみであるため運転中や料理中などに聴取可能 映像がないため想像力を働かせる必要がある
雑誌 ひとつのテーマについてより深く深く知ることができる 週1回、月1回などと刊行頻度が低い

©新宿会計士の政治経済評論

オールドメディアに欠けるのは「情報の多様性」「双方向性」

ただし、これら4つの媒体に共通する欠点があるとしたら、「情報の多様性」と「双方向性」に乏しい、ということが挙げられます。

このうちとくに「情報の多様性」に関しては、オールドメディアの性質上、仕方がないものです。

通常の家庭だと、テレビは一家に一台です。まれに自分の部屋にもテレビを置いている、という人もいるかもしれませんが、テレビは決して安い機械ではありませんので、やはりリビングルームなど、家族が集まる場所に設置するのが通例ではないでしょうか。

そうなると、複数のチャンネルの放送内容を同時に受信して比較する、といったことは、非常に難しくなります。最近だと、機種によっては複数チャネルを同時に映す機能もありますが、昔のチャンネルを回す方式のアナログテレビだと、基本的には同時に複数チャンネルを視聴することはできなかったのです。

このため、たとえば選挙速報などのように、「複数の媒体の情勢調査をチェックしたい」と思った場合には、放送時間中にチャンネルをガチャガチャ回さなければなりません(ガチャガチャ回している途中でテレビの調子が悪くなる、といった現象、個人的には「懐かしい」と思ってしまいます)。

また、新聞に関しても同じことがいえます。新聞の購読料も安くはありませんので、通常は一家庭につき一紙だからであり、同じ話題に関してほかの新聞がまったく異なる内容を報じていたとしても、そうした多様性に接することはできなかったのです。

つまり、かつては新聞社やテレビ局がユーザーの囲い込みをしやすい状況にあったのであり、実際、少なくないユーザーが少ない新聞社、テレビ局に「囲い込まれていた」のです。

しかも、私たち一般人は、オールドメディアの情報を「受け取るだけ」であり、私たちがそれらの情報に対しどう思ったか、それをオールドメディア側に伝えるすべがなかったのです。これが情報の一方通行性です。

ネットの出現で、状況は大きく変わった

これらのすべてをガラガラと変えたのが、インターネットです。

そもそも論として、インターネットは新聞、テレビの長所をすべて備えており、かつ、これらの媒体の欠点を補っています。それが「情報の多様性」と、「情報の双方向性」です。

たとえば昨日の事例でいえば、「アゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフに侵攻したらしい」という話題については、映像や音声で情報をいち早く知ることができる(テレビ並みの速報性)のほか、アゼルバイジャンとアルメニアの関係、ナゴルノ・カラバフの歴史的経緯などについても深掘りすることが可能(新聞並みの詳報性)です。

しかも、新聞、テレビと異なり、インターネット空間の場合は、情報はリアルタイムにどんどんと膨らんでいきます。

現代だと新聞社、テレビ局だけでなく、雑誌社、通信社、あるいは「インフルエンサー」と呼ばれる個人など、さまざまな情報発信者が競うようにしてインターネット空間に情報を流しています。

情報の流通を担うのは、X(旧・ツイッター)などのSNSであったり、新聞社、テレビ局、雑誌社などが運営するウェブサイトであったりしますし、日本だと『Yahoo!ニュース』あたりのポータルサイト、ニューズサイトであったりしますが、最近だと個人が運営するブログ、ウェブ評論サイトもそれなりに力をつけています。

しかも、インターネットは国境を越えるため、当然、海外メディアなどが発信した情報を私たち日本人がリアルタイムに受け取れたりします。そして、ここのユーザーは自分が目にした情報に対し、自分なりにコメントを打って世に公表することもできます(Xでいう「リポスト」機能など)。

正直、新聞は速報性で、テレビは詳報性でインターネットに勝てませんし、また、インターネット空間では無数の情報源が存在するため、特定の媒体がユーザーを「囲い込む」ことなどできません。

