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「国語力崩壊の惨状」とはさすがに議論が飛躍しすぎ?

ウェブ評論サイト『文春オンライン』に昨日、『ごんぎつね』を小学生が誤読したというエピソードなどをもとに、「いま学校で起こっている国語力崩壊の惨状」、などと議論する記事が出ていました。ただ、大変申し訳ないのですが、この著者の方の「個別の事例から全体の問題点につなげる」という議論の運び方には、極めて大きな問題があるように見受けられます。

最近の若者は、なっとらん!

まったく、最近の若者ときたら!」

若者には常識もない!

最近の若い者は、なっとらん!

…。

このように、「最近の若者」を批判する意見というのは、一説によると、古代ギリシャの哲学者・プラトンの書にも登場するくらい、むかしから頻繁に見られていた表現なのだそうです。

いわく、「最近の若者は軟弱だ」、「最近は言葉が乱れている」、「もう日本はお終いだ!」…。

著者自身もすでに社会的には「若者」と呼ばれる年齢を大きく越えているのですが、先日、久しぶりに学生時代の友人と会ったときに、その友人が「うちの会社の若い奴はとにかく社会常識も知らん」、「俺たちの若いころは」…、などと述べていて辟易とした記憶があります。

そういえば、今から何十年も前の学生時代、テレビにも出演されているほどの有名人の方が執筆した書籍にも、「最近の若い奴には遊び心がない」、「俺たちが若いころは、女の子にモテるために日焼けをしたり、スキーに行ったりしたものだ」、などと書かれていたのを思い出します。

喫煙の歴史

ただ、この手の「最近の若者は…」、という言説、個人的にはあまり好きではありません。正直、言語も文化も、あるいは社会常識すらも、どんどんと変化していくのが通常ですし、変化する前のものが正しくて、変化したあとのものが間違っている、などとは言えないものです。

たとえば、喫煙ひとつとってもそうでしょう。

読者の皆さまのなかでも、とくに昭和以前の生まれの方ならば記憶されている方も多いと思いますが、かつては鉄道の車内でも、喫煙車にのれば、タバコを吸うことが可能でした。

しかし、『乗りものニュース』というウェブサイトに掲載された次の記事によると、2020年4月1日に改正健康増進法が施行されたことに伴い、鉄道や船舶を含む「多数の者が利用する施設」での原則屋内禁煙が義務化され、多くの鉄道車両から「喫煙席」が姿を消すことになったと説明されています。

消える列車の喫煙席 近鉄特急 700系新幹線 ただ喫煙車はサンライズで存続予定 なぜ?

―――2020.02.09付 乗りものニュースより

『エルゴジャパン』というウェブサイトに掲載された次の記事によると、鉄道の「分煙」の歴史は1900年の「鉄道営業法」という法律に始まったのだそうであり、およそ120年をかけて分煙、さらには車内禁煙へと進化を遂げてきた、という経緯があるのだそうです。

過去から現代における喫煙と分煙の歴史

―――2022.7.5付 ERGOJAPANより

タバコひとつとってもそうなのですから、社会常識はどんどんと変わっていものです(個人的には、あと一歩踏み込んで、「歩行喫煙そのもの」を禁止する法制を期待したいと思う次第ですが…)。

ちなみにどこかの怪しげなウェブサイトでは、「令和生まれの若者の社会常識のなさ」について議論したという、次のような駄文が掲載されていたようですが、これなどはもう論外でしょう。

【最近の若者は…】約1年で令和世代はどう変わったか

―――2022/07/07 07:07付 新宿会計士の政治経済評論より

清少納言さんに対する嫌味ですか?

こうしたなか、ウェブ評論サイト『文春オンライン』に昨日、ちょっと気になる記事が出ていました。

『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……●●●●が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状

―――2022/07/30付 文春オンラインより

記事タイトルには記事執筆者の方の名前が入っているので伏せています。

記事タイトルでもわかるとおり、「いま学校で国語力の崩壊が発生している」と訴えかけるものです。著者の方は「少年犯罪から虐待家庭、不登校、引きこもりまで、現代の子供たちが直面する様々な問題を取材してきた」という作家の方ですが、これがなかなかに強烈な記事です。著者の方は最近の子供が「文脈をロジカルに読み解く力自体も弱まっている」としつつ、次のように述べるからです。

それ以上に深刻なのは、他者の気持ちを想像したり、物事を社会のなかで位置づけて考えたりする本質的な国語力――つまり生きる力と密接に結びついた思考力や共感性の乏しい子が増えている現実です」。

これは、いったいどういうことでしょうか。

著者の方は、「不登校や虐待など、子供たちが抱えた生き辛さ」をめぐる長年の取材を通じ、すべての子に共通する問題点が「言葉の脆弱性」だと指摘。次のように述べます。

あらゆることを『ヤバイ』『エグイ』『●●』で表現する子供たちを想像してみてください。彼らはボキャブラリーが乏しいことによって、自分の感情をうまく言語化できない、論理的な思考ができない、双方向の話し合いができない――極端な場合には、困ったことが起きた瞬間にフリーズ(思考停止)してしまうんですね。これでは、より問題がこじれ、生きづらさが増すのは明らかです」(なお、発言のなかに当ウェブサイトに適さない表現が含まれていますので、該当する部分を削除しています)。