当然、ある新聞社、あるテレビ局が虚報や偏った報道を垂れ流そうものなら、SNSなどを通じて大バッシングが生じますし、実際、一部の新聞社は現在、財務内容が極端に悪化して倒産寸前の状況にあるともいわれていますが、これもかつてインターネット上で大バッシングを受けたことも影響しているのでしょう。

ネットの欠点は「考え方の先鋭化」

ただし、インターネットには欠点もあります。

それは、「情報は自分自身で取りに行かなければならない」、という点です。

もちろん、ポータルサイトなどに行けば、その日の最新の話題などを目にすることはできますが、特定のテーマについて深く知ろうと思うならば、やはり自分自身で検索エンジンなどを使いこなし、それらを能動的に調べに行くという姿勢が必要でしょう。

また、最近のSNSやポータルサイトは、閲覧しているユーザーの個人的な傾向を学習し、その人の興味に沿った情報を選りすぐって表示する、という機能を実装し始めています。

このため、特定の主張に沿った記事しか読まなくなり、「世の中はこうであるに違いない」、などと勘違いする人も出て来る恐れがあるのです。想像するに、SNSなどの狭い空間に閉じこもってしまうと、だんだんと考え方が先鋭化されていくのかもしれません。これが、いわゆるエコーチェンバーの問題です。

その典型例が、「反ワクチン信者」と「親ロシア信者」でしょう。

このうち「反ワクチン信者」は、コロナワクチンの接種が「人体に有害である」とする趣旨の主張をする人たちです。

こうしたサイトやSNSアカウントも多く、なかには「コロナワクチンはmRNAという、人体のDNAを作り替える」ものだ、「ワクチンを打つと数ヵ月以内に死ぬか、電波が頭に直接入ってくる」、などとする主張もありました(余談ですが、そのような人たちはワクチンを打たなくてもすでに電波が頭に直接入っているのかもしれません)。

そうしたサイトばかり読んでいると、「コロナワクチンの接種は人体に有害だ」と信じる人が出て来るのも仕方がないかもしれません。

また、ロシアによるウクライナ侵攻を巡っては、「じつは『ディープ・ステート』の陰謀だ」、「ロシアは全然悪くない」、「ウクライナはユダヤ人に乗っ取られている」、といった主張を見かけることもあり、なかには(敢えて実名は出しませんが)かつてはネット上で一世を風靡した「保守論客」(?)の方もいるようです。

あくまでも個人的な主観ですが、こうした「反ワクチン」と「親ロシア」は、非常に相性が良いようです。

もちろん、当ウェブサイトとして「ワクチンの接種はしてはならない」、「ウクライナ戦争は『ディープ・ステート』の陰謀だ」、などとする主張を頭から否定するつもりはありません。これらの人たちが、ちゃんと科学的に納得できる根拠を示してくれるなら、逆に大歓迎です。

ただ、「反ワクチン」「親ロシア」などの主張の多くは、残念ながら科学的な根拠を欠いているのです。世の中のありとあらゆる情報には「根拠」が必要であるにも関わらず、です。

実際、これらの「反ワクチン」「親ロシア」の人たちに対し、「あなた方がそう主張する根拠を教えてほしい」とお願いしても、たいていの場合は無視されるか、個人のブログサイトや海外のよくわからないニューズサイトなどのリンクを提示されてお終い、です。

これらのリンクを張ってくれたユーザーに対し、「あなたはこのリンク先の記事の何をどう読んでそう考えたのか」、「あなたはこのリンク先記事に書かれている内容が正しいと、どうやって判断したのか」――、などと尋ね返しても、答えは返ってこないか、酷い場合には「ブロック」されてしまいます。

読売新聞が報じたエコーチェンバー

こうしたなかで、読売新聞が19日に配信した、こんな記事が興味深いです。

「エコーチェンバー」極端思考が仲間内で加速…抜け出した男性「集団はカルト宗教のよう」

―――2023/09/19 12:12付 読売新聞オンラインより

記事としては大変よくまとまっています。エコーチェンバーについて、「SNSなどで自分と似たような関心を持つ人々とつながる結果、同じ考えばかりが目に入り、思考が極端化して行く現象」と定義したうえで、その実例をいくつか列挙している、とても良い記事です。

これは要するに、同じような考え方ばかりが目に付くと、そのような考え方が世の中の圧倒的多数に支持されていると勘違いし、そのうえで、自分たちの考えに背く人たちに攻撃的な行動を取り始める、といった現象です。

読売新聞自身を含めた新聞業界自体が2009年の衆院選の直前、「同じような考え」ばかりを紙面に掲載し、有権者の投票行動を歪めたという実例を踏まえると、読売新聞にSNSを「エコーチェンバー現象」と批判する資格があるのか、という疑問点は、とりあえず脇に置くとしましょう。

このエコーチェンバー現象、最近、ネット上でやたらと目につくのも事実です。

ちなみに当ウェブサイトの事例でいえば、「反自民」を標榜する人たちでしょうか、「親キシダなのか、反キシダなのか、はっきりしろ」、だの、「次回の衆院選では自民党への不投票と日本維新の会や国民民主党への投票を呼びかけろ」、だのといった読者コメントがわくことがあります。

残念ながら、これらの要望に応えることはできません。

山手線の駅名を冠した怪しい自称会計士の場合、岸田文雄首相のことは「志も能力も乏しい人物だ」とは考えているものの、結局のところ、現実問題として政権を担い得るのが自民党であること、自民党がある種の「集団指導体制」にあることなどを踏まえると、「岸田首相が辞めたら万事うまく行く」ものではないと考えています。

また、同様に、自民党が選挙で惨敗すれば日本が良くなる、というほど短絡的なものでもないと思いますし、ましてや新党を作ってそれで日本を変えることができるほど、現実の政治は甘いものではないと考えている(『日本を変えるために新党をつくるという発想の非現実性』等参照)からでもあります。

「支持を強要」?週末のSNS騒動

こうしたなか、週末のXでちょっとした騒動がありました。

とある著名な評論家の方のアカウントに、べつの著名人が作ったという新党の支持者と称する人たちが、一斉に「攻撃」を仕掛けていたのです。

その攻撃内容は、「あなたも自民党を支持するのをやめて、その新党を支持すべきだ」といったものであり、酷い場合には「その新党はまだ政策要綱を出していないのだから、その新党に対する批判をしてはならない」、といったものもありました。

「支持の強要」。

本末転倒とは、まさにこのことでしょう。

非常に当たり前の話ですが、日本には政治の自由があり、思想・信条の自由があります。「お前は保守論客だから、自民党支持を止めてこの政党を支持するのは当たり前だ」、などと強要する態度は、まるで「右の共産党」のようです。

もちろん、その新党はSNSの公式アカウントを開設してからたった2週間で自民党を上回るフォロワーを獲得するなど、勢いがあるという点については同意しますが、その反面、党の綱領や政策、あるいは主要立候補予定者がよくわからない状況で、「支持する」も「支持しない」もありません。

(※あるいは、要綱や政策、候補者といった重要な要素を結党と同時に発表できないという事実だけをもって、「政治家としての実務能力」を推し量るうえでの材料としては、それだけでもう十分なのかもしれませんが…。)

いずれにせよ、社会のインターネット化が進んだことで、私たちは「特定メディアに囲い込まれて考え方を歪められる」というリスクからは解放されつつあるのですが、「SNSなどを通じ、自分で積極的にエコーチェンバーの罠に嵌りに行く人が出て来るかもしれない」というのは、これとはまったく別次元の問題なのかもしれません。

新宿会計士:

View Comments (19)