何でもかんでも「ヤバイ」、「エグイ」などと表現するのは大きな問題だ、というのが著者の方のご見解のようです。何でもかんでも「をかし」と表現した清少納言さんに対する当てつけでしょうか?(笑)

『かちかち山』という事例があってだな…

ただ、それ以上に驚くのは、都内の小学4年生の授業で『ごんぎつね』を「子供たちがとんでもない読み方をしている」というエピソードです。作中、主人公の「兵十」が死んだ母の葬儀の準備をしているシーンで、大きな鍋で何を煮込んでいるのかについて教師が尋ねたところ、生徒がこう答えた、というのです。

各グループで話し合った子供たちが、『死んだお母さんを鍋に入れて消毒している』『死体を煮て溶かしている』と言いだしたんです」。

もちろん、正解は通夜振る舞いの準備をしている描写なのですが、子供たちはこれを「死体を煮ている」と「誤読」したわけです。これについて著者の方は、こう述べます。

これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている」。

単なる文章の読み間違えは、国語の練習問題と同じで、訂正すれば正しく読めます。でも、人の心情へのごく基本的な理解が欠如していると、本来間違えようのない箇所で珍解釈が出てきてしまうし、物語のテーマ性や情感をまったく把握できないんですね」…。

はて?

これを単純に「読解力の問題」とみるべきなのでしょうか?

単純に「時代が違うから」、あるいは単純に「通夜や葬儀を経験したことがある子供が少ないから」、といった要因もあるのではないでしょうか?そもそも『ごんぎつね』自体が1930年代に発表された新美南吉の作品ですが、通夜振る舞いなどの風俗も、もしかすると新美南吉の出身地や時代背景を反映している可能性もあります。

(※この点、「通夜振る舞い」自体を民俗学的に研究したデータもあるようですが、深入りするのは避けたいと思います。)

さらに指摘しておくならば、「鍋で死体を煮る」というシーンは、日本の昔話である『かちかち山』にも出てきます。昔話を知っている子なら、そのゆな仮説が出ても不思議ではありません(※いわゆる「婆汁」。なお、最近のバージョンでは、こうした描写はあまり出てこないこともあるようですが…)。

なお、授業で『ごんぎつね』をどこまで取り上げたのかは知りませんが、この子供たちの発言が「問題だ」というのならば、それは子供たちの問題ではなく、単純に教員の教え方の問題でしょう。

議論が飛躍しているのは記事の側では?

いずれにせよ、これを「読解力の問題」、「心情への基本的な理解の欠如」などと決めつけるのは、いただけません。議論が飛躍しているのは、むしろ記事の側ではないでしょうか?

実際、このリンク先の記事では、議論は「国語力の問題」から「教育問題」、あるいは「現代の子供の問題」を行ったり来たりします。つまり、この著者の方が調べた個別の事例が、あたかも社会全体における問題であるかのような決めつけが目に付くのです。

なお、『ごんぎつね』のエピソードについても、小学4年生くらいになれば、「通夜振る舞い」を入り口として、そこから日本における死生観、民俗学的風習などに議論を発展させていくと、こうした議論に興味を覚える子供も多いのではないでしょうか?

結局のところ、「さまざまな現象をロジカルかつ有機的に関連付けて議論を構築すること」ができていないのは、この著者の方なのかもしれませんね。

新宿会計士:

View Comments (51)

  • 漢字を捨ててハングル文字にオールインしたどこかの国は、「語彙」について極めて貧弱化しているように感じられます。

    語彙が乏しい=感情のセルフコントロールが難しい
    語彙が乏しい=論理構築や読解能力が育ちにくい

    という読み取り方をするならば、それなりにフムフムと納得できる部分はあるよなぁ〜、とは思いましたが。

    もっとも、どこかの国では
    「口喧嘩するときの悪口のボキャブラリーは異様に豊富」
    とのことらしいので、語彙が貧弱との僕の見立てが間違っているのかもしれません。

  • ちょっとズレ(閑話休題)たコメントになります

    「喫煙と飲酒」
    喫煙者にモラルに欠ける方が多数いるとはいえ(飲酒と比較して)叩き過ぎ
    昔は「恩賜」「御料」がありました
    https://www.oricon.co.jp/confidence/special/54002/

    タバコ自動販売機を壊滅に追い込んだ「
    タスポ」同様のシステムを酒類にも適用させるべきです
     路上飲酒の禁止 (花見のための時期や時間を除き)タバコと同様にするべきです
     酒類広告の禁止 新商品発売一週間期限のみで全面禁止でよろしいと思います
     現在 アルコールの害がタバコの害を上回っているのはあきらかです

    • わんわん様

      趣旨同感なのです♪

      酒類の販売とか飲酒そのものを禁止しなくてもいいから、決められた場所以外の公共の場での飲酒とか酔っ払っての侵入を禁止して欲しいのです♪

    • >路上飲酒の禁止 (花見のための時期や時間を除き)タバコと同様にするべきです

      花見の時期こそ酒飲んで騒ぐような輩どもは,年に一度の満開の桜の美しさ…特に青空をバックにしての…を愛でたいと楽しみにしている人々にとって桜の美しさを台無しにする暴挙であり,極めて迷惑です.