  • 新聞やテレビなどオールドメディアと言われる報道媒体が「報道しない自由」を駆使したことで信頼、信用を失った事に気づかない、、あるいは気付いていても気づかない振りをしているんだろうが、一度失った信用は取り戻すのは容易ではない。国民の代表づらをして権力側の忖度報道を続けたのだ。インターネットの出現で報復されるのは自然の流れだろう。我が家では新聞を購読しないで5年は過ぎた。ラジオに至っては45年は聞いてない。テレビはあるがNHK問題がある。撤去も考えてはいる。インターネットは瞬時に情報が取得できる。携帯電話一つで映画もみれる。カネは無料ではないがNHKみたいな無理矢理感はない。

  • SJWならぬIJWってところですかね。

    “individual”。

    自分の頭で考えず、他人に脳味噌を預けて生きていくのは楽ですが、そういう選択の結果が日本共産党員だったり旧統一教会だったり。

    某新党も入るかは、もう少し待てば分かりますかね?

  • 右の共産党

    標語にしても良い

    韓国を批判しかできないバカにはなりたくないものだ。

  • 伝聞情報ですが2つ目の東日本60代男性は、新潟日報の報道部長っぽいですね。大体情報は一致します。
    新潟日報報道部長ツイッター中傷投稿事件
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E6%97%A5%E5%A0%B1%E5%A0%B1%E9%81%93%E9%83%A8%E9%95%B7%E3%83%84%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E4%B8%AD%E5%82%B7%E6%8A%95%E7%A8%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    今ナザレンコ氏が訴訟中の共同通信名古屋支社の桜ういろう氏といい、こういう発言を継続的に行っている人物がメディア内にいるのに「報道の自由」だの「報道の正義」だののお題目は噴飯ものだと思います(勿論、数点のレアケースで一般論化するのは違うかもですが、氷山の一角で露見しない人物がもっといるという考え方もできます)

    因みに、私がアゼルバイジャンのアルメニア勢力攻撃を知ったのは、Xのオススメに流れてきた小泉悠氏のツイート(フォローはしてないけど、最近仔猫拾った話とか追ってたのでw)でした。リンクされてた海外配信社からリアルタイム更新のタイムラインで現状が確認できたので、正直テレビやニュースを追う必要性は感じなかったですね

  • 老舗から最近伸してきとる新興店まで軒を連ねる食堂街で、"店名と代表者らしき人物名だけ記載されたメニューとおぼしきモノの表紙"だけを見せられて「新店オープンしますヨロシクご贔屓に~」とか言われても、気の抜けた「ハァ」しか返せん気がする…
    名前からジャンルは創造できなくはないが同ジャンル内でも幅あるし…
    現時点でニラヲチ以上の厚遇求めてくる連中はスベカラク信心篤いエンスーかジャケ買いして中身聴かない買い物依存症者…カモシレナイ

  • サイトによって性格は違う。そのサイトには、同じ考えの人間が集まってくる。そうすると、段々と考えが濃縮されて来る。すると、少しでも、ズレた考えを言うと、異物を排除するかのように攻撃が始まる。リアルな世界でもある現象に見える。もの言えば唇寒しみたいな現象は何処にでもある。賢い人間は、そんな所からはそっと離れる。すると、残る人間は、極端な人間ばかりになる。そこから、本格的なエコーチェンバーが始まる。
    投稿者達の意見が単一化し始めたり、投稿者達の顔ぶれが固まってきたときは、要注意。

  • 一部日本保守党支持者と、一部保守論客の、程度の低い、カンガルー同士の殴り合いのようなやり取りがあったようですね。
    私自身、正直百田尚樹氏が好きでは無い。本音で言えば嫌いな方なんですけど、なぜか百田擁護のような意見を述べることになるのは大変に不本意なのですが言わせていただきます。