      桜を見ながら酒を飲んで思いっきり騒ぎたいのならば,カラオケボックスあたりで満開の桜の映像をプロジェクターででも映しながら好きなだけやって下さい.

      さあ,ここからは,わんわん様の尻馬に乗ってズレを極限まで広げてさせて頂きます.

      そもそも酔っ払いが吐く息の嫌な臭さの原因の一つはアセトアルデヒドという立派な発がん性物質(シックハウス問題の有害物質として有名)で,無論この化合物は周囲の人間に対しても(喫煙者が吐く息に含まれる一酸化炭素やタール等と完全に同じ意味で)有害であり,喫煙者の呼気に有害物質が含まれているから喫煙者は電車に乗せるなという嫌煙権論者のロジックを敷衍すれば,飲酒者も電車に乗せてはならないという結論になる.

      それは極論にしても,飲酒に関しても喫煙と同様に,路上に限らず,駅や空港等の構内・公共交通機関の中・公園など公共のスペースでは禁止するのが妥当です.無論,煙草と同じく酒のテレビCMも論外.酒の無人販売も仰る通り煙草と同様に厳しく規制すべきですね.それから飲酒運転への誘惑とそれによる(飲酒運転の被害者にとっては)事故の悲劇を避けるため,高速道路のサービスエリアでは酒の販売は全面禁止しましょう.

      そして酒も煙草と同じく定価販売限定とし,定価の6割程度を税金として巻き上げ飲酒の害により増大している医療費の穴埋めに使うのが正しい.(煙草にかかっている税金には確か国鉄の年金債務なんて煙草と全く無関係な目的のもあった筈なので,飲酒の健康上の害による医療費増大に対応すべく酒への課税を強化するのは当然過ぎるほど当然の話)

      (そもそも酒の中毒原因物質であるエタノール(エチルアルコール)は煙草の場合のニコチンよりも遥かに質が悪い.ニコチン中毒の場合,中毒患者に宇宙服のような密閉ヘルメットでも被せて周囲に迷惑をかけない状況で好きに吸わせておけば理性や人格は破壊されない.だがアル中に好きに酒を飲ませれば,最終的に薬物中毒者と同じく理性が回復困難な形で破壊され人格も完全に崩壊し,周囲に暴力を振るう等の反社会的な犯罪行為も躊躇わなくなる.要するに酒のエタノールは麻薬や覚醒剤と本質的には同じで,中毒患者を…物質的な意味や生物種としてはともかく…社会的・心理的な意味での人間としては完膚なきまでに破壊し尽くす悪魔の物質ということ)

  • 結論はなんだろうと・・・
    最後のページにありました。

    >日本の国語教育をどう立て直していったらよいのでしょうか。
    >本当に子供の自主性を導く提示の仕方になっているか、自分で考える練習になっているかを先生や親が見直すだけでも、明日から改善できることは多いはずです。

    当事者の具体的な行動に落とせません。
    「意識高く教育しようね」てとこでしょうか。
    毒にも薬にもならない論考だと思いました。

  • >兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。

    時代を越えた文学の、時代を越えれなかった描写なだけですよね?
    ネトフリ版聖闘士星矢で瞬が男である事を保てなかったように、時代を越えれない、越えさせて貰えない描写もありますし。
    問題視する筆者の常識を先ず疑ってはどうかと。

    • なかなか想像力の豊かな子供達ですね。
      「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」
      何故こう思うのかを訊いてみれば、素晴らしい答えが返って来て、著者も子供達も良い勉強ができた筈です。

  • 質問がおかしいですよね。
    なぜ鍋で何煮てたなんて突拍子もない質問したのでしょうか?
    ごんぎつねのあらすじを知っている人でも鍋で煮るシーンなんかあったっけ?と思うような箇所ですよね。
    そんな事よりごんはなぜ兵十にいたずらしたのかとか、ごんを撃ってしまった兵十はその後何を思ったかとか考えさせたほうがよろしいでしょう。
    回答の消毒というのはいかにも現代の子供らしい発想でコロナが子供に与えた影響の事例にはなる程度の話。

  • アゴラの記事を読んでもそうですが、そもそも「疑われます」とか「必要だと思われます」とか「いいのかもしれません」とか、
    個人の意見を主語をぼかして一般論化させようとするような文章を書く人に国語力を語る資格はあるのでしょうか。
    疑っているのは本人で、必要だと思っているのも本人。他の誰かじゃない。主張したいならはっきり断定すればいいのに。いいのか悪いのか、本人の意見はどっちなんだと。

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