    一部支持者がおかしい活動をしたからといって、支持者全部、さらにその支持対象までおかしいというのはレッテル貼りの最たるものです。
    今回の、一部保守論客による、レッテル貼りをしてまで対象たる日本保守党界隈を貶めようとする様は、一言でいうと醜い。
    一部の犯罪や迷惑行為をもってして、その人の属性を断じる、主語を大きくするのは、マスコミが日本発のサブカル好きを攻撃するときや、隣国が日本を攻撃するときによく用いる手法です。
    Xで揉めた。バトルになった。
    それってその人ら当人同士の話に過ぎないのですよ。
    決して保守論客VS日本保守党支持者ではないです。
    私からみると、財務省の犬(保守論客に分類されている)VS一部過激なアカウント(日本保守党支持者らしい)
    それだけの話です。
    (一部日本保守党界隈と一部保守論客のバトルはいくつかあるようなので、会計士殿が例に出しているのが私が思っている出来事と違うかもしれませんが)

    このやり口、一部活動家が訴訟ビジネスとして利用している節がありますね。
    大衆に「ネトウヨ」などとレッテル貼りして罵詈雑言の限りをつくす。
    たまらず噛み付いた人に対して「名誉毀損された、精神被害を受けた」などと訴えて賠償金を勝ち取る。
    もしかしたらこの保守論客は、これを狙っているのかもしれませんね。

    •  お説に同意するものですが、しかしそういった見方をされてしまうという事実がある以上、支持者らは襟を正して慎重に発言をすべきとも思います。

       良い例としては、日頃はスポーツカーなのに安全運転を徹底するサーキット走行愛好者や、用具の不要な持ち出しやアピールを控えるサバイバルゲーム愛好者。高速走行や銃器など、人によっては反社会的とすら思われて色眼鏡で見られているのがわかっているからこそ、一般人よりも気を使ってひっそりとしている(事が多い)。
       そして悪い例としては、暴れる撮り鉄。もはや撮り鉄なんてロクでもないヤツばかりと罵られ、しかも度々事件を起こす(事もある)。お行儀の良い人が仮に99%だとしても、もはや属性だけで嫌われる対象とされがちで、ある個人が良くてもマナー違反者が確実に居るよねと反論がままならないほどになってしまっている。

       しかしこれ、かつては右寄りと言うだけで極右扱いされていた「保守」そのものが通った道でもある気がしますね。正論だろうが保守的だとウヨク。正しいとしても韓国の悪口はダメ。戦争のセの字もアウト。
       歴の長い保守派は、(百田氏らのような)派手な発言や威勢の良さに対しかえって警戒感があるかもしれません。そして私見ですが、こういった感覚の無い新しめの保守派が百田氏の支持者かもなと感じています。
       正しいことは正しいと押すべきとも思うものの、正しさを共感してもらうにはそういうわけにもいかないというジレンマ。

  • 本筋とは大きく外れますが、

    80年代後半から90年代初頭にバイク(2ストレプリカ)にはまったものとして
    部屋といえば「チャンバー」であり「チェンバー」という言葉は未だに違和感があります。

    • chamberの発音記号:tʃéimbər
      敢えてカタカナで書けば、「チェィンバー」⇒「チェンバー」

      「chain」の発音記号は[tʃéin]
      カタカナでは
      「チェィン」⇒「チェーン」

      「チャンバー」と呼ぶことは、英語表記をそのままカタカナ読みしたものでしょう。
      2サイクルエンジン業界では、チャンバーと呼んで、それを業界用語にしたということでしょうか。
      チャンバーの方が何となく、エンジンの燃料の吸気の為の広がり(容量)が有りそうと、誰かが考えてそういう呼び名にしたのか?

  • わたし自身何度か繰り返してきたことなので、反省、自戒を込めてコメントさせていただきます。

    人は自身の意見に反するものに出くわすと、その相手を説得、翻意を促そうとする。(相手を信頼していた場合は特に)
    いかに自説が正しいか主張し、時に相手を屈服させるまでエスカレートしてしまう。
    しかしそれは成功しない。相手には相手の正義があるからだ。最後には売り言葉に買い言葉、無益な言い争いが繰り広げられることとなる。

    「読売新聞ONLINE」のなんともありきたりな記事が取り上げられているが、その意図目的は透けて見える…

    記事に登場する愚かしい連中は、神代の昔からいた。「徒然草」?で似たようなことを読んだ記憶がある(間違いかも知れない)

    こういったネット上での不毛な言い争いの中でも、ちょっとした「果実」を見つけて驚くことがある。

  • > 同じような考え方ばかりが目に付くと、そのような考え方が世の中の圧倒的多数に支持されていると勘違い

    このような傾向は、サヨク、自称リベラルの人たちにもよく見られる傾向ですが、「圧倒的多数に支持されている」と思い込んでいるばかりではなく、「自分たちは正しい」「自分たちだけが正しい」さらには「自分たちの正しさが理解できない奴はバカだ」とエスカレートしていく方がよほど危険であると思います。このようなエスカレーションの果てに、「自分たちの正しさを理解できないバカを攻撃するのは正しいことだ」、さらには「正しい考えを持つ自分が間違った考えを持つバカを攻撃することは正しいことなのだ」となり、遂には"バカ"を攻撃することで自分の正しさを自分自身のために証明しようとし始めます。

    私がオールドメディアの衰退とインターネットの普及を、必ずしも手放しで歓迎すべきことだなどとは考えない理由の一つがここにあります。インターネットの普及により、確かに我々はオールドメディアの発信する情報に頼らずとも「正しい情報」を得られるようになりました。しかし、同時に膨大な「正しくない情報」「偏った情報」に触れるようにもなりました。さらに個人が簡単に情報を発信することができるようになった結果、「正しくない/偏った情報」もまた大量に発信されるようになりました。言い方を変えれば、マイクロ蛸壺の形成もとても簡単になりました。相互発信が容易になったことから、そのマイクロ蛸壺の内部では、まさにエコーチェンバー効果によって、先鋭化/過激化もまた簡単に進行するようになりました。結局のところ、「情報の質」に対する判断がすべて個人に委ねられることになったため、その判断の妥当性の基準が曖昧になってしまったということもできそうです。

    別に、あえて新聞やテレビなどのオールドメディアを擁護するつもりはさらさらありませんが、良くも悪くもオールドメディアの情報発信には一定のラインがあり、そのライン以下の信頼性しかない情報を発信することはありません。ただし、各社ごとにフィルターがあり、そのフィルターを通されることで、情報に「角度」が付いたり、場合によっては情報自体が遮断されることもあります("報道しない自由"というやつですね)。でも、各社の"傾向"を予め弁えておけば、角度の付いた情報であっても、ある程度までは復元することもできるでしょう。
    一方、インターネットにはそのようなラインは存在しないので、「情報の質」については、すべて個人が判断するよりありません。そしてその氾濫する情報の海から「正しい情報(の一端)」を導き出し、さらに検索を重ねて「正しい情報の全容または概要」にまで至れるような人であれば、オールドメディアのフィルターを通した角度付き情報を復元することも、おそらくはそれほど難しくはないのではないかと思います。それは、言い方を変えると、情報元がオールドメディアであろうとインターネットであろうと、情報を鵜呑みにしてしまう人は容易に騙されうるということでもあるでしょう。

    結論としては、オールドメディアの衰退もしくは消滅とインターネットのさらなる普及は止めようもない流れであり、好むと好まざるとにかかわらず進行するが、それはより一層の個々人の情報リテラシーの向上がなされなければ、一層の混乱と混沌を齎しかねない。なぜならば、インターネットの普及は単に情報量の増大と相互発信手段を提供したのみであって、別に人間をより賢くしたわけではないからだ、ということです。情報量が増えたことによって賢くなったかのように思うのは、ただの、しかし致命的な錯覚です。

